土屋アンナ降板問題に思うこと。

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タレントというものは、非常にわがままなのである。これは、一般の人たちの想像を超えて、そうなのである。
ご存じの通り僕は広告のクリエイティブディレクターという職業なのだが、タレントは常に悩みの種だ。5千万だ、8千万だといった年間契約料の上に、1回撮影するごとに数百万円の出演料を取りながら、「この企画ではやりたくない」と、撮影を拒否してきたりする。「この企画の、何が気に入らないの!?」と当惑することはしょっちゅうある。そんなにイメージを落とすような内容でもないのに・・・と。男優系にはとても協力的で神様のような人が多いが、特に女優系はキツい。

この企画拒否は、厳密に言えば契約違反になると思う。 しかし、だからといって契約を振りかざし、無理にやらせる、ということは僕らはしない。どこかで誰かがそういうことをした、という話も聞かない。それでは誰も得をしないからだ。ブスッとした顔で演技されてもいいものにならないし、万が一こじれて撮影ができなくなったらクライアント以下、いろんな人に迷惑がかかる。
だから、そういう場合は、キャスティングを通していったい何が不満なのか丹念に聞き出し、企画をやり直す。その場合、ハイハイと言う通りに従うわけではない。クリエイティブのレベルを落とすようでは負けだ。意外に、深く聞けば「なるほどそういう理由だったか」と了解することもあるし、「もっと弾けてほしいんだ」「もっとドラマとは違うキャラを出したいんだ」という積極的な要望であることも多い。タレントサイドもCMを面白く話題になるものにしたいという思いは持っている。そこからさらにいいアイデアが生まれることもあり、結果的に最初の企画より良くなった、ということもある。広告CDというのは、映画やドラマ、演劇で言うところのプロデューサーの立場に近いと思っているが、僕らの大きな役割は、タレント含む、そのコンテンツに関わる人たちの思いを取り込んで、全員をいかに満足させられるか、にある。

土屋アンナ降板騒動では、土屋アンナ側にもいわゆるタレント的わがままが多少はあったのではないか、と思う。制作側が折れてくるだろうと高をくくっていた部分はあるのではないだろうか。ただ、彼女側の不満は相当なものだったろうと推測する。悲しいことながら、タレントのスケジューリングにおいてCMは優先度最下位なのである。彼らは舞台や映画、ドラマを最優先する。たとえば舞台稽古が1ヶ月あれば、その1ヶ月はガツーンとスケジュールを押さえ、それ以外の仕事は一切しない、というふうにする。僕らはそのお余り、間隙を縫うようにして撮影するわけだ(最もお金を貢いでいるはずなのに・・・)。まあそれは愚痴として、タレントが舞台稽古に行かないというのは、他の仕事とブッキングしたとかそういう理由ではなく、進め方に異議ありという強い意思表示だと思う。逆に言えば、納得させてくれというメッセージだ。それに対して制作側は納得させなければいけない。そういう役割なのだから。

そもそも芸能界、音楽業界は狭い世界だ。だから、契約書はたいして重視されない。ある仕事で喧嘩したら、次の仕事で協力してもらえないから。貸し借りの関係、人間関係で回っている。その回し方にはいろいろあると思うが、全員満足クリエイティブを提示することで回していくのがCDやプロデューサーの仕事であると思う。
最近、ある映画の脚本を書かせてもらった。これが、撮影しながら内容がどんどん書き直されていく。プロデューサーと監督がどんどん手を入れる。ラストのセリフは撮影後、アフレコの段階で大きく変わった。驚くことではない。CMもそうだ。撮影しながら気づくことは多いし、編集してみてわかることも多い。その都度その都度、できる範囲で改良していく。クライアントによっては最初の企画コンテが役員会で通ってるんでそこから変わると困る、みたいなことを言うけども、そういう会社のCMはだいたいつまらない。現場にいる人がある程度の権限を持って柔軟にやっていけないと、いいクリエイティブはできない。舞台だってそうだろう。幕開け前日にセリフ変更、みたいなことはあると思う。だからそういう意味でも、CDやプロデューサーにはその都度クリエイティブで全員を納得させる腕力が求められる。脚本家としての僕にプロデューサーは「こっちの方が良いでしょう?」と説得してくる。多少自分の思惑と違っても、客観的に良くなっていれば納得するしかない。例の舞台は、原作者の代理人がGOサインを出したのがいけなかったと非難されているがそれは違うように思う。コンテンツというものはまず「やる」前提で進めていって、走りながら調整していくものなのだ。

この騒動で制作側が最も下手を打ったのはラストシーンの設定だと思う。原作者は24時間介護の身体障害者。彼女がそれでも希望を持って歌い続けるというストーリーのラストを、本人が死ぬシーンにしようとしたらしい。僕は演劇の世界はあまり詳しくないので言い方を慎重にしたいけども、それでもとんでもない話と感じる。人としてゆるせない感覚になる。それで関係者が納得するはずがない。そんなものを演じたら役者にまでトンデモイメージがついてしまうかもしれない。制作側は、倒れるだけのシーンに変更し、それでも納得してもらえなかったので倒れるのもやめた、と言っているようだが、それでは単に内容を弱くしただけ。それではそもそものクリエイティブ力についての不信を生んでしまう。かえって泥沼になる。こういう場合に関係者を納得させるためには、「その手があったか」という、もっと強くて視点の違うクリエイティブを提示しないといけない。そしてもし、それでも主演が降板するのを止められなかったら、土屋アンナ以上の女優を持って来るしかないだろう。前述したけども、タレントは舞台のためにスケジュールをがつんと空ける。その舞台にかけた俳優は多かったろうし、裏方で関わってきた人も多かったはず。その人たちのためにも、あらゆる障害を乗り越えて、逆に、ピンチをタフに利用して、さらにレベルを上げる。そのように動くべきではなかっただろうか。

一般の人の感覚では、エンタテインメント・コンテンツとは最初に契約があって、企画があって、後は粛々と進めてできるもの、となっているかもしれない。しかしそれでは逆にいいものはできない。リアルタイムでいろんな関係者がいろんな主張をし、そのケミストリーの中で育っていくものなのだ。妙な方向に育ったり、途中で元気なくしおれたり、爆発したりしないよう、僕らはその揮発性の花に注意深く毎日肥料をやり続けているのである。