週刊スピリッツの善意

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2011年3月、僕はいわき市の避難所に炊き出しに行きました。
当時は放射性物質が東京にも大量に来てると騒がれていて、西に疎開する人が多くいました。僕はへそ曲がりなので逆に福島第一原発に最も近い避難所にボランティアに行ってやろうと思ったんです。

CM撮影の現場では、「ケータリング」と呼ばれる業者さんが食事を作りますが、けっこう工夫が凝らされていて美味い。映画やドラマではコンビニ弁当ですませたりということもあるようですが、CMでは食事の質は非常にうるさく言われます。おそらくクライアント商売というカルチャーでそうなっているのでしょう。
僕は被災者の方々はすでに自衛隊のカレーや豚汁には飽きているだろうから、美味いケータリング業者を雇って避難所に行こうと考えたわけです。
そこである業者さんに声をかけたところ、彼らは「それなら自分たちのお金でやりたい」と言いまして、初回は彼らが主体、僕らがサポートする、というカタチを取りました。現地でいろいろ取材して、万全を期して2回目を自分たちの資金でやろうと考えました。

僕のマネージャーが福島の議員さんに連絡を取ったところ、南相馬は大きな避難所がない、ということだったので、いわき市の避難所で実施しました。
避難所は学校の体育館でした。その中に入って驚いたのですが、震災からまだ2週間ほどしか経っていないのに、支援物資は文字通り山のごとくそびえ立っていました。僕はそれを見て、物質的な支援はこれ以上必要ないなと感じました。ただ、入り口の近くに設えられていた小さな本棚が気になりました。そこにはコミックや本が数冊置かれているだけで、食料や生活用品の山と対照的な心細さがありました。いま彼らに最も不足しているのは「娯楽」ではないのか?そう感じました。
避難所の子どもを捕まえてそのあたりについて尋ねると、本棚の本を皆で回し読みしていると。でも、全く回ってこないんだと、寂しげに答えました。いま一番欲しいものは何?と聞くと、「ドラえもん!」と叫びました。

帰京してから福島にケータリングに行った子細をツイッターに上げ、4月に再度行こうとしていることを語ると、週刊スピリッツのとある編集者から連絡がありました。
「本は必要とされてませんか?」と。
僕は即座に、「まさに必要とされてますよ!」と答えました。
その人は、小学館内の有志に声をかけて本を集めるので運んでもらえませんかと言ってきました。僕は、もちろんやぶさかではないが、どうせなら同行したらどうですか?と誘いました。

出発当日の朝、僕は目を疑いました。
彼らが集めた本は、デカい段ボール箱で十数箱あって、事務所の前に積み上がっていました。引っ越しかよ!と僕は心の中でツッコミを入れました。もともとはバス一台で行くはずが、仕方なく僕らだけ別班で自分のSUVを出すことにしました。
現地に着いてからは、炊き出しは従業員たちに任せ、僕は地元のボランティアの青年に案内され、本を配って回る運転手役を務めることになりました。
2,3カ所回って戻るつもりが、結局10カ所の避難所を回ることになり…戻った時にはすでに夜、炊き出しは終わってました。
前回の反省点を元に綿密に考えたメニューは好評で(後に週刊誌の特集にも写真が掲載されていました)、従業員たちはずいぶんとお礼を言われていたようですが、企画した僕は残り物にありついただけ。
ただ、配った本は子どもたちにとんでもなく喜ばれました。「ドラえもんあるよー」と言うと、まさに両手を挙げて「わー」と走ってくるのです。編集者たちはちょっと涙ぐんでいました。

僕は被災地での支援活動をそこでいったん中断としましたが、彼らはその後、福島から東北まで足を伸ばして、自分たちで本を配る活動をしていたようです。後日談として、営業再開した書店からクレームがついて困った、という話も聞きました。さらには、現地の方々と交わり、ずいぶんと様々な支援を広げていたようです。これには頭の下がる思いがありました。

いま問題となっている「美味しんぼ」の内容については、僕も大いに疑問を感じています。
放射線の影響で鼻血が出るなら、歯茎など他の部位からの出血も伴わなければ理屈に合いません。
綿密な取材に基づいた、ということですが、双葉町じたいは取材を受けていない、など、中立な立場からのメッセージであるようには見えません。

ただそこにスピリッツ編集部や小学館の悪意があったとは思えません。
守るべき作家性と世間への影響の間で苦悩したのではないかと想像します。
炎上商売ではないかという穿った見方もあるようですが、彼らの収益源は単行本、アニメです。週刊誌はそのための見本誌といった位置づけになっており、多少の売上げ増がただちに利益に繋がるわけではないと言えます。
彼らの中には、自分自身の活動として、実際に被災地に住む人たちとずっと交わって来た人たちがいます。
彼らが善意の人々であることを自分は知っています。