2013年8月24日
by kossii
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「反原発」という発見器

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SNSをやっていると、突然罵倒されることがある。おまえはバカだ、何もわかってないゴミだ、最低の広告屋だ、などと。
勝手に友達申請をして来たり、フォローして来たりして、ただ罵り上げて勝手に去って行く。そういう人たちの過去の言行を見ると、誰かの批判や誹りばかり。
そして、彼らにほぼ共通するキーワードがある。
「反原発」だ。

反原発ということなら、僕は3.11のとっくの前から反原発だ。自宅の電気は天然ガスによる自家発電でまかなっている。この装置は百万円以上かかった。発電は電気を使用する場所に近いほど効率が良い。都心のど真ん中に発電所があればエネルギー効率は2倍になる。
3.11の直後は、福島第一原発に最も近い避難所で炊き出しをやろうと言うことで、ケータリング業者を連れて行った。当時は宅配便のトラックも近づくのを拒否していると言われていた。南相馬は大きな避難所がないということで、いわきに行った。余談だがその年の秋頃から下腹部が痛むようになり、今年になって腫瘍が見つかった。その正体はわからない。組織を採って2回も病理検査をしたが未だ確定しないので治療もできずにいる。もしかしたら放射性物質ダダ漏れのとこに3回も行った影響かなーなどと思ったりもするが特に後悔はしていない。

僕の動きなどはまだ軽い。3.11後、震災地支援のために自分のことを犠牲にしながら動いている人は僕の周りにも数多くいる。
そして彼らは無言である。誰かを批判したり誹ったりすることなく、ただ動く。
動けば、いろんなことが見える。現地の人のこと、行政府の人のことがリアルに見える。そうすると、誰かを批判すればよいということにはなりにくいのである。

僕は、東電や、政府、官僚にも人物はいると思う。自分の知っている中にも、原発問題、被災地問題を解決するために身命を賭している人たちがいる。やったことの責任、あるいは犯罪行為があったならばその罪は問われてしかるべきだ。しかし東電はクズ、政府はゴミ、などと言いたくなる気はしない。

そんなことを言って、何になるだろうか?

反原発の声、反政府の声を結集すべきだと呼びかける人たちがいる。
クルマの陰に隠れて石を投げるように、誰かを馬鹿だゴミだと罵る「声」など集めて、どうなるだろうかと僕は思う。
むしろ良識ある人たちは目をそらすばかりではないのか。
汚物から目をそらすように。
SNSでもっと声を上げよう、と言う人もいるが、逆効果になっていないか。ツイッターは〇〇発見器とよく言われるが、もはや反原発も〇〇発見器と思われてしまっていないだろうか。
選挙の様子を見ていても、なぜこれほどまでに反原発の熱気が沈静してしまったのか僕も不思議ではある。一つの仮説としては、人々は、反原発が嫌なのではなく、反原発「派」に与するのが嫌になってしまったのではないか。

人々の平等と幸福を謳った共産主義が最も多くの人類を虐殺したように、日本の過激派が仲間同士で殺し合ったように、正義や主義主張を声高に叫ぶ集団の恐ろしさ、理不尽さを僕らは歴史から学んでいる。だから、美しいことを言う人を疑う。昨年の衆議院選挙で日本未来の党が惨敗したのも、社民党の窮状も、一般大衆のそんな心性から来ているのではないか。麻生太郎は人間的な失敗をするから大衆に支持されるのだろう。参議院選で山本太郎が当選したのは多くの人が反原発に共感したからではなく、ただ有名人だったからだろう。彼が反原発でなければもっと得票数は伸びていただろうし、無名人なら落ちていたろう。他の多くの候補がそうであったように。

原発などない方がよい。
1+1が2であるぐらい自明のことだ。ただ、そういう世界を実現するためには理性的な考察、議論、バランス感覚が必要だろう。「馬鹿」を100万回叫んでも、むしろ真に有益な声はかき消されるだけだろう。本当はいったい誰が反原発の流れの足を引っ張っているのか、SNSなどで反原発を叫ぶ人たちはこのタイミングで自問してみるべきではなかろうか。

2013年8月4日
by kossii
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タレントCMについて思うこと(前回の補足)。

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前回投稿したブログの内容について、Facebook上である人から執拗に罵られた。その人によると僕はあちこちで嫌われていて、馬鹿で、心のない人間のクズだとのこと。いまその場にいたら前歯を折ってやる、とも書いていて(これだけすぐに削除していたが)、犯罪の匂いも漂い出すほどだった。
自分としてはそこまで憎まれるような内容を語った気もしないのだけど、もしかすると、誤解を生じやすい書き方をしてしまったかもしれない。そのように反省した。タレントはいろんな意味で扱いがデリケートである。言葉には出さないまでも同じように憎んでいる人が他にいると困るので、補足の意味を込めて、タレントCMについて思っているところをもう少し書いてみようと考えた。

誤解が生じたのは文章の前半部だと思われる。「タレントはわがまま」「5千万だ、8千万だと契約料を取りながら」の周辺だろう。ここだけ読むと、僕がタレント批判をしていると感じられるかもしれない。
もちろんそうではない。クライアントにタレントを提案するのは僕らである(稀にクライアント側からタレントを指定してくることもある)。それだけの価値を認めているから提案するわけだ。海外と比べて日本の広告はタレントに頼りすぎ、という批判もあるが、15秒中心の環境下ではタレントで共感を獲得する方が効率がいい。それは日本の広告業界全体の共通認識であって、僕も例外ではない。
また、基本的にCMはタレントを育てようという姿勢で作られない。そこは他のコンテンツとやや異なるところだ。少し前なら新人発掘オーディションというものもあって、CMで次のスターを、という余裕もあったのだけど、今は「旬の人」を起用する。今ウケている人を利用させてもらおう、ということ。だから広告主がそれなりの金額を用意するのは理に適うと思っている。

タレント側が企画に口を出してくることについては、僕は仕方のないことと思う。出演交渉時に「企画次第」という返答をもらうことがあるが、これは当前の話だ。前述のように「いま利用させてもらおう」という気持ちで作られるわけだから、CMにはタレントのイメージを上げるものもあれば、残念ながら下げるものもある。 露出すればいいってわけではない。とはいえタレントサイドも危うい要素を拒否ばかりしていると、丸っこい、目立たないCMになってしまうことはわかっているから、タレントイメージを守りつつ積極的にどう押し出すか、企画の目利き力が問われて来る。そういう意味ではジャニーズなどは非常に巧みだと思う。SMAPも嵐も、馬鹿げたことはやるけども、決して滑らない。視聴者にウケるように持って行く。これはタレント側のセンスがなければできないことだ。ちょっと昔の話だけど、僕は実施前のグラフィック企画のことでキムタクに呼び出されたことがある。「本人が直接お話ししたいと言ってまして・・・」と。なんかいろいろ文句言われるのかな・・・と思ったが、本人はとても腰が低く、「僕みたいな素人がプロの方に意見するのも違うとは思うんですが・・・」と切り出してきて、自分のアイデアを話し出した。「たとえば僕が天使で背中に羽根が生えてるんですよ。それが裸で銭湯にいて、隣のおっちゃんの股間を気にしてじーっと見てるとか」「そういうのやっていいんですか」「いいよ、ねえ?(とマネージャーの方を見る)」「いや木村君、それはちょっと」といった会話が3時間続いた。帰ろうとすると「あ、ちょっと、また思いついたんですけど」と、途切れなくアイデアを出してくる。そして、どれもキレていて面白いのである。すごいな、と思った。まあこれは極端な例としても、今はタレント側もCM企画に積極的に関わる傾向にある。本音を言えば、面倒ではある。クライアントを通すだけでも大変なのに、さらにタレント側も、となると、労力が乗算的に増えていく感がある。でも、僕は僕のCMでタレントのイメージが下がるなんてことには絶対にしたくないし、面白いものにするために気持ちをひとつにできることもあるし、基本的には歓迎なのだ。

それから、僕がCDとして、いろんな人の気持ちを顧みず、ただ利用して銭儲けをしている、という印象を受けた人もいるかもしれない。そのようなことも言われたので。しかしそれは真逆である。
よく聞く話として、編集時にクライアントとCM監督がぶつかって喧嘩になり、結果的にその監督が出入り禁止になる、というのがあるけども、これはCDの責任だ。中に入ることもできなければCDの存在意義はない。コンテンツはいろんな人の思惑でできている。 CMならクライアントの思い、願い、期待があり、監督の意思があり、タレントの意思がある。それらが極力損なわれないように、そういったものをいったん引き取って、関わる全員が「これは自分の仕事だ」と言えるように持って行くのがCDの仕事だと思っている。
もちろんCDはクリエイティブ職であって営業ではない。しかし自分のやりたいことを主張するのが役割ではない。それでは壊れる。誰かが損をしたり、泣くことになる。むしろ皆のために自分を殺すのが役割ではないか。そんなふうに思っている。

キャスティング関係、タレント関係の方で、前回の投稿を読んで憤慨された方がもしいらっしゃったら、上に書いたことが自分の真意です。誤解なきようお詫びとお願いをします。

2013年8月3日
by kossii
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土屋アンナ降板問題に思うこと。

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タレントというものは、非常にわがままなのである。これは、一般の人たちの想像を超えて、そうなのである。
ご存じの通り僕は広告のクリエイティブディレクターという職業なのだが、タレントは常に悩みの種だ。5千万だ、8千万だといった年間契約料の上に、1回撮影するごとに数百万円の出演料を取りながら、「この企画ではやりたくない」と、撮影を拒否してきたりする。「この企画の、何が気に入らないの!?」と当惑することはしょっちゅうある。そんなにイメージを落とすような内容でもないのに・・・と。男優系にはとても協力的で神様のような人が多いが、特に女優系はキツい。

この企画拒否は、厳密に言えば契約違反になると思う。 しかし、だからといって契約を振りかざし、無理にやらせる、ということは僕らはしない。どこかで誰かがそういうことをした、という話も聞かない。それでは誰も得をしないからだ。ブスッとした顔で演技されてもいいものにならないし、万が一こじれて撮影ができなくなったらクライアント以下、いろんな人に迷惑がかかる。
だから、そういう場合は、キャスティングを通していったい何が不満なのか丹念に聞き出し、企画をやり直す。その場合、ハイハイと言う通りに従うわけではない。クリエイティブのレベルを落とすようでは負けだ。意外に、深く聞けば「なるほどそういう理由だったか」と了解することもあるし、「もっと弾けてほしいんだ」「もっとドラマとは違うキャラを出したいんだ」という積極的な要望であることも多い。タレントサイドもCMを面白く話題になるものにしたいという思いは持っている。そこからさらにいいアイデアが生まれることもあり、結果的に最初の企画より良くなった、ということもある。広告CDというのは、映画やドラマ、演劇で言うところのプロデューサーの立場に近いと思っているが、僕らの大きな役割は、タレント含む、そのコンテンツに関わる人たちの思いを取り込んで、全員をいかに満足させられるか、にある。

土屋アンナ降板騒動では、土屋アンナ側にもいわゆるタレント的わがままが多少はあったのではないか、と思う。制作側が折れてくるだろうと高をくくっていた部分はあるのではないだろうか。ただ、彼女側の不満は相当なものだったろうと推測する。悲しいことながら、タレントのスケジューリングにおいてCMは優先度最下位なのである。彼らは舞台や映画、ドラマを最優先する。たとえば舞台稽古が1ヶ月あれば、その1ヶ月はガツーンとスケジュールを押さえ、それ以外の仕事は一切しない、というふうにする。僕らはそのお余り、間隙を縫うようにして撮影するわけだ(最もお金を貢いでいるはずなのに・・・)。まあそれは愚痴として、タレントが舞台稽古に行かないというのは、他の仕事とブッキングしたとかそういう理由ではなく、進め方に異議ありという強い意思表示だと思う。逆に言えば、納得させてくれというメッセージだ。それに対して制作側は納得させなければいけない。そういう役割なのだから。

そもそも芸能界、音楽業界は狭い世界だ。だから、契約書はたいして重視されない。ある仕事で喧嘩したら、次の仕事で協力してもらえないから。貸し借りの関係、人間関係で回っている。その回し方にはいろいろあると思うが、全員満足クリエイティブを提示することで回していくのがCDやプロデューサーの仕事であると思う。
最近、ある映画の脚本を書かせてもらった。これが、撮影しながら内容がどんどん書き直されていく。プロデューサーと監督がどんどん手を入れる。ラストのセリフは撮影後、アフレコの段階で大きく変わった。驚くことではない。CMもそうだ。撮影しながら気づくことは多いし、編集してみてわかることも多い。その都度その都度、できる範囲で改良していく。クライアントによっては最初の企画コンテが役員会で通ってるんでそこから変わると困る、みたいなことを言うけども、そういう会社のCMはだいたいつまらない。現場にいる人がある程度の権限を持って柔軟にやっていけないと、いいクリエイティブはできない。舞台だってそうだろう。幕開け前日にセリフ変更、みたいなことはあると思う。だからそういう意味でも、CDやプロデューサーにはその都度クリエイティブで全員を納得させる腕力が求められる。脚本家としての僕にプロデューサーは「こっちの方が良いでしょう?」と説得してくる。多少自分の思惑と違っても、客観的に良くなっていれば納得するしかない。例の舞台は、原作者の代理人がGOサインを出したのがいけなかったと非難されているがそれは違うように思う。コンテンツというものはまず「やる」前提で進めていって、走りながら調整していくものなのだ。

この騒動で制作側が最も下手を打ったのはラストシーンの設定だと思う。原作者は24時間介護の身体障害者。彼女がそれでも希望を持って歌い続けるというストーリーのラストを、本人が死ぬシーンにしようとしたらしい。僕は演劇の世界はあまり詳しくないので言い方を慎重にしたいけども、それでもとんでもない話と感じる。人としてゆるせない感覚になる。それで関係者が納得するはずがない。そんなものを演じたら役者にまでトンデモイメージがついてしまうかもしれない。制作側は、倒れるだけのシーンに変更し、それでも納得してもらえなかったので倒れるのもやめた、と言っているようだが、それでは単に内容を弱くしただけ。それではそもそものクリエイティブ力についての不信を生んでしまう。かえって泥沼になる。こういう場合に関係者を納得させるためには、「その手があったか」という、もっと強くて視点の違うクリエイティブを提示しないといけない。そしてもし、それでも主演が降板するのを止められなかったら、土屋アンナ以上の女優を持って来るしかないだろう。前述したけども、タレントは舞台のためにスケジュールをがつんと空ける。その舞台にかけた俳優は多かったろうし、裏方で関わってきた人も多かったはず。その人たちのためにも、あらゆる障害を乗り越えて、逆に、ピンチをタフに利用して、さらにレベルを上げる。そのように動くべきではなかっただろうか。

一般の人の感覚では、エンタテインメント・コンテンツとは最初に契約があって、企画があって、後は粛々と進めてできるもの、となっているかもしれない。しかしそれでは逆にいいものはできない。リアルタイムでいろんな関係者がいろんな主張をし、そのケミストリーの中で育っていくものなのだ。妙な方向に育ったり、途中で元気なくしおれたり、爆発したりしないよう、僕らはその揮発性の花に注意深く毎日肥料をやり続けているのである。

2013年7月21日
by kossii
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ポリグリップの企画できました

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義母の見舞いに行った。その時聞いた数日前のエピソード。
誰かが見舞い品ででかい大福を持って来ていて、それを義母がひとかじりした。全部は食べきれないと思ったのか、「半分食べる?」と僕の末娘に渡した。4歳の幼稚園児、それを受け取って、「ばあちゃん、歯がついてる!」。大福に入れ歯がくっついて来ていた。
その話を聞いて真っ先に僕の心に浮かんだのは、「ポリグリップなら少量で入れ歯が安定!」というナレーション。ポリグリップの企画できました。絶対採用されないと思うけど。

2013年6月30日
by kossii
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軍隊メガネ

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初めての業界案件を担当すると、「えっ、そうだったんだ!」というサプライズ知識を得ることが多い。それが広告業の楽しみの一つでもある。最近メガネスーパーのクリエイティブをやらせてもらって、メガネについて「えっ、そうだったんだ!」を得た。これはメガネをかけて仕事している人にとって有益な知識だと思うので、ここで披露してみたい。
そもそも、「視力」とは何か。
僕は子供の頃2.0の視力を誇っていた。高校3年の頃、はしかで1ヶ月高熱が続いたせいで一時的に0.1ぐらいにまで落ちたが、徐々に回復して、現在は1.0と0.8ぐらいだ。運転免許は裸眼で通る。その話をすると、近視の人は例外なく「えーいいなー」と言う。日本人は遠くがよく見えるほど良い眼である、という思い込みを持っている。きっと子どもの頃から今に至る健康診断でそれが刷り込まれてきたのだろうが、それはどれほど意味のあることなのだろうか。だって、僕らは何メートルも先を見て仕事したりしない。PCのディスプレイと眼の距離は1メートルもない。よく考えてみると、現代人にとって何メートルも先の小さいものが判別できることに、価値があるのか。

昔、徴兵検査時に、視力はとても重視された。今でもそうかもしれないが、パイロットは視力が悪いとなれなかった。空中戦では敵機を先に見つけた方が圧倒的に有利だから。レーダーがない時代では、海戦もまた哨戒番の視力に頼るしかなかった。歩兵に求められたものも、遠くの的を判別できる能力だった。裸眼視力0.6未満の者は兵隊になれなかった。ちなみに0.6という数字は運転免許に必要とされる視力と同じだ。
今の学校制度は明治に森有礼という人が創り出したものだが、それは軍隊の仕組みを流用したものだった。40人というクラスの基本人数は、陸軍の1個小隊と同じ。前へならえ、休め、という動作も陸軍から拝借した。そして、健康診断時の視力測定も徴兵時の検査方式を持って来たのだと思われる。
問題は、多くのメガネ店が、いまだにその発想でレンズを作っていることだ。だいたい5メートル先でピントが合うように作るらしい。しかし前述したように、僕らは5メートル先を見て仕事したりはしない。遠くでピントが合うレンズで近くを見ながら仕事するとどうなるかというと、眼筋をずっと収縮させ続けないといけない。つまり疲れ目である。そしてそれが眼精疲労となり、体調全体が悪くなる。慢性疲労、肩こり、頭痛、etc.。
メガネ店が置いているレンズには、明確に大きな差はない。HOYAなどレンズメーカーのOEMだからだ。大きな差があるのは、検査方法なのだ。
視力だけ測定してレンズを作るやり方は、戦前の徴兵のやり方と変わらない。旧日本軍でなく現代企業に勤めているのなら、現代のやり方でレンズを作るべきだろう。
メガネスーパーは、その人の視力に、仕事環境、年齢による眼筋の衰え、まで調べてレンズを作る。これは時間のかかる非効率的なやり方である。しかし、そうすることで疲れないメガネができる。JINSなどは斬新なメガネを提案しているイメージがあるが、検査方法は非常に簡略されたもののようだ。せっかくメガネを作っても、眼が疲れるので作り直したい、と他店に行く人が多いらしい。
メガネスーパーのCMはレンズをフィーチャーしているが、その方がCMとして届くスピードが速いと計算したから。本当のUSP、優位性は、検査の丁寧さ、確実さにある。
メガネをかけて仕事している人で眼や身体の具合が良くないと感じている人は、マッサージに行ったり、サプリや薬を飲んだりするよりも、メガネを作り直す方が効果が高いかもしれない。

2013年5月17日
by kossii
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ベッカムのユニフォーム

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これはnp.事務所の壁にかけてあるベッカム選手からもらったユニフォーム。彼がレアル時代にマドリッドでCM撮影をした時、サイン付きでくれた。「SHIORIOKAZOO」というのは、僕KAZUYAと妻SHIORIと長女RIOと長男KAZUSHIを全部足して縮めたもの。
いつも笑みを絶やさない、気さくな人だった。子どもが大好きで、どんな子どもでも近くにいると機嫌がいい。もともとロンドンのスラムで育ち、そこからスターに這い上がった経歴があって、貧乏な家庭の子ども向けのサッカースクールを自費で開催したりしていた。 好物はピザハット。撮影現場の食事はビックリするぐらい豪華で東京で食ったらお一人様数万だろというぐらいの内容だったんだけど、本人は配達のピザハット。スタイリストがグラフィック撮影用のTシャツを選んでくれと言うので見に行ったらデカいトレーラーの中に100着ぐらいずらっと並んでいた。本人が好きなものでいいんじゃないかということになり、本人に選んでもらったらあっさり無地の白T。あの100着トレーラーはいったい何だったのだろうか。
スタジオの中で、グリーンバックでシュートするシーンを撮影していたら下に敷いていたシートがずるっと滑り、ベッカムがどってーんと思い切り転んだ。僕も含めその場にいたクライアント、エージェンシー、日本人スタッフ、 全員の心臓が凍り付いた一瞬だった。が、彼は大丈夫大丈夫と、こともなげに次のシュートを放ってくれた。皆一斉に「ほーーーっ」と胸をなで下ろす動作をした。
サッカー小僧がそのまま大きくなった、という印象だった。周囲がどんどんリッチになっていき、本人は子どものまんま。ピザハット。話し始めるとサッカーへの情熱をあのアクセントで熱く語って止まらない。
僕の印象では、清原和博、朝青龍関も似たものがあった。子どもっぽい。いいプレイができてると、超機嫌がいい。できてないと、激しく落ち込む。なんだか、見ていて微笑ましいというか。適切な言葉かわからないが「かわいい」のである。とても自分の発言に気を配れるような「大人」じゃない。
ちなみに松井秀喜は感情を外に出さないタイプのようだった。そこが人格者と言われ多くの人から愛される所以だろう。 撮影も、しっかり真面目に、何のおふざけもなく、きちんとやってくれた。
これまでいろんなスポーツ界の巨人に会い、撮影してきたが、なんだかイヤな人だなと思ったことは一度もない。

2013年2月24日
by kossii
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部下募集いったん打ち切ります

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前回このブログで部下募集の告知をしましたが、ここでいったん打ち切ります。
もしかしたら一人も来ないかもなー、と思っていたところ、予想を超える数の応募がありました。ありがたいことです。難解な課題に熱心に取り組んでくれた全ての応募者にお礼を言います。

2013年1月27日
by kossii
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おれの部下なりたい人?

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おれの部下なりたい人いるかね。肩書きはコピーライターになると思うが、「言葉いじり」は求めない。アイデアを出せる人。広い意味でアシストしてくれる人なら採用したい。

これまでnp.で何人か若いコピーライターを採用してきた。しかし残念ながら、ことごとくやめたり、やめさせたりしてきた。採用する時は大いに見込みがありそうで、期待をかける。ところが仕事になるととたんに使えない。成長しない。この現象はなんだろうかと悩んでいたのだが、一つの仮説に辿り着いた。 採用時、彼らは自分の表現力をアピールするために、宣伝会議のコピーライター養成講座で書いたコピーを持参することが多い。そういった表現物や、あるいはこちらから出した「〇〇のコピー」「〇〇のCM企画」を考えなさい、といった課題への回答を見て独創的なものがあれば評価するわけだが、そこに落とし穴があることに気づいた。それが独創的であっても「出題側の意図をどこまで汲み取って考えられたものか」がわからないのだ。僕は広告学校の最初の講義で、広告クリエイターにとって最も重要な資質は「思いやる力」であると話す。その商品のターゲットである生活者の気持ちになれる能力、そしてクライアントの思いや、エージェンシーの人たち、 CDやデザイナー、プランナーなど他のスタッフの意図や意思を汲み取れる能力だ。以前、コピーライター養成講座の受講生たちに「ターゲット視点は習ったよね」と言ったらそこにいた全員が聞いたこともないと答えて愕然となった。まあ、それはたまたま彼らが当たった講師がいい加減だったのかもしれないけども、若い人たちは広告についてかなり間違えた概念を抱いているようであり、思いやった上でコピーや企画を考えることのできない人が実に多いのだ。 広告クリエイティブほどチームワークが必要な仕事もない。広告は大人数がかかわるプロジェクトだ。各スタッフがそれぞれの役割と責務の下、ひとつの方向を目指し、ひとつの表現物を作り上げ、世の中に露出する。コピーライターならまずCDが何を求めているか理解しないといけない。デザイナーがどういうビジュアルを作ろうとしているのか予測し、それと相乗効果をもたらすようなコピーを考えないといけない。のだが、それどころか、たとえば時間すら守れない人がいる。何日何時までという期限があるのに、その1時間ぐらい前になって「まだできてません」とか言う。それが他のスタッフに迷惑をかけるという想像ができない。1案だけしか持って来ない人もいる。自分はこれがいいのだと、愚にもつかない案にぐだぐだとこだわってみんなの時間を奪う。そういう人たちは極端な例としても、ほとんどの若いコピーライターが手前勝手にしかコピーや企画を考えられない。ターゲットや他のスタッフを見ないで自分しか見ていない。クライアントの話、CDの話を聞いているようで何も聞いていない。聞くことの意味もわからない。「そうじゃなくて、こう考えなさい」と言うと「わかりました!」と返事は気持ちいいが、また同じ間違いをする。なぜ自分のやり方ではダメなのか?どうすればいいのか?という自問自答をしない。そして「自信がなくなりました」とやる気をなくしてしまい、何の成長もないまま存在理由もなくなってしまうのだ。

広告コピーとは何なのか、コピーライターとは何なのか、根本から誤解している人が多い気がする。そもそも、自信だって?実戦でろくにコピーを書いたこともないような人が、どこで自信を?僕もそうだし、米村も同じだと言っていたが、僕らはそもそもクリエイティブの仕事をうまくやれるなんて思ってもなかった。今でもそうだ。再プレ上等。もっと優れたアイデアを見ると、そういう発想があったかと、ひとつ得した気分になる。だから今でもどんどん自分が膨らんでいる実感がある(体重という意味でなく)。仕事もしないうちから自信があるなどという若者たちは、たぶんコピー学校でほめられたのを根拠にしているんだろう。でも、そういう人はよく考えてほしい。いわゆるコピー学校はコピーを書く側がお金を払い、コピーを評価する側がお金をもらう仕組みだ。君たちはお客さんとして褒められてるだけだ。君たちが進もうとしている仕事の世界は、お金をもらいながらほめられないといけないんだぞ。その圧倒的な違いがわかるかね。僕らはお遊びで広告を作っているわけではない。クリエイティブ・ビジネスをやっているのだ。手前勝手におもしろおかしなコピーを書いていればパトロンのような人物が現れて「ほう!このコピーはいいね。100万でどうかね?」なんてことは起こりえない(もし信じているとすれば冴えないオタクの前に突然美少女が現れる系ラノベの読み過ぎだ)。じゃあどういうコピーが金取れるんだよ!と心で唸った君のために 「クライアントにお金をもらいながらほめられるコピー」について数例を挙げてみる。 JAXAが宇宙ステーションで芸術活動をしている。そのブックレットの制作依頼があった。僕は宇宙飛行士が水の塊を浮かしたりしている様子を思い浮かべて、「お遊び」みたいなヤツか、と思った。しかしすぐに、そう思われていることこそが問題なのではないかと考え直した。そんなお遊びに立派な大学教授たちが関わるわけがないし、大きな予算がつくはずもない。よくよく考えるとこれは相当に重要な活動ではないかと。なぜなら、過去人類の芸術活動は全て重力の制約を受けていて無意識でそれが当たり前になっている。彫刻などの造形物は特にそうだ。無重力なら地上ではあり得ない造形物が可能となる。 ここから芸術の次のステージが始まる可能性がある。そこで、僕はブックレットのタイトルとコンセプトを「重力からの芸術の解放」とした。JAXAの人たちは、まさにそういうことが言いたかったんです、と喜んでくれた。 つまり、僕がやったのはコピーによってプロジェクトの価値を引き上げようってことだ。価値がないって思われたら予算取りも難しくなるだろう?Reebokの商品は、どれも独自の機能や性能を持っている。それを「反則?テクノロジー」と呼んでいるわけだが、特化した機能のないウェアが発売されることとなった。機能よりファッション性を重視したカラフルなデザインなのだが、Reebokのシリーズとしてどういうセールスコピーを付けていいか悩ましい。僕は「色彩効果」を調べてみた。すると、色が情動にいろんな影響を与えるらしいことがわかった。そのウェアの色はアドレナリン分泌をうながすと言えそうだったので、「アドレナリン・デザイン」というコピーを提案した。もちろんクライアントは大喜びした。 コピーがお金になるのは、そのコピーが商品の価値を高める時だ。いわゆる「キャッチコピー」というのはたいしたお金にならない。「つかむ」だけなら言葉でなくてもいいし、「つかむ」だけのコピーにクライアントは価値を見いださない。 巷のコピー学校ではあたかもコピーと言えばキャッチコピーであるかのように教えているようだが、それは大きな間違いだ。 もちろん、強いキャッチコピーが必要な局面もあるだろう。そういう時は、そういうコピーを書かなければいけない。繰り返すけども、大事なことは相手が求めるものを的確に読み取り提案する、意思と能力があるかどうかだ。 仕事の原則とは、誰かを喜ばせて対価を得る、ということ。広告クリエイターは例外、ということはありえないのだ。

もしnp.に入社したら、君の仕事はまず、雇い主でありCDである僕を喜ばせることである。具体的に言うと、僕が発想できない、あるいは見落としているアイデアを出すことだ。たいていの人は「これでいいでしょうか」と提出してくる。まさに自分しか見ていない。ここは学校じゃないんだよ!「それでいい」と僕がわかっているものなら、最初から自分で書く。この発想はなかったな、とベテランが思えるものを提出するのが若者の役割だ。そうやってCDを助けるんだよ。そういう意味で言えば、僕の部下としては女性の方が有利かもしれない。 そして、いろんなスタッフやエージェンシー、クライアントの人たちを喜ばせることで、自分のチャンスと可能性を拡げていくのだ。「かわいがられる」ってことだ。誰からもかわいがられないで成功したクリエイターなどいない。僕は新人の頃、安藤さんという人にかわいがられた。POOLの小西君は僕にかわいがられた。大貫さんや谷山さんは宮崎さんという人にかわいがられた。おかげさまで、僕が今でも何とか仕事を絶えずにいただけるのは、僕をかわいがってくれている人たちが存在するからで、その理由は彼らが求めるアイデアを出すからだ。正確にはいっしょに楽しめるアイデア、ってことかな。

なぜこれをnp.の公式HPではなく個人ブログに書いたかというと、何となく、オフィシャルに公募、という気分でもないから。正直言えば自分の求めている人が簡単に見つかるとは思っていない。そんなに期待していない。でも、もしかすると自分の知らないところにいい人材が隠れているのでは…?という一縷の望みも持っていたりするのだ。
話が長くなったが僕が求めているアシスタント像をまとめてみる。 まずは上でくどくどと述べたように、思いやる力のある人。誤解しないでほしいがこれはクライアントの言いなりになるということではない。相手の期待にサプライズを持って答える意思と能力のことである。僕は広告学校で「2案発想」を勧めている。相手の意図をしっかり汲んで考える案と、自分ならこういうのがいいという案。プレゼンでも社内打合せでも「2案発想」が基本だと思う。これができる人。
何でもやりたい人。「3Dプリンター買っていろいろ試してみたいんですが」と言ってくるような人がいい。コピーは昔のコピー年鑑にはなく、時代との関わり方の中で見つかるもの。おかしな話だが、コピーは書けるが広告は考えられない、という人も多い。言葉をいじるしかできないという人は逆にコピーライターは無理。「コピーライター」という名称がもはや時代にあってない感はある。いまやコピーライターの守備範囲は広い。 あらゆることをやらないといけない。僕は大きな商品の市場導入戦略もやれば、CM企画もやれば、WEBも、店頭も、販促物もやる。スマホアプリも開発しているし映画制作にも関わっている。そんな中で、僕はコピーしか書けないので、という人は仕事がない。
大きな目線で時代を見られる人。広告の醍醐味は、世の中を動かす実感にあると思っている。たとえばプレイステーションを「ゲーマーのためのゲーム機」では なく「家族が仲良くなるためのゲーム機」と定義づけたのは広告だ。そのことに価値を感じた人たちが買ったことで商品がヒットし、みんなの生活が少し楽しく なったかも知れない。僕は常に時代を意識している。この商品をコピーでどう定義づければ、どう市場導入すれば、日本が少しハッピーになるだろうかと。一番 搾りのキャンペーンからご当地グルメが生まれたように、後々「君が楽しんでるあれはおれのアイデアが元なんだぜ」と言えるものをいくつ増やせるか。そうい うダイナミズムにやりがいを感じる人がいい。
自発性のある人。 与えられたものだけをやる、というような人は結局成長しない。自分の意見を積極的に出し、疑問を発し、あらゆることを耳でなく肉体で覚えることが理解するということであって、それが成長につながる。会議で端っこに座って黙々とメモを取るだけ、という人が実に多いけども、そういう人は会社と学校の違いがわかっていない。
遊ぶ人。遊ぶという意味は、人との関わり合いを楽しむということ。学生時代にアルバイトばかりしていた、女を追いかけ回してばかりいた、そういう人がいい。人間は何をすれば喜ぶのか、怒るのか、人間は何が情けないのか、素晴らしいのか、そういったことを身体で知ってなければクリエイティブの仕事なんて無理。上っ面のことしか考えられない。逆説的だがそういうことをしないでコピーの勉強ばかりしてました、という人は事務的な仕事が向いていると思う。
くだらないことを考えられる人。僕はイメージと実態にかなりの乖離があるらしい。理性的で筋の通ったものを好むように思われがちだが実はネイティブの大阪人だ。「くだらねえ!」「馬鹿馬鹿しい!」ものを好む。
そして、自分はだめコピーライターだなあと思っているぐらいの人がよい。 でも、チャンスを逃がさない人。どんなことをしてでも自分のコピー、自分の企画で決めてやろうという根性のある人。その気さえあれば、僕の会社にチャンスはごろごろ転がっている。

もしチャレンジしてみたいという珍しい人がいたら、www.noproblem.co.jpから連絡を。

2013年1月2日
by kossii
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ヨイトマケの唄に思う

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昨年の紅白歌合戦は後半、最高の視聴率だったそうだ。注目アーチストが多数出場していたことが追い風になったのだろうが、視聴者を最も感動させたとしてネットで話題を独占したのは美輪明宏「ヨイトマケの唄」だった。ヨイトマケとは土方の蔑称。土方の子として馬鹿にされながら育った子が、大きくなって母に感謝するという唄だ。
僕はこの唄に籠められた気持ちがよくわかる。これに近い経験があるからだ。
僕の父親はもともと大手の化学会社に入社し、かなり実績を残したらしい。ただ高卒だったため大卒の後輩に出世競争で追い抜かれていくことに不満を感じ、小さな工場の引き抜きに応じてしまった。それからが転落の始まりで、仕事のやりがいはなくプライドが損なわれる日々で、酒に浸り続け、家に金を入れなかった。母親が早朝にヤクルトを配達し日中事務員をやって、家計をなんとかしていた。
中学の頃、同級生と喧嘩になった。そいつの家は父親が働く工場の目の前にあって、僕の父親が働く様子をよく見ていたらしい。そしてこう言った。「おまえなんか毎日毎日フォークリフトで汗水垂らして働く工員の息子やないか。母ちゃんもヤクルト配っとるやないか」と。今でも鮮明に覚えてる。子どもにとって親のことを罵られるのは、それはそれはキツいものだ。取っ組み合いの喧嘩になった。
やがてわずかな給金を少しずつ貯めて、母親は小さな家を買った。僕が静かに勉強できる個室を与えるためだった。
そして僕は今、両親の生活の面倒を見ている。
「ヨイトマケの唄」は土方の唄じゃない。子どもを一所懸命育ててくれる父母というものへの賛歌だ。それが、民法ではずっと放送禁止とされている。「ヨイトマケ」が差別用語だということで。
人の心に傷をつけるぐらいの強い言葉だからこそ、人の心をより良い方に変える力も持っているのだ、という発想がない。
日本からどんどん本質論が失われ、表層論の勢力が増している気がする。その正体は保身だろう。臭いものに蓋をする。事なかれ主義。社会のことを考えるふりをして、自分のことを考えている。
豊かな社会は個人主義、保身主義を生む。でも日本はいよいよヤバいらしい。
本質論で、社会のことをみんなで考え合う、そんな年になってほしい。
2013年。今年もよろしくお願いします。

2012年12月16日
by kossii
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僕が改憲してほしい理由

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僕は改憲に賛成。とは言え、それは一条に限られるんだけど。第9条。特に第2項だ。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という一文。
なぜなら、これがあるために、「ルールなんて勝手にねじ曲げるもの」ということが日本人の当たり前になってしまったからだ。「赤信号みんなで渡ればこわくない」のルーツはここにあると思うわけ。
もともと裁判所は、自衛隊は戦力に相当するので違憲であるとの判決を出している。政府は自衛隊を「戦力に至らない程度の必要最小限度の実力」と言い張ったが、これは苦しすぎる。これが許されるなら、どんな法律だって拡大解釈が可能になる。
日本はほんとうに法治国家なのかと思うことが実に多い。高速道路で制限速度を守って走る車などほとんどいない。捕まる車はたまたまネズミ取りや覆面パトなどに捕まった運の悪い車である。10キロオーバーならまあ仕方ないが40キロオーバーは過剰だろう、というのは勝手な主観でしかない。戦力ではないが実力ならいいという理屈と同じだ。じゃあ20キロオーバーならどうなのか?そこは取り締まる側の主観、あるいは気分、ノルマ、に左右されてしまう。法治ではなく人治なのだ。つまり日本人にとってルールとは「力のある側が状況によって変えていい基準」でしかないのだ。
昨年、当時の菅首相が浜岡原発に停止要請を出し、中部電力はこれを停めたのだけど、僕はあれもいかがなものかと感じた。なぜなら、浜岡原発については近隣の住民との間で運転差し止めを巡って係争中で、地裁の判決は請求棄却、原告が控訴中であった。菅元首相は「裁判所の判断なんかどうでもいい、とにかく停めろ」というメッセージを送ったわけで、こういう司法軽視、ルール軽視について僕はいかがなものかと感じたわけだ。
ルール軽視風潮は仕事をする上でも非常に困る。たとえば競合プレゼンで、オリエンテーションの規定をどれだけ守るのか。決められた予算を大幅に超えた「見栄え」のよい企画が通る、なんてことも多く、実現不可能な提案、絶対に起用できないタレントを提案した代理店が獲る、といったこともまかり通っている。そういう場合はルールに従って、実現できないことが判明した時点でその代理店の提案は無効にならなければ話がおかしいのだけど、そうならない。再プレゼンの時間がないということで、ルール破りが勝つのである。これまで正直にルールを守ったことで落としたプレゼンが何回あったか数え切れない。そして、これが重要なポイントだけど、ルールを破ったことはほとんど非難の対象にならないのだ。かくて実現可能な良企画、それを提案した良スタッフが沈んでいく、これが広告業界の実態だったりするが、きっと他業界でも同じようなことは多いんじゃなかろうか。
そもそも日本人がルールや契約を嫌うのは、基本的に単一民族国家だからだろう。家族の間でルールを決めたり契約を結んだりするのか?という心情に近い。多民族多文化国家である米国でルールや契約を軽視するととんでもないことになる。言わずもがな、というのは日本人の美徳だ。しかし、ルールが怪しくなることで、逆にこのあたりも怪しくなってきている。
ルールがマナーに近づく分、マナーがルールに近づいていく。たとえば電車内で電話をする人。大声でしゃべっていたらうるさいかもしれないが、周りに気を遣いながら小声でしゃべっている分には全然気にならない。「周りに気を遣いながら」が重要なのだ。赤信号を「轢けるもんなら轢いてみろ」とばかりにどうどうと渡る歩行者はムカつくし、一瞬「轢いてやろうか」という気にもなるが、「すいませーん」と早足で渡るならそんなに気にならない。周りに配慮しようね、というのがマナーの本質だ。ところが街中であれやるな、これするなの禁止ポスターのオンパレード。マナーがいつしかルールになっている。そして、ルールさえ守ってればいいだろと、通勤電車で堂々と化粧したりメシ食う人が増える。そのうちこれもまた禁止ポスターが貼られるだろう。
日本にはきちんとしたルールもなければマナーもない。これでグローバル化、ましてやTPP参加なんてできるんだろうか?グローバル化、というのはグローバルでルールを作りましょうね、ということだけど、今の日本人がそれに馴染むかどうかはなはだ疑わしい。ルールはルールとして、きちっとする。マナーはマナーとして、その本質をきちっと押さえる。そのためにはまず、第9条第2項の拡大解釈を今すぐやめるべきだと思うのだ。
ところで僕は第9条の第1項も改めるべきと思うが、その理由はまた違う機会に書きたい。