寄付とは投資ではないか

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飢えた人がいる。その人を助けるために、釣った魚をあげますか、それとも釣り竿をあげますか、という質問をどこかで見たことがある。魚をあげてもそれを食べてしまえばまた飢えてしまう。それよりは釣り竿をあげれば、本人の努力次第でもう飢えずにすむ。単にモノやお金を差し出すよりも、その人が自立できるように支援する方が寄付としては実がある、という考えを伝えているわけだ。
正しい考え方だと思う。でも、僕はもう少し掘り下げて考えたい。現実には、飢えた人は一人じゃない。たくさんいる。その全てを救えるわけじゃない時に、どの人に釣り竿をあげるべきだろうか。最も飢えている人にだろうか。最も器用な人にだろうか。
僕なら、自分が教わった釣り方を他の人たちにも教える人。釣り竿を他の人たちのために作ってあげるような人を選びたい。そうすれば、一人を助けることが、十人を、百人を助けることにつながっていく。その人を助けることが、世の中を助けることになる。
つまり寄付に必要なのは、誰を助けるかを見極めた上でレバレッジをかける、投資的思考なのではないか、と思っているわけだ。
僕は毎年児童養護施設への寄付を続けているが、2年前から自分独自のやり方を採り入れさせてもらっている。ある財団法人系の機関を通じて、児童養護施設の高校生から「これ」という子を一人推薦してもらい、その子の大学や専門学校の学資を出す。「これ」というのは、まず、その子のやる気、人間性、能力、家庭事情、といったものを総合的に見て、きちんと学校を卒業し、将来はちゃんと社会の役に立つだろうという見極めのこと。僕が今支援している子は、短大で児童心理学の資格を取り、卒業後は福祉施設で働くことを目標としている。互いに名前は知らない。僕のことを知りたがったそうだが教えないようお願いした。個人に借りを感じるのではなく世の中に感じてほしいからだ。
児童養護施設から大学へ進学するための民間基金は存在しているが、実態としてはうまくいってないらしい。成績が優秀で条件をクリアしたとしても、本人の精神の弱さや、家庭の事情で退学したりする例は多いと言う(児童養護施設の子は孤児とは限らない。親がいながら育児放棄されたり保護されるケースもある)。
それに、僕は人が自分の夢を叶え、社会の役に立つための進学は大学に限定されることはないと思う。短大でも専門学校でもいいはずだ。そういう、良い意味でルーズな制度が見当たらないので個人的に始めた。
そもそもなぜ人は他人のために寄付をするのか。それは人を助けるためだろうか。そうではなく、自分が救われたいからではないか。人間は本能的に、つながりを感じていなくては生きていけない動物だ。 自分も含め、寄付や支援をする人はその行為を通じて社会とつながることで、自分の存在を確認しているのかもしれない。寄付の反対語はもしかすると自殺ではなかろうか。
もちろん寄付にはいろんなやり方があるし、その全てが尊いと思うが、僕は今のところ自分のやり方を気に入っている。 手応えを感じることができるからだ。寄付をした後何年も、自分の投資がどうなるか楽しみにしていられる。ちなみに僕が協力してもらっている機関は中間でお金を抜かないので、出した金額がそのまま本人の元に届く。税金の控除もある。僕の業界仲間で、お金に余裕があって自分もやってみようかなという人がいたら、連絡ください。