プルシェンコって、飛雄馬じゃん。

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ソチでは波乱の末に羽生選手が金メダルをもぎ取ってくれたことでようやくひと息つけたといいますか、日本全体に安堵感が広がっているように見えます。
それまで日本勢は当初の期待通りとは行かず、WEBではメダルを逸した選手たちが「税金泥棒」と罵られるなど、かなりムードが悪かったからです。

もちろん幸運に恵まれなかった選手たちを擁護する論調もあります。
「参加することに意義がある」のだと。
しかしいったんメダルを逃してしまうと、彼らがメディアに大きく採り上げられることはほぼありません。
なぜ勝利を得た選手ばかりが祝福され、得られなかった選手たちは同胞からの拍手でなく貶めすら甘受しなければいけないのか?
税金泥棒は論外として、僕は、「参加することに意義がある」の言葉の使われ方にもやや違和感を覚えます。
「オリンピックに参加するだけでも猛特訓をしているんだ」「世界で4位ならじゅうぶんじゃないか」「そもそも金がなさ過ぎるのが問題」。
といった文脈で使われているようなのですが、「参加することに意義がある」って、そういう意味の言葉だっけ?
だとしたら、オリンピックに参加する資格に届かなかった選手たちは価値がない、ということになる。
本質は「努力することに意義がある」ってことですよね。

なんだか日本人の美意識もずいぶん変わってしまったんですかねえ。
僕はいわば「巨人の星」世代なのですが。
子どもの頃ヒットした漫画と言えば、「巨人の星」「鉄腕アトム」「あしたのジョー」「デビルマン」etc.。
それらに共通するものが一つあります。
必ず主人公たちが破滅して終わるのです。
矢吹丈が燃え尽きて死ぬラストは有名ですが、デビルマンも原作では戦い敗れ軍団と共に滅びますし、鉄腕アトムはスクラップになってしまいます。
ジャングル大帝は剥製になるし、ハレンチ学園は廃墟になるし、タイガーマスクはダンプカーに跳ねられ正体を知られぬようマスクを川に投げ捨てて死んでいきます。
星飛雄馬は左腕の心筋と屈筋が切れてしまい、指が動かず、ボールを持つことすらできなくなって球界を去ります。

作者たちがこれらの作品を通じて伝えたかったこと、それは、
「勝ち負けじゃなく、美しいのはそこに至るプロセスなのだ」
でしょう。
そこに多くの日本人が共感したから、これらの作品は不朽の名作となっているのだと思います。
壇ノ浦で滅んだ平氏から哀れを汲み取り、本能寺で滅した信長に畏敬を、志半ばに斃れた龍馬に憧憬を見る、成功者よりむしろ挫折者に美を見い出すのが、僕らの血に宿る感性のはず。

僕はソチ・オリンピックで、ロシアのプルシェンコ選手に飛雄馬を重ねて見てしまいました。
プルシェンコのフィギュア人生は壮絶の一言。
怪我と持病のヘルニアに悩まされ、手術してはリハビリの繰り返し。
ソチのために彼は昨年の初頭、椎間板を人工物に置換する手術を行っています。
僕は腫瘍の手術で右脚が人工骨頭になっているのでわかるのですが、身体に人工物を入れるのは大きなリスクが伴います。
万一感染症になると、その人工物をいったん外さないと菌が消えないのです。しかも人工椎間板置換は日本ではまだ導入されていないぐらいの新しい術式らしく、他にもいろんな不安要素があったでしょう。
でも彼はそこまでしてソチに臨んだ。
棄権、そして引退、という選択をせざるを得なかった時、どんな思いだったでしょうか。
結果としてのメダルなんてどうでもいいじゃないですか。
僕は彼のこれまでのプロセスをとても美しいと思うし、精一杯の拍手を送りたい。

日本の選手が勝てば、もちろん僕もうれしいですし、たくさんの祝福で包まれてほしい。
でも「結果論」でしか語られない昨今のムードが、僕はあまり居心地良くない。
北朝鮮では世界試合で負けた選手は収容所送りになると噂されていますね。
その感覚にどんどん近づいてないかなあと。
ちなみにロシア国内でもプルシェンコの棄権は非難されているようですが、その急先鋒は「日本が北方領土返還を要求するなら第二、第三の広島長崎を作る」と発言したことでも有名な極右党首のジリノフスキー氏です。

我が国でももはや勝たない限り、スポーツ選手が敬意を得るのは難しいことなのでしょうか。
CMにスポーツ選手を起用したがらない企業は多い。
「負けたらどうするんだ」と言うのです。
僕なんかは「負けてもいいじゃないか」と思うのですが、それじゃあダメなんでしょうねえ。
少年ジャンプの成功方程式とされる「友情・努力・勝利」はあまりに有名ですが、やはりこのあたりから美意識が変わってきているのでしょうか。

なんてことを言いながら、僕自身は「勝たなきゃ意味ないんで」とエージェンシーの営業さんに尻を叩かれる毎日なんですけどね。