SNSをやっていると、突然罵倒されることがある。おまえはバカだ、何もわかってないゴミだ、最低の広告屋だ、などと。
勝手に友達申請をして来たり、フォローして来たりして、ただ罵り上げて勝手に去って行く。そういう人たちの過去の言行を見ると、誰かの批判や誹りばかり。
そして、彼らにほぼ共通するキーワードがある。
「反原発」だ。
反原発ということなら、僕は3.11のとっくの前から反原発だ。自宅の電気は天然ガスによる自家発電でまかなっている。この装置は百万円以上かかった。発電は電気を使用する場所に近いほど効率が良い。都心のど真ん中に発電所があればエネルギー効率は2倍になる。
3.11の直後は、福島第一原発に最も近い避難所で炊き出しをやろうと言うことで、ケータリング業者を連れて行った。当時は宅配便のトラックも近づくのを拒否していると言われていた。南相馬は大きな避難所がないということで、いわきに行った。余談だがその年の秋頃から下腹部が痛むようになり、今年になって腫瘍が見つかった。その正体はわからない。組織を採って2回も病理検査をしたが未だ確定しないので治療もできずにいる。もしかしたら放射性物質ダダ漏れのとこに3回も行った影響かなーなどと思ったりもするが特に後悔はしていない。
僕の動きなどはまだ軽い。3.11後、震災地支援のために自分のことを犠牲にしながら動いている人は僕の周りにも数多くいる。
そして彼らは無言である。誰かを批判したり誹ったりすることなく、ただ動く。
動けば、いろんなことが見える。現地の人のこと、行政府の人のことがリアルに見える。そうすると、誰かを批判すればよいということにはなりにくいのである。
僕は、東電や、政府、官僚にも人物はいると思う。自分の知っている中にも、原発問題、被災地問題を解決するために身命を賭している人たちがいる。やったことの責任、あるいは犯罪行為があったならばその罪は問われてしかるべきだ。しかし東電はクズ、政府はゴミ、などと言いたくなる気はしない。
そんなことを言って、何になるだろうか?
反原発の声、反政府の声を結集すべきだと呼びかける人たちがいる。
クルマの陰に隠れて石を投げるように、誰かを馬鹿だゴミだと罵る「声」など集めて、どうなるだろうかと僕は思う。
むしろ良識ある人たちは目をそらすばかりではないのか。
汚物から目をそらすように。
SNSでもっと声を上げよう、と言う人もいるが、逆効果になっていないか。ツイッターは〇〇発見器とよく言われるが、もはや反原発も〇〇発見器と思われてしまっていないだろうか。
選挙の様子を見ていても、なぜこれほどまでに反原発の熱気が沈静してしまったのか僕も不思議ではある。一つの仮説としては、人々は、反原発が嫌なのではなく、反原発「派」に与するのが嫌になってしまったのではないか。
人々の平等と幸福を謳った共産主義が最も多くの人類を虐殺したように、日本の過激派が仲間同士で殺し合ったように、正義や主義主張を声高に叫ぶ集団の恐ろしさ、理不尽さを僕らは歴史から学んでいる。だから、美しいことを言う人を疑う。昨年の衆議院選挙で日本未来の党が惨敗したのも、社民党の窮状も、一般大衆のそんな心性から来ているのではないか。麻生太郎は人間的な失敗をするから大衆に支持されるのだろう。参議院選で山本太郎が当選したのは多くの人が反原発に共感したからではなく、ただ有名人だったからだろう。彼が反原発でなければもっと得票数は伸びていただろうし、無名人なら落ちていたろう。他の多くの候補がそうであったように。
原発などない方がよい。
1+1が2であるぐらい自明のことだ。ただ、そういう世界を実現するためには理性的な考察、議論、バランス感覚が必要だろう。「馬鹿」を100万回叫んでも、むしろ真に有益な声はかき消されるだけだろう。本当はいったい誰が反原発の流れの足を引っ張っているのか、SNSなどで反原発を叫ぶ人たちはこのタイミングで自問してみるべきではなかろうか。