ナイキCMは下司なのか

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もう20年以上も昔の話。
当時、大手広告主の一部は海外での「賞獲り」目的の長尺CMを毎年制作していました。
カンヌなどで評価を得るためにはどうしても60秒ぐらいの尺が必要で、かと言って日本の地上波で60秒枠を大量に買い付けるのは現実味がない、ということで、どこかの安い番組枠で1回だけ流してオンエアの既成事実を作り、賞に出品するのです。
その中で印象深いものにFAXのCMがありまして。
若いカップルが長距離恋愛をしているのですが、帰宅してからFAXで手紙を送り合ってるんです。
その頃はまだメールというものがなく、今のメールのやり取りのようなことをFAXでやっているという、なかなかオシャレで気の利いたアイデア。
ラストシーンで、二人が久しぶりに会うのですが、踏み切り(だったかな)を挟んで眼と眼が合うや、手話を始めるんですよ。
やられた!ってかんじ。
二人はオシャレでFAX文通をしてたんじゃなく、電話ができない人たちだったんですね…。
きゅん、どころかどきゅん、と来ました。
CMのメッセージとしては、こんなところでもFAXは役に立ってるんですよというものですが、見事にしてやられました。

ところがこれをカンヌで上映したところ、評価どころか客席からは大ブーイングが起きたそうです。
理由は、
「障害をビジネスに利用するとは何事だ」。
これもまた、なるほどー!と、若い僕の心を撃ちました。
もちろん広告主の方々だって、障害者を利用して一儲けしてやろうなんて魂胆は1ミリとてないはずです。
でもそのような構造になっていること自体がもはや許されないのだ、マーケティングの姿勢として下司に見えるぞと指摘されたわけです。
これはある種、プロとしてのスノッビズムなんだなと理解しました。
売ればいいものじゃない、さらには、感動させればいいものでもない、感動の起点まで、採り上げるにふさわしいものか否か疑わないと、我々はとたんに卑しくなってしまうのだぞ、という。
ただ「感動したー」で終わらせていた自分はまだ浅い、カンヌの海外審査員深い、と、これもまたやられた!てかんじでした。
最近は意見広告が多く、社会問題を採り上げて拡散される事例も増えてきていますけども、本当に社会問題解決を目指した企業活動を告知しているのか、社会問題に乗っかって利益誘導を図っているのか、僕はその経験からけっこう厳しい目で見ています。
この線引きはなかなか難しくて、無邪気にやっちゃったんだろうなーという事例もあります。
昔の僕のように、指摘されて初めて「言われてみれば確かにー」みたいな。

さて、ナイキのCMが炎上気味になっていますね。
「日本に差別が常態化しているように描いている」と怒る方々もいらっしゃれば、擁護する方々もいらっしゃいます。
擁護する意見として、怒る人たちはナイキのターゲットではないのだから、彼らを排除していいのだ、だからこのCMはマーケティング的に成功なのだ、といったものもあります。
僕はどちらも違和感があるんですよね…。
昨今は「マーケティング」という言葉が一般層にも普及して、わりと軽く「マーケティング的にはさあ」と口にされるようになって来ました。
それにつれて、マーケティングというものについての曲がった理解もちょっと拡がっている感があります。
確かにマーケティングの設計をする時は計算高くやります。
理詰めで、何をどうすればどれだけのリターンが見込めるかを予測して、その通り、あるいはそれ以上のスコアが出れば成功、という世界です。
ただ、スコアが出れば何でもいいかと言えばそうではないはずです。
全ての商品、企業は人々の幸福に寄与するためにある、という大前提を忘れてしまうと、それはマーケティングとしては浅ましいものに成り下がります。
クライアントがいかに高潔さを失わずにビジネスを成し遂げるか、下司な企業に落とさないかも、我々が慎重に気を配るところです。
もしもナイキが、「よっしゃ、ブランドのプレゼンスを上げるために、いっちょ日本の差別問題に乗っかってやるか」という魂胆でCMを制作したのだとすると、たとえそれが思惑通りに行ったとしても、それは下司であると言えます。
なので、ナイキのCMについて、マーケティング的には成功だ、と褒めるのは、じつは褒めていることにならんのじゃないか、という気がするんですよね…。
ナイキってそんな企業だったっけ?と。

映画は観客が思い思いにメッセージを受け取っていいものだと思いますが、CMの場合はターゲットに「こう感じさせよう」という狙いがハッキリと存在します。
ナイキのCMはそれが何であるかと言うと、
「若者を困難から救い出すスポーツってやっぱ素晴らしい」
でしょう。
登場人物が「ありのままに生きられる世界、待ってられないよ」と言いますけども、これは、周囲に期待なんかしてないで実力だけがモノを言うスポーツに飛び込めよ、ってメッセージですよね。
これまでもナイキは世界の紛争地域や貧困地域などを採り上げて、いかにスポーツが若者を救ってきたかというCMを展開してきました。
これもその流れだと思うんです。
日本でもそういう、どうにもならない場所は存在するよね、スポーツにはそこで困難に直面している若者を救う機能も担っているんですよ、と。
だから、
「このCMを見て、スポーツの素晴らしさを再確認した」
というコメントが付いて成功となるはずなんです。
炎上するなら、
「スポーツの力を過剰に表現しすぎだろ」
とか言われて本望のはずで。

その視点で見ると、このCMはやや前半が重すぎる気がします。
どういうことかと言えば、「日本にも若者を苦しめる問題はある」「彼らを救うのはスポーツだ」と、大きく2つの要素でCMは構成されているわけですが、後半が軽すぎるんじゃないか。
だから差別の実態ばかりが強く印象に残ってしまって、スポーツ礼賛CMのはずが、ご意見CMとして受け取られてしまったのではないかと。
いやもしかすると逆に、意図的にそうしたのかもしれない…。
スポーツ礼賛CMのフリをして、差別を採り上げることで拡散を狙ったのかも…?
だとするとそれは下司なマーケティングです。
僕はそうは思いたくない。
だから、差別問題に斬り込んだナイキあっぱれと褒める気にはならないです。
もしあなたがナイキファンならば、「ナイキすごい」では褒めたことにはならなくって、「スポーツすごい」と言ってあげるべきでしょう。