コピー料=感謝料

Share Button

ブログアップがずいぶん久しぶりになってしまった。この夏は夏休みどころか土日も休めないぐらいだったから。
手が回らないので、若いコピーライターたちにコピーや企画を手伝ってもらった。そして、なんだか絶望的な気分になった…。
ざっくり言うと、なぜ、若いコピーライターたちは、仕事で役に立たないのか?ってこと。
結局、どの案件も時間を無駄にしただけで、自分が何から何までやることになってしまった。
以前から不思議には思っていた。たとえばコピーライターを募集する。課題を出して、コピーを書いてもらう。なかなか面白いコピーを書くな…と思った人を採用する。ところが、いざ実際の仕事になると、ちんぷんかんぷんのコピーしか出して来ない。その時のがっくり感ったら。
これは一体どういう現象なんだろう。
オリエンに連れていって、クライアントの商品への思いをいっしょに聞く。なるほど、なるほど、とうなずいているのに、それがコピーにまるっきり反映されていない。どこかで見たことあるようなレトリックが並んでいる。これじゃあそこらの商品のコピーと変わらんじゃないか?と言うと、泣き出したりする。その場に倒れ込む人もいた。この商品の優位性は何?と聞くと、ちゃんとしゃべる。わかってんじゃん。なんでそれを文字にできないの、と聞くと、ど、ど、ど、どう書けばいいか…とどもって震え出したりする。
その様子を見ていて、なんだか新興宗教の洗脳を受けた人たちみたいだなと思った。何かの思い込みとか呪縛が激しすぎて、自分で理解していても手が動かない。
彼らはどこかで得体の知れない洗脳を受けてるんじゃないだろうか?
1案だけ持って来る人も多い。しかも大外しで。意味がわからない、と言うと、いかにこのコピーが優れてるかを必死で主張し始めたりする。
わけがわからない。
僕が新人の頃どういうふうにコピー案を提出してたかというと、まず自分のお薦めを1案、CDやチームに見せる。これがお薦めなんですが…と言って。そうするとたいていは、うーん、どうかなあ、ちょっと違うかもなあ、みたいな話になる。そうですか、じゃあやっぱこういうことですか?と言って代案を出すと、こういうことだよ、最初っから出してよ-、みたいなことになる。もしそれも刺さらなければ、じゃあこの中にありますか?と言って50案ぐらいの束を出す。そしたら、「小霜、使えるヤツ」ということになって、いい仕事が来るようになる。代理店にいれば公平にいい仕事がもらえるということはない。いいコピーを書くヤツにいい仕事が行き、悪いコピーを書くヤツに悪い仕事が行く。広告クリエイターはその繰り返しでのし上がっていく。別に誰かに教えてもらったわけじゃない。それが当たり前だと思ってやって来た。
なぜ若いコピーライターたちは、CDやチームを怒らせたり、(使えねえコイツ)と思わせるような仕事の仕方ばかりするのだろう?
ふと思ったのだけど、コピー料や企画料がどうやって決まるのか、という根本のところから彼らは勘違いしているのではないだろうか。
以前、TCCでコピー料の基準を作ろうというプロジェクトがあって呼ばれたことがあるが、他の人が言っていることは僕には理解不能で、僕の言うことも他の人には理解不能だったようで、自然消滅してしまった。なぜ話が合わなかったのか、今ならわかる気がする。
僕が考えるコピーや企画の報酬の方程式はこうだ。
「コピー料や企画料は、感謝の大きさで決まる」。
クリエイティブに限ったことではないと思うが、報酬の大きさは感謝の大きさに比例する。これは報酬というものの大原則だろう。
いくつかの要素を与えて、コピーライターが文章としてそれを整理してくれたとする。その場合も感謝が発生する。それは「手間がはぶけた」感謝だ。報酬は1万とか2万とかそんなものかもしれない。
でもコピーで商品を規定して、その商品の価値が格段に高まったら、コピー料が100万以下ということはちょっとない。
僕のCD料も感謝料。僕のプレゼンで大きな扱いが獲れたら、あるいは守れたら、エージェンシーは500万とか、1000万とか払ってくれたりする。
払う側に共通して存在するのは、「助かった!」という気持ちだと思う。「このコピーでいける!助かった!」「この企画ならいける!助かった!」と。
これはCDとコピーライターの関係にもあてはまる。僕が若い人に発注するのは、新鮮なアイデアを期待してのことだ。そういうものが出て来たらやはり「助かった!」と思う。これでいいプレゼンができるぞ!と。そしたら、コイツ今度メシでも奢ってやろうとか、フリーだったらちょっとコピー料上乗せしないと、とか、次もまた発注しよう、とか思う。逆にどうしようもない1案に固執されたら怒りしかない。そんな時は僕に限らずチームの皆も(コイツ死ね)と思っているだろう。僕らはいつもギリギリで闘っているのだから。
この前自分の広告学校の受講生にそういう話をしたら、そんなふうに考えたこともなかった、広告クリエイティブって自己表現すればいいものと思ってました、と言っていた。
これ、と断定することはできないけども、若い人相手のコピー学校とかコピーの公募賞のあり方に問題はないだろうか。
なぜなら、そこで提出されたコピーは、誰にも感謝されることなどないのだから。
クライアント不在のコピーは、亡霊を相手に書いているようなものだ。それを褒める先生や審査員がいたとしても、「助かった」ではない。傍観者として「いいんじゃないの」と言っているだけだ。有料のコピー学校は、コピーを書く方がお金を払う。もらう側が「いいね」と褒める。実際の仕事とは真逆だ。そこで感覚が狂ってしまうんじゃないだろうか。売れない画家が絵を描いているとそのうちパトロンの目にとまって、この絵はいいねとお金を払ってくれる、コピーでお金をもらうとはそういうものだと思い込んでる人たちが多いんじゃなかろうか。
僕の無料広告学校では、僕はクライアントの立場になって受講生たちの案を見ている。その立場で見て「これは可能性ありそう」「これは試してみる価値あるかも」という案を評価する。僕は広告アイデアのベースは「愛」だと教えている。それは相手に「助かった!」と感じてもらうアイデアが上等だということ。
僕の事務所で働くコピーライターはかわいそうでもある。なぜなら、なかなかコピーが採用されないから。僕はいつも彼らのコピーや企画が実現されるといいなと思うし、そういう方向へ持って行こうとするのだけど、若手の案だけを提出するというわけにもいかないから、自分の案も混ぜておく。するとクライアントが選ぶのは常に僕の案。これが若手コピー、これが僕コピー、と教えるわけでもなく、僕自身、いいじゃないかと思うものを提出しているにもかかわらず。
「自己表現」をモチベーションとして書かれたものと、「助けよう」というモチベーションで書かれたものとの差なのかもしれない。
広告クリエイティブに必要なのは普通の感覚だと思う。チームを、CDを喜ばせて、エージェンシーを喜ばせて、クライアントを喜ばせて、生活者を喜ばせてお金をもらう。僕らがやっているのはそういう普通のことだ。普通の社会感覚、ビジネス感覚を身につけて、それからクリエイティブスキルを身につける、そういう順序じゃないと危ないんじゃないだろうか。