パラリンピックについて思うこと

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オリンピックとパラリンピックを区別しないでいっしょにすればいいじゃないか、という意見があります。
「あります」と他人ごとのような言い方しましたが、僕自身、率先してこのブログやSNSでそういう主張をしてました。

が、ここになって、オリンピックとパラリンピックは全く別のものなのでは、同一に見ることに無理があるんじゃ、と思い始めました。
ざっくり言うと、「国」を応援するか、「個人」を応援するか。
そういう点で違うものなのだ、とハッキリさせた方がいいのではということです。

パラリンピックは地上波でも放送されない。
なかなか盛り上がらない。
その理由としてオリンピックの閉会式が派手すぎて、世の人に「宴の終わり」感を植え付けていることが一つあると感じています。
だから、順番を逆にしてパラリンピックを先にやれば、オリンピックの露払い的な位置づけではあってもまだ注目される気がします。
そんなことを先日SNSに書き込みました。
でもそういうテクニカルな話でなく、本質的な部分でもパラリンピックには盛り上がらない理由があると思っています。
そこに踏み入る前に、なぜオリンピックが盛り上がるかを先に考えてみましょう。

人は誰かを応援します。
応援する相手は、自分の「代表」と感じられる人、あるいは人々です。
自分に最も近い代表は自分の子どもです。
子どもは自分の遺伝子を半分も受け継いでいるからです。
半分が自分ですから、自分の代表として世界で最も相応しいことになります。
人は、というか今存在している生物は自分の遺伝子を残そうという本能がありますから、自分の遺伝子の濃い者から優先的にその生存を応援します(全員がそうではありませんが)。
僕で言えば子どもたちが大学を出るまでメシを食わせ、スマホや玩具を買い与え、学資を出し、ということをやり、もしかしたら社会人になってから援助することもあるかもしれません。
独身だったら何千万円も自分のために使えたはずなのに。
理屈を超えた、本能のなせる技としか言えません。
もし孫、ひ孫ができたら遺伝子の薄さにつれて応援モチベーションも薄れていくでしょうが、赤の他人よりは強いんじゃないでしょうか。
そして、同じ民族も、薄くとも同じ遺伝子を共有してますから、他の民族より応援したくなります。
人にはそういう心理的機序が備わっているということです。

また、遺伝子によらず、後天的な要因で応援したくなる心理も人にはあります。
「人」を作るのは先天的要因だけでなく、後天的な育つ環境などもありますから。
僕が大阪に住んでいた子ども時代、周囲のほとんどは阪神ファンでした。
地元の同じ環境に住んでいる人たちだから、自分に近いものがあるわけで、これまた自分の「代表」と感じるわけですね。
阪神が勝つと自分が勝った気になるし、「ダメ虎」と言われると自分までダメの烙印を押された気になります。
カープを応援する人たちの中には地元民だけじゃなくカープ女子などもいますが、その動機はまた異なるものでしょうけど。

それを拡げていくと、「国」になります。
日本選手が勝てば自分が勝った気になるし、負ければ自分が負けた気になります。
だから、オリンピック始め、国際試合は盛り上がるわけです。
先天的な要因、後天的な要因が入り混ざってフィーバーするんですね。
スポーツ嫌いの人も国際試合となるとTVにかぶりついたりします(僕もその一人です)。

翻って、パラリンピックはどうか。
僕の仮説ですが、おそらく、同じ民族として、同じ国の中で暮らしている人であっても、健常者は障害者を自分の代表と感じない。
自分とつながらないんでしょう。
だから盛り上がらないのだと思います。

では、そこに感動はあるか。
あります。
泣きそうになります。
ただそれは、オリンピックの感動とちょっと違うものである気がします。
オリンピックも個人の頑張りについて泣ける、という部分はあるけど、そこはどの国の選手も同じはずなのにやはり日本選手が勝ったときにこみ上げてくるものがある。
でもパラリンピックは、純粋な個人の頑張りについて感激するんです。
もしかすると僕だけかもしれないけど、国とかすっ飛んじゃう。
普段は顕在化しない、自分の心の中に眠っていたものが叩き起こされる、その感動を喩えるならそんなかんじでしょうか。
いろんなしがらみを超えている意味で、よりピュアな感動である気もします。

すごく極論だけど、パラリンピックは国別対抗にしない方がいいんじゃないでしょうか。
個人戦に徹したらどうだろうと。
パラリンピックが国別対抗であることが、政治的利用につながる懸念もあります。
日本人にはパラリンピックに出場する障害者は、先天的な病気や事故によるものという感覚が一般的でしょうが、外国人選手の多くは戦傷兵です。
先日NHKの番組で見た記憶がありますが、ブッシュ元大統領を招いて「戦争に行って負傷してもスターになれるんだ」的行事をやったとか。
そもそもは平和の祭典なはずのものを戦意高揚に利用するってどうなんでしょう。
リオでは陸上でオリンピックより高いスコアが出たといったニュースが飛び込んできてますが、それはテクノロジーによるところが大きいですよね。
パラリンピックのテクノロジーが一般の障害者に有益なものとして降りてくるのは素晴らしいことと思います。
でもこれも妙な方向に行かないかやや心配です。
あらゆる視点から、オリンピックとパラリンピックの違い、パラリンピックはどのように再定義するのが正しいのか、そういったことを考えてもいいタイミングなのでは。