「板」か「テーブル」か

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いま、あなたは自宅の、あるいはオフィスのPCでこのブログを見ているだろうか。あるいはカフェでスマホやタブレットで見ているだろうか。だとしたら、目の前に木やガラス、ステンレスの「板」があると思う。それは一般的には「テーブル」あるいは「デスク」などと呼ばれたりもするはずだ。その、「板」と「テーブル」の違いは何だろうか。
その違いは、価値だ。板は売れない。たいした価値がない。しかし、誰かがそれを「テーブル」と呼んだ瞬間、1万円になったり10万円になったりする。人間が、「テーブル」という意味づけをすることで初めて、ただの板は価値を持つようになるわけだ。
価値というものは、人間がどういう意味づけをするかによって決まる。たとえば宝石。こんなものは何の実用性もない。ただ光の透過性が高くて数が少ないというだけのものだ。でも、それを身につけることでその人のステータスがわかる、という意味を持ったり、女性に贈る時に男性の愛情を測ることができる、という意味を持つことによって、何万円、何億円という価値が付加されるわけだ。
そして広告がやっているのは、まさにその意味づけによってモノに価値を付加しようということ。コンビニに行くと、いろんな種類の飲料が並んでいる。のどを潤すだけなら水道水で十分なのに、お茶だけでもいろんな銘柄を取り揃えている。なぜか?それは、僕らが飲料を飲む時、その飲料が持つ「気分」もいっしょにカラダに入れているからだ。チャレンジングな気分、ホッとする気分、本物の気分、馬鹿げた気分、未来的な気分、子供っぽい気分、天然な気分、コンビニにはいろんな種類の気分が並んでいるというわけだ。飲料という商品は、液体+気分で成り立っている。その気分という価値をくっつけているのは広告なのだ。自動車もそう。自動車のラインナップは、その自動車に乗ることの意味のラインナップだ。そして、その意味を作っているのは広告だ。
ツイッターで僕の広告学校の卒業生が、「広告やってても商品変えることはできないし」みたいな愚痴を言っていた。言いたいことはわかる。しかし、広告と商品が別物と思っているとしたら、その考え方は間違っている。広告は商品の一部なのである。飲料で言えば、ぶっちゃけどのメーカーのものも味に決定的な違いはない。だから、広告でどんな気分をくっつけるかによって価値が大きく変わってくる。むしろ広告が商品の大部分であると言っても過言ではないかもしれない。CMがヒットして商品が売れた、というのはCMによってそのモノの意味づけに成功したということだ。
広告というものの役割について一般的な人たちの認識はほぼ間違っている。広告業界自身の認識も不足していると思う。この商品はこれこれこうですよ、と解説するだけが広告ではない。馬鹿げたコントや情緒的なストーリーで生活者をいい気にさせるのが広告の本質でもない。過去に僕がやらせてもらったプレイステーションは広告で機能やスペックを語ったことがただの一度もない。いろんな人が楽しくプレイしている様を描くことで、ただのゲームマシンではない家族や仲間のコミュニケーションマシンなのだ、という意味づけをした。それが、ある人たちには大きな価値として感じられたわけだ。だから売れた。
ツイッターをやっていると、見も知らぬ人からいきなり「アホな広告屋」呼ばわりされることがしばしばある。おそらく、価値のないものを口八丁手八丁で売りつける詐欺師のような者と思われているのだろう。まあそう思われても仕方ない部分はある。しかし、広告は売れないモノをうまいこと売る詐話じゃない。意味づけによって売れる商品を作り出す科学だ。せめて広告に携わっている人はそのぐらいの矜恃を持っておくべきだと思う。