2014年2月25日
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真央ちゃんに金を!

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ここ数日は、いかに日本国民が浅田真央を愛しているかを思い知らされる数日でありました。
うかつに彼女の批判でもしようものなら、十字架にかけられて火あぶりにでもされそうです。
逆に森元首相の嫌われぶりもすごいですね。
こちらも少し擁護するやボコボコにされてしまいます。

「空気」というものは誠に恐ろしい。
昨日、広告学校で「いじめを減らすポスター」の課題をやって、うちの中3の娘を審査委員長にして論評をさせたのですが、娘いわく、いじめを生むのは学校独特の「空気」であると。
強い者が弱い者をいたぶることで自分の強さを誇示し、それがカッコいい、楽しい、という空気が作り上げられてしまうと、もうそれを壊すことは無理であると。
我が娘はなかなか本質を見る力を持っているなあと感心しました。ヘタな教育評論家よりよほどわかってるんじゃないだろうか。
まあ、その話はここではこれ以上突っ込みませんが。

僕は生来のへそ曲がりなゆえか、どうも「空気」に乗っかるのが居心地悪いのです。
「真央ちゃん感動ありがとー!」って言ってるだけではいられない。
どこか不満です。
皆さんそんなに彼女を愛してるならば、彼女にちゃんと金を獲らせてあげたらどうですか?
平昌で。
そういう提案をしたい。

僕はフィギュアのことはほとんど何も知らないんですけど、浅田選手は、技術力はスゴいんですよね?
トリプルアクセルできるのは彼女だけなんでしょ。
たしかキムヨナ選手はこれに挑んだが挫折したとか。
なのにスコアで勝てないのは、はっきりとした原因が他にあるからですよ。
それは表現力でしょう。
ソチのフリーで浅田選手は自己ベストを更新しましたが、それでも3位。
もしSPで失敗しなくても、銅メダルがせいぜいだったんじゃないでしょうか。
彼女の芸術点の低さは前々からの課題だったはず。
バンクーバーでは、「北米の舞台でなぜロシアの曲を?」といった疑問の声も上がってました。
ここが放置されていた印象があります。
僕はやっぱりこのあたりに問題の根本を感じます。
自己ベストでも銅レベルなのに、金を期待される重圧。
そのあたりの矛盾が彼女を苦しめ、ミスを引き出し、そこからの解放感で涙したんじゃないのでしょうか。
だとしたら、しっかりと、金を獲れるストラテジーと環境を作った上で、もう一回チャレンジさせてあげるというのはダメなんでしょうか。

今、フィギュアで選手の表現力を引き出す世界一は、ブライアン・オーサーのチームでしょう。
彼らはバンクーバー後にキムヨナ(のお母さん?)とケンカして、ソチでは羽生結弦に金をもたらしてくれましたね。
羽生サイドから、彼らを浅田選手に譲ってもらったらどうでしょう。
プルシェンコが羽生の次期コーチ、なんて話も出てるようですけど、これはブライアン、面白くないですよ。
僕が苦労して売上げ倍増させたのに、「来期から糸井さんがやってくれるそうなので」と言われるようなものですからね。義理も恩義もないのかあんたらは!と思いますよね。
だからここは汚名挽回とばかりに森元首相が動いて、
「おれ、大事なところで必ず舌が滑っちゃうんで…。真央ちゃんに金を獲らせてお詫びしたいんだよね」
とか言ってブライアンチームと羽生サイドを口説いたらどうでしょう。

ご本人の気持ち優先であることはもちろんですが。
次の舞台は完全なアウェーですしね。

2014年2月17日
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ブライアン・オーサーって知ってます?

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羽生結弦選手のショートプログラムが始まった時、僕はちょっとドキッとしました。
まず選曲が「センスいいな」と思った。
振り付けも、なんだか「男子」って気分じゃない。
妖艶というか。官能的というか。羽生結弦は名前からしてアニメキャラをそのままリアルにしたような人だけども、その妖しい魅力が100%引き出されていると感心したのです。
そして、このかんじ、何かに似てるなと。

それはすぐわかりました。
バンクーバーのキムヨナ選手の演技です。
彼女の「007」の選曲と振り付けを目にした時、僕だけでなくおそらく日本中に何とも言えない「やられた感」が漂ったと思います。そういう手があるのかと。彼女の魅力全開じゃないか。
あんなものを見ちゃうと、我らが浅田真央選手の選曲と振り付けは、なんだかありきたりのものに感じられ始めて…。

2人の金メダリストの演技に共通性があるのもそのはずで、コーチや振り付け師などのスタッフが同じなんですね。
ブライアン・オーサー氏という元銀メダリストを中心とするカナダ人スタッフ。
彼らが「金請負人」だったわけです。
当時(今でもですが)キムヨナの最大のライバルは浅田真央。
彼女はタレ目でゆるふわ系というか、乙女チックな魅力を持っている。
対するにキムヨナは猫目でキリッとしたボーイッシュな魅力。
そこをはっきりと際立たせるために、世界で最も有名な殺し屋のテーマ曲と振り付けを持って来たわけです。
そして、ソチのフリーでは羽生結弦の妖艶な魅力を際立たせるために世界で最も有名な官能劇のテーマ曲と振り付けで勝負をかけた。
そういうことでしょう。
彼らの発想はシンプル。でも最高のプロのものだと思います。
僕は高橋大輔選手の演技にホレボレしましたが、「なぜビートルズじゃないといけなかったか」という問いへのロジカルな答えは特にない気がします。
他の多くの選手のそれも同様に。

ブライアン・オーサーという人、韓国ではかなりの有名人のようで、キムヨナといっしょにCMに出たり、市民賞のようなものももらったりしているみたいです。
が、日本ではほとんど知られてないようですね。
ググっても羽生結弦がらみではあまり出て来ません。
元キムヨナのコーチに金を獲らせてもらった、というネタは日本では受け容れにくいのでしょうか?
僕はそのプロ感覚に敬意を覚えますが。

2014年2月16日
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プルシェンコって、飛雄馬じゃん。

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ソチでは波乱の末に羽生選手が金メダルをもぎ取ってくれたことでようやくひと息つけたといいますか、日本全体に安堵感が広がっているように見えます。
それまで日本勢は当初の期待通りとは行かず、WEBではメダルを逸した選手たちが「税金泥棒」と罵られるなど、かなりムードが悪かったからです。

もちろん幸運に恵まれなかった選手たちを擁護する論調もあります。
「参加することに意義がある」のだと。
しかしいったんメダルを逃してしまうと、彼らがメディアに大きく採り上げられることはほぼありません。
なぜ勝利を得た選手ばかりが祝福され、得られなかった選手たちは同胞からの拍手でなく貶めすら甘受しなければいけないのか?
税金泥棒は論外として、僕は、「参加することに意義がある」の言葉の使われ方にもやや違和感を覚えます。
「オリンピックに参加するだけでも猛特訓をしているんだ」「世界で4位ならじゅうぶんじゃないか」「そもそも金がなさ過ぎるのが問題」。
といった文脈で使われているようなのですが、「参加することに意義がある」って、そういう意味の言葉だっけ?
だとしたら、オリンピックに参加する資格に届かなかった選手たちは価値がない、ということになる。
本質は「努力することに意義がある」ってことですよね。

なんだか日本人の美意識もずいぶん変わってしまったんですかねえ。
僕はいわば「巨人の星」世代なのですが。
子どもの頃ヒットした漫画と言えば、「巨人の星」「鉄腕アトム」「あしたのジョー」「デビルマン」etc.。
それらに共通するものが一つあります。
必ず主人公たちが破滅して終わるのです。
矢吹丈が燃え尽きて死ぬラストは有名ですが、デビルマンも原作では戦い敗れ軍団と共に滅びますし、鉄腕アトムはスクラップになってしまいます。
ジャングル大帝は剥製になるし、ハレンチ学園は廃墟になるし、タイガーマスクはダンプカーに跳ねられ正体を知られぬようマスクを川に投げ捨てて死んでいきます。
星飛雄馬は左腕の心筋と屈筋が切れてしまい、指が動かず、ボールを持つことすらできなくなって球界を去ります。

作者たちがこれらの作品を通じて伝えたかったこと、それは、
「勝ち負けじゃなく、美しいのはそこに至るプロセスなのだ」
でしょう。
そこに多くの日本人が共感したから、これらの作品は不朽の名作となっているのだと思います。
壇ノ浦で滅んだ平氏から哀れを汲み取り、本能寺で滅した信長に畏敬を、志半ばに斃れた龍馬に憧憬を見る、成功者よりむしろ挫折者に美を見い出すのが、僕らの血に宿る感性のはず。

僕はソチ・オリンピックで、ロシアのプルシェンコ選手に飛雄馬を重ねて見てしまいました。
プルシェンコのフィギュア人生は壮絶の一言。
怪我と持病のヘルニアに悩まされ、手術してはリハビリの繰り返し。
ソチのために彼は昨年の初頭、椎間板を人工物に置換する手術を行っています。
僕は腫瘍の手術で右脚が人工骨頭になっているのでわかるのですが、身体に人工物を入れるのは大きなリスクが伴います。
万一感染症になると、その人工物をいったん外さないと菌が消えないのです。しかも人工椎間板置換は日本ではまだ導入されていないぐらいの新しい術式らしく、他にもいろんな不安要素があったでしょう。
でも彼はそこまでしてソチに臨んだ。
棄権、そして引退、という選択をせざるを得なかった時、どんな思いだったでしょうか。
結果としてのメダルなんてどうでもいいじゃないですか。
僕は彼のこれまでのプロセスをとても美しいと思うし、精一杯の拍手を送りたい。

日本の選手が勝てば、もちろん僕もうれしいですし、たくさんの祝福で包まれてほしい。
でも「結果論」でしか語られない昨今のムードが、僕はあまり居心地良くない。
北朝鮮では世界試合で負けた選手は収容所送りになると噂されていますね。
その感覚にどんどん近づいてないかなあと。
ちなみにロシア国内でもプルシェンコの棄権は非難されているようですが、その急先鋒は「日本が北方領土返還を要求するなら第二、第三の広島長崎を作る」と発言したことでも有名な極右党首のジリノフスキー氏です。

我が国でももはや勝たない限り、スポーツ選手が敬意を得るのは難しいことなのでしょうか。
CMにスポーツ選手を起用したがらない企業は多い。
「負けたらどうするんだ」と言うのです。
僕なんかは「負けてもいいじゃないか」と思うのですが、それじゃあダメなんでしょうねえ。
少年ジャンプの成功方程式とされる「友情・努力・勝利」はあまりに有名ですが、やはりこのあたりから美意識が変わってきているのでしょうか。

なんてことを言いながら、僕自身は「勝たなきゃ意味ないんで」とエージェンシーの営業さんに尻を叩かれる毎日なんですけどね。

2014年2月11日
by kossii
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勝たなきゃ意味ないんで。

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僕のような独立系のCDが広告代理店から受ける依頼は、ほとんどが競合プレゼンです。代理店内のクリエイティブチームにCDとして参加して、プレゼンを勝利に導いてほしいと。けっこうな重責を担わされます。
大きなキャンペーンとなるとマーケティング(ストラテジー)プラン、クリエイティブプラン、メディアプランなどと複合的なプランの提案になるのですが、やはりクリエイティブが要となることが多いのです。

さて、では競合プレゼンに勝つにはどうすればいいか。
誰も発想できないような素晴らしいクリエイティブを考えて提案すればよい?
全く違います。
どんなに偉大なクリエイティブを思いついたとしても、クライアントのオリエン、求めているものと違ったらそれは選ばれません。
営業さんはクリエイターの暴走を鎮めるために、よく「勝たなきゃ意味ないんで」と言います。
まずクライアントに受け容れてもらえる案を考えましょうよ、勝たないと何も始まらないじゃないですか、と。
その通り。
実現できない企画に価値はありません。

競合プレゼンで選ばれるためには、僕は「肯定とサプライズ」がセオリーと思っています。
クライアントが求めているもの、それをまず受け容れ、認め、肯定します。その上で、さらに期待を上回るサプライズを用意する、ということです。
彼らの求めているものが間違っている、と感じることもあります。
でも、あなたたちは間違っています、僕らの考え方が正しい、と主張しても、納得してもらえることはまずありません。
彼らにしかわからない事情があることもあるし、クライアントの方が長く深く考えていて、じつは僕らの方が浅はかだったということも多いのです。

今回の都知事選。
僕は職業柄か、選挙と競合プレゼンを重ねて見てしまいます。
細川氏が落選したことで、脱原発の人たちは大いに落胆し、茂木さんの「東京だせー」というツイッター発言が炎上中です。
しかし、思うに、細川氏は都民に対して、勝つためのプレゼンテーションを行ったのだろうか?
都民の関心事はもはや原発ではなく、景気や少子化対策だということはわかっていた。
そして、無意識の欲求としてはナショナリズムもあったでしょう。首都のプライドも。
舛添氏はある意味、オリエンをそのままプランとして提示し、「東京世界一」という、ナショナリズムとプライドをくすぐるスローガンを掲げた。
そこに脱原発一本槍で戦おうとしても、無理があります。
もし細川陣営に代理店の営業さんがいたら、「勝たなきゃ意味ないんで」と言ったんじゃないかなあ。

人はそれぞれいろんな事情を抱えてる。企業がそれぞれ事情を抱えているように。
その総和が景気・少子化対策なのだとしたら、それをまず認めてあげないと競合プレゼンに勝つことはできません。
一番気にしてるところの課題解決プランを提示した上で、でもね、それだけだとマイナスをゼロにしただけじゃないですか、東京にはもっと可能性ありますよ、そこで止まってていいんですか、未来の世界一都市を目指しましょうよ、そのためには未来産業である再生可能エネルギー企業を世界中から東京に集めるんです、関連企業を減税するんです、そしてそれは、脱原発とセットにすることで世界への力強いメッセージとなるんです、だとか、そんな言い方してたら、結果も少し変わってきてたんじゃないでしょうか。

いまネットは脱原発の人たちの罵詈雑言で溢れてます。
都民は馬鹿だとか阿呆だとか。
競合プレゼンに落ちた結果を聞いて、あのクライアントは頭悪すぎだとか罵り始めるクリエイターに似ています。

昔、僕が新人の頃はまだ代理店も余裕があって、自分たちが信じるものを提案しよう、というムードでした。落ちてもいいと。正しいことを提案し続けていれば、いつかわかってくれるはずと。
それが信頼につながって、結果的に強固な絆となった例を僕はいくつか見ています。
ただその場合も、あいつら馬鹿とか阿呆とか言う営業さんはいませんでした。

2014年1月24日
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「明日、ママがいない」のショック

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ドラマ「明日、ママがいない」の第2話を観ました。
まず番組枠CMに何となくの違和感。ACのCMが多いからだ、と気づきました。
なんともったいない。TVの番組枠はひょいひょい降りたり乗ったりできるものではありません。あれは、お金払うけどうちのCMは流さないでくれ、ということ。3社ほどがそういう対応をしたようですね。
まあ、韓流ドラマのスポンサーをしたってだけで花王の商品レビューに「洗ったらキムチの匂いが付いた」などと書かれる時代ですから、スポンサーの苦慮も推察できるというものです。

さてこのドラマ、第1話の放送以来賛否両論、放送中止要請も寄せられていますね。児童養護施設や赤ちゃんポスト、里親制度の実態とかけ離れている、誤解される。児童養護施設で暮らす子どもたちが学校でいじめられる、偏見を持たれる。などの理由で。
それに対して局側は、「子供たちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子供たちの視点から『愛情とは何か』を描く主旨のもと、子供たちを愛する方々の想いも真摯に描いていきたいと思っております。是非、最後までご覧いただきたいと思います」というコメントを出しています。

そう。
これはドキュメンタリーではなくドラマです。舞台設定はあくまでも手段。だからそこには多少の誇張や歪曲が入って来るのは織り込み済みというものでしょう。
目的である、「子供たちの心根」を描くことが重要です。
でも。
僕はドラマを観ていてその心根の描き方が
「ちょっとペラくね?」
と感じちゃいました。

最も違和感を抱いたのは第1話の最後のくだり。
自分を捨てた親に対して、あんたが親を捨てるのよ、と「ポスト」に促されて「ドンキ」が親の住むアパートのガラスに物をぶつけて割るところ。
一見、感動的ではありますが、この発想は子どもではなく、やっぱり大人のものですよ。

子どもが生まれてきた時、目の前には親しかいません。
子どもにとって、親は、世界の全てです。
神と言ってもいい。
親の振るまいがそのまま自分の物差し、行動基準、善悪基準になるんです。
もしあなたが八つ当たりで子どもをぶつ親を目の当たりにしたら、なんてひどい親だ!と憤慨するでしょう。子どもがかわいそうだろと。
でもそれは当事者じゃない、第三者の、大人の感覚。
子どもはどう感じているか?
「自分が悪い子だからぶたれたんだ」です。
子どもを捨てるなんてひどい親だ、と憤るのも大人の感覚。
親に捨てられたら、子どもは「自分はそれだけ価値のない人間なんだ」と思い、心に刻みます。
それを「トラウマ」と呼びます。
施設では、無償の愛情を前提に、褒めるべきは褒め、叱るべきは叱り、という、自然な姿の育て方でトラウマをなくそうと努めるわけですが、なかなか難しいものがあるようです。
幼い頃のトラウマを残したまま大人になった人を「アダルト・チルドレン」などと呼びますが、親に育児放棄された、虐待親から保護された、などの児童養護施設出身の方々には、自分の全てに自信が持てず、人と交わるのが怖い、恋愛が怖い、就職が怖い、出世が怖い、そうやって社会と正常に交わることができない生涯のハンデを持つ方が少なからず存在するのです。

ドラマの「ポスト」や「ドンキ」のように、あれは悪いこれは正しい、こうするのがいいああするのがいいと、健全に育ってきた大人のような善悪基準、行動基準を持って生きていけるなら、彼女たちの将来は開けています。普通に友人を作り、就職し、結婚するでしょう。第1話からもうハッピーエンドです。チャンチャン、です。
ちなみにトラウマを背負った子どもたちの中には、「ドンキ」のように親の住む家のガラスに物をぶつけてやりたい!と思う子はいるでしょう。ナイフで刺し殺してやりたい!と思う子も。
でも、できないんです。
その刃は向かう先を見失って、自分に向かうしかなくなります。それを「リストカット」と呼びます。

第2話で初めて「トラウマ」という言葉が出て来ました。
子どもの頃、親に手を強く掴まれて引っ張っていかれたから、大人になった今でも人と手を握れません、という・・・まあ、そういうトラウマもあるのかもしれませんけど・・・。
トラウマというのは、もっともっと、恐ろしいものですよ。
トラウマは、その子の人生全てに渡って大きなハンデを背負わせますが、じつはその子どもを捨てたり虐待した親も幼少時に虐待されてきたケースが多く、世代を超えて遺伝していく傾向があるのです。
そういう意味において、育児放棄や児童虐待は「かわいそう」という同情ですむものではない社会問題です。

最近思うことですが、人は同情する側とされる側、助ける側と助けられる側、に分けられるものでしょうか。
児童養護施設で暮らす子どもたちの中には卒園したら福祉施設で働いて子どもたちを助ける仕事をしたい、と希望する人が少なくありません。助けられる人が助ける人になるわけです。
僕はずっとその支援をしてきましたが、腫瘍切除の後遺症で今年から下肢障害4級の障害者手帳を交付され、なんと映画館やタクシーを使うと割り引いてもらえるようになりました!自分はどっち側の人なのかよくわからなくなってきています…。
でも人はそもそも、もたれ合って生きて行く動物ではないですか。
健常者であってもアルコールやギャンブルやセックスに依存しないと生きていけない人もたくさんしますし。全ての人の中にある「助けてくれ」をギリギリのところで皆で用意して社会というものは成り立っている。

その前提は「理解」でしょう。
会社の同僚や恋人が理解できない行動を取る時、あのコ変わってるよねーとか、あいつ頭おかしいんじゃねーのですませるんじゃなく、あれは幼少のことが影響してるのかなと理解する。
たとえばそういうことに寄与するなら、このドラマは応援すべきものと思います。

ドラマだけでなく、小説でも漫画でも映画でも、良質のコンテンツに触れると何らかのショックを受けます。
それが「あの子たちかわいそうー」では、薄っぺらいじゃないですか。
人間への正しく新しい理解を提供することで、ショックを与えてほしいものです。

ところで日テレのコメントでは「子供」という表記になっていましたが、最近、この表記は好まれません。「物」のように感じられるからという理由です。
「子ども」と表記されることをお薦めします。

2014年1月12日
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淡路さんはドラクエの台詞を全部覚えてた!

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「あなた、ゲームの仕事してるんでしょ?」
と、六本木のバーで声をかけてきたのが淡路恵子さんでした。
「プレイステーションの広告やってますけど」
と言うと、
「ねえ、ドラクエのスタッフ紹介してくれない?」。
そんないきなりの頼み事をされたのは1996年頃だったでしょうか。
当時はまだドラクエは任天堂陣営。
「プレイステーションのゲームを作ってる人じゃダメですか」
と聞くと、それじゃダメよと。
「ソニーの人ならすぐにでも紹介できるんですけど」
ドラクエのスタッフじゃないと意味ないのよと。
「なぜドラクエなんですか」
と僕は聞きました。

淡路さんのお話を聞けば聞くほど、その人生は壮絶そのものだったんだなあと胸を打たれるものがありました。当時は故・萬屋錦之介さんの残した莫大な借金と、息子さんの素行にずいぶん悩まれている様子でした。窃盗で麻布警察署に呼ばれた話など聞かされました。
「毎月50万円も渡してるのよ」
と悲痛な表情でおっしゃるので、
「僕も女房に毎月50万円も渡してますよ。困ったものですね」
と言うと、あなたおかしいこと言うわねと喜んでらっしゃいました。
悩みばかりの毎日の中で、唯一の救いがドラクエだと彼女は言いました。
ドラクエに出会って毎日が変わった。心が癒やされた。ドラクエがなかったら死んでたと思うと。
だから、ドラクエを作ってる人にお礼を言いたいのだと。
「スライムの絵を描いてる人でもいいのよ」。
とにかくドラクエに関わってる人なら誰でもいいから、お礼を言わせてほしいのよ、と。

まるで酸素のように、ドラクエをしていないと辛すぎて死んでしまいかねない彼女は、最終ダンジョンの手前でもう一度最初からゲームをやり直す。
終わらせるわけにいかないから。
それでついには台詞を全部覚えてしまった。
「どこのダンジョンの台詞は何、って聞かれたら私、こう言うのよって答えるから」
と少しドヤ顔でおっしゃいました。

僕は一計を案じて、その頃親しくしていたゲーム雑誌の編集者に、堀井雄二と淡路恵子の対談企画というものを持ち込みました。
彼はとても喜んで、実現できると思います、やりましょうと快諾してくれました。
新宿の料亭でお二人は会いました。
淡路さんは堀井さんに「もっと早く新作を出してくれないと死ぬ」とずいぶんおっしゃってました。
堀井さんも楽しまれていたようです。

その後淡路さんは僕のことを大好きになったようで、舞台に招待されて、終わってから二人で飲んだりしてました。
「あの女優は脚本の意味をぜんぜん理解してないのよ」
と主演女優をこきおろしたり、日常でもコメントは辛口でした。

僕はPSの立ち上がりからゲーム広告に携わり、それは今でも続いています。
その間、ゲームが社会悪として槍玉に挙げられることも何度かありました。
しかし「ゲームが人を救う」ことがあるんだと初めて教えてくれたのは淡路さんでした。
昨年春からPSVita「共闘先生」というキャンペーンをやらせていただいていて、おかげさまでVitaの売れ行きは好調に推移しています。
ただ僕はその中に販促的な要素だけでなく「先生と生徒が仲良く楽しむ画」をしのばせることを大事にしました。
教師と生徒の溝が社会問題になる中、もしかすると日本のどこかで、ゲームで仲良くなる先生と生徒がいるかもしれません。

淡路恵子さんのご冥福をお祈りいたします。

2014年1月5日
by kossii
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皆さんこれが社会の縮図です!

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うちの家族は、元旦は恒例として僕の両親の家で過ごすことにしています。
今年は、両親の家に入るとTVの前にコタツが置いてあって、その脇にひとつだけ椅子が用意されていました。畳に座れない僕のためにです。昨年の手術で僕の右股関節は人工骨頭になりまして、地べたに座るのがちょっと難儀です。座れないわけではないのですが、うまくやらないと関節が外れるかもしれないとリハビリの先生に軽く脅されているのです。

そこに座って2時間ほどすると、なんだか腰が痛くなってきました。
椅子をよく見ると見覚えがありました。前の事務所で打合せの補助椅子として買った安物で、引っ越しの時に捨てるのがもったいないと両親が持って帰ったものでした。クッションはなく、がちがちに硬くて人間工学の片鱗もないものです。
そして、寒い。
「腰が痛いし、寒いよ。そろそろ帰らないか」
と僕が言うと、一同、
「えっ、何で?」。
コタツでぬくぬく寝っ転がって、スマホやゲーム機のボタンを左右の指でペコペコ押しながら、長女と息子は
「そんなに寒いかなあ?」。

ああこういうことなのだ。
まさにこれが社会の縮図ではないか。

東京はバリアーの街です。
自分が「あっち側」の人になって、初めてわかりました。
街に出ると、どの店にもどのビルにも、入り口に無意味な段差があります。杖で歩く身からすると、この一段、二段の段差がとても恐ろしい。つまずくとエラいことになります。車椅子の人はたかが一段のために入ることすらできない。でもきっと、皆さんは不思議な顔で、
「そんなにバリアーかなあ?」
と言うのですよ。

自分の家族ですら、相手の立場で見るということができないんです。
他人ならなおさら困難なことです。
街中で杖を使っている人や車椅子の人をあまり見かけないのは、街中に出ることが難しいからです。あらゆる店やビルに、
「おまえたちは来るな」
というサインが張り巡らされているようなものだからです。
そこに悪意があるとは思えません。
去年までの自分も含め、皆さんは障害者を街から無邪気に追い出しているんです。

(ちなみに2日は妻の実家に行きました。
そこでは椅子のままで入れるコタツが用意されていました。そもそもは僕のためではなく足腰が弱くなった義母のためでした。
僕はそこで昼から夕方まで酒を飲んでゆっくり楽しませていただきました。)

2014年1月1日
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2014 あけましておめでとうございます。

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あけましておめでとうございます。

旧年は公私ともに、人生最大の異様で異常な年でした。

仕事は延期や中止が多く、その理由も工場が火事になったとか、商品が売れすぎて生産が追いつかないとか、本国の事情で云々とか、ちょっとありえない話がいくつも重なって。

そして、なんでもないと言われて放置されていたできものが、実は世界でも稀なとんでもないものと発覚し、大手術。
優秀な医師団と友人たちの支援によって危機を奇跡的に乗り切りました。
この話は医療現場の実態や問題点を浮き彫りにする意味で価値があると思いますので、このブログかどこかで少しずつ書き表していくつもりでいます。
わりとすごいドラマです。

そんな中でも、SCE、サントリー、メガネスーパー、日本生命、Fieldsなどなどいろんな企業のお仕事で成果を出すことはできましたし、広告賞までいただきました。
初めて映画の脚本を書かせていただいた「潜伏」も無事公開されました。

年としてなんとかかんとかカタチになったのは、周囲の皆様が支えてくれたおかげです。
そのありがたみを知る一年でもありました。

手術を経て、右脚が少し不自由になりました。
今は杖を使って移動しており、等級は低いですが障害者手帳が交付される予定です。
街に出るとこれまでとは全く違った景色が見えます。
そういったものもうまく自分のクリエイティブに採り入れてもっと大きくなれればと、意を強くしています。

今年は公私ともにV字回復で臨みたいと思います。
一層のご支援をお願いします。

2014
小霜和也

2013年9月28日
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小泉今日子と薬師丸ひろ子とおれ

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「あまちゃん」が今日、最終回を迎えた。
僕は全てを追いかけていたわけではなく、時々観る、ぐらいのことしかしていなかったが、このドラマはとにかくキャスティングが素晴らしかった。
前面に立つ能年玲奈と橋本愛ももちろんだが、とにかくそれを支えていた小泉今日子さんと薬師丸ひろ子さんの力が大きかった。

僕が博報堂に入社して新人研修を経て、書いた希望配属部署は「ライオン担当営業」だった。当時僕は河井奈保子さんの大ファンで、彼女がライオンのCMに出ているという理由だけでそのような希望を出したのだった。
ところが配属先はコピーライターで、メインクライアントは資生堂。そのことについて会社に文句を言ったこともあったが、その話はまた別の機会に譲る。
当時資生堂担当をしていると、とにかくいろんな女優さんの撮影に立ち会うことになった。
その中で今でもくっきりと記憶に残っているのが小泉今日子さんと薬師丸ひろ子さんである。
小泉さんの撮影の合間、僕は人から頼まれていたサインをもらおうと、彼女に声をかけた。
「すいません、サインもらっていいでしょうか」と言って色紙を渡した。本来ならそういうことはマネージャーを通さないといけないが、当時の僕は怖さを知らない新人だった。
「いいですよ、サインペンもらえますか」と言われて、あっ、と固まった。
「すいません、サインペン…忘れました」。
彼女はそのままどこかに立ち去ってしまった。そして、数分後、サインペンを手にして「1階の守衛さんからもらって来ましたー!」と言ったのだった。シャンプーの撮影だったから、ガウン姿のままで編集スタジオの廊下と階段を探し歩いてくれたのだろう。
そういう人だ。
彼女に、ファンにならない人がいるわけない。
薬師丸さんはラジオCMのナレーション録りに立ち会った。僕はそれまで彼女のことは女優として好きでも何でもなかったし、特に映画も観たことがなかったのだが、彼女の第一声でころりとやられてしまった。普通のやり取り、「ああわかりました、ここはこう読むんですね」「あ、ボールペン落としちゃいました」「すいませーん、間違えましたー!」といった声が、心にきゅんきゅん響くのである。スターというのはこういうものか。いわゆるスター、カリスマ、というものに会った気がした。それからすっかりファンなのである。

あれから20年以上経って、彼女たちは未来ある女優さんたちを支えるポジションとなって、立派にそれを果たしている。
「あまちゃん」は若い人たちのためのドラマであったと思う。
ラスト、能年玲奈と橋本愛が走るシーンは、日本の未来ある人たちへの応援シーンと受け止めた。そしてそれを支える素晴らしい人たち。
業界は違うけども、かく言う僕も、もはや「おれがおれが」ではなかろう。未来ある人たちを支える役割をやらないといけない、そう思う。無料学校なんかもやったりしてるけども、まだ足りないかもしれない。少子化もあって、震災もあって、原発問題もあって、国に借金もあって、テロの恐怖もあって、なかなか難しい未来ではあるけども、未来は未来だ。
走れ若者。
おじさんは、できる限りの支えはしてあげるつもりでいる。

2013年8月29日
by kossii
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「言葉狩り翻訳」はやめてほしい

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アメリカの歴史モノTVドラマが好きだ。最近は「Game of thrones」を録画して観ている。これは架空の世界の話ではあるが中世のイギリスが時代設定の元になっている。
僕がアメリカ歴史モノドラマが好きな理由は、歴史に忠実であろうとする姿勢だ。風俗なども過剰とも言えるぐらい忠実に描いている。奴隷もいれば差別もあるし、人権なんか概念すらない。だってそういう時代だったのだから。その、現代人から見た背徳的な描写がゾクゾク来るわけだ。
ところがそこに水を差すのが日本語翻訳である。

たとえば「Game of thrones」は王国同士の争いと王国内部の王位争いを描いているのだが、「血縁」で悩む登場人物が出て来る。彼は周囲から「Bastard」と嘲られる。日本語翻訳ではこれは「落とし子」となっている。「おい、落とし子!」「おまえはただの落とし子だ」などというセリフが頻出するが、意味不明である。ここは「おまえはただの妾腹だ」とすべきだろう。
また重要な登場人物で「Half-man」と呼ばれる男がいる。これは日本語翻訳では「半人前」となる。「あの半人前め!」などというセリフが頻出するがこれもわけがわからない。「あの小人野郎め!」と訳すのが正しい。彼は身長が常人の半分なのである。
もちろんこんな訳になっている理由は想像できる。差別用語だからだ。しかし、中世の騎士が、(妾って差別用語だったっけ?じゃあちょっと別の言い方にしないと…おい、落とし子!)などと考えるだろうか。

「風立ちぬ」の登場人物が煙草吸いすぎだ、と日本禁煙協会からイチャモンがついた。禁煙協会の立場としてひとこと言いたくなるのはわかるが、世論がジブリ側に立ったことに僕はホッとした。あの時代はみんな煙草を吸っていた。それを描かないのは歴史の捏造をするようなものだ。
アメリカTVドラマで言うと、1950年代の広告業界を描いた「Mad men」では、画面中に煙幕が垂れ込めるほどに男も女もあらゆる登場人物が煙草を間断なく吸う。だってそういう時代だったのだから。喫煙による害が集団訴訟になる国であの表現が許されているのは、歴史を曲げる害の方が大きいことを常識として共有しているからではないか。

海外でも日本でも、描写の忠実性は許されるようだ。
しかし日本では言葉だけが曲げられる。
なぜだ。
一昔前、コンパクトカメラは一般に「バカチョンカメラ」と呼ばれていた。
バカでもチョン(朝鮮人)でも使えるという意味で、もちろん現在では死語になっている。しかし当時は普通に「これバカチョンだから、シャッター押すだけなんでー」と、みんな平気で口に出していた。もしその時代の風俗を映像化しようとしたら、その言葉は使うべきか否か。
僕は使うべきと思う。「これカンタンだから、シャッター押すだけなんでー」というセリフに代えたとたん、そこで歴史が捏造される。やったことをなかったことにしているのだから。事実として僕らはそういう言葉を深い意味を考えることもなく、平気で口にしていたのだ。日本の侵略行為はありませんでしたと教科書に書くのとどれほど違うだろう。

「言葉狩り翻訳」は正しい歴史認識の害になる。
しかも僕の楽しみが削られる。
やめてほしい。
カムイ伝の「おめえ、めくらだか?」のセリフを「おめえ、目の不自由な人だか?」に書き換えるようなことはもうやめてほしいのだ。
江戸時代の非人が(めくらは確か放送禁止用語だか?ならもっとマイルドな言い方にすんべ)などと考えるわけないではないか。