表現者の責任

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「Guilty」というデンマーク映画があります。
舞台はデンマーク版の110番電話受付室。
不祥事を起こしてそこに異動させられた警官が主人公で、彼が「誘拐されてクルマの中にいる」という女性の電話を受けるところからストーリーが始まります。
彼はあちこちに電話をかけて事件を解決しようとするのですが、カメラが写すのは彼のいる部屋だけ。
映画として、電話のやり取りだけで事件の進行とか、現場の緊迫感が伝わるチャレンジがなされていて、それが非常にうまくできてます。
ついでに言えば、最後のどんでん返しも秀逸。

NHK「パラレル東京」のドラマはテレビ局の報道センターが舞台でした。
この番組の狙いは視聴者に震災を「自分事」として捉えてもらうことにあると言います。
しかしドラマを観ていると、その思惑がうまくいったとは言い難いように感じました。
「プロローグ」で首都大学教授が実際に首都圏を大地震が襲ったらどういう事態になるかのショッキングな解説をしてくれましたが、僕にはそれで十分というか、ドラマはその内容の再現映像以上のものにはなってなかったんじゃないかと。
テレビ局は確かに震災全体を俯瞰できるという意味では舞台としてふさわしいでしょうが、であれば、現場の緊迫感をどう真に迫って伝えるかの「Guilty」のような工夫が必要です。
それをしなかったがゆえに、ドラマのテーマが「報道のジレンマ」「若手アナウンサーの成長」といった、本来の主旨からズレたものになっていて、舞台が聖地になっていることもあり、震災が視聴者にとって自分事でなくむしろ絵空事に映ってしまったような気がしました。
「救命病棟24時」で首都圏震災を背景としたシリーズがあり、そうすることで救命現場の葛藤や困難さを乗り越えるストーリーを描こうとしていたわけですが、そのようなドラマに近いと言いますか。
「株価が大暴落する」といった台詞も不要のはずです。
番組の主旨は、何の対策もせずボンヤリしていると命が危ない、ということを実感を持って伝えるところにあるわけですが、首都圏の震災による株価暴落は視聴者に対策の取れるものではなく、無為に不安をあおる要素でしかないからです。
生理や糞便などの食料の次に問題となるリアルは描いてないし。
「間違った報道をして避難者がパニックを起こしたらどうする」という台詞もありましたが、そもそも避難者がテレビなんて見ているわけありません。
「地震があったらまずブレーカーを落とすべし」と番組中に何度も言ってるので、在宅避難の人々が対象だとしても、彼らがテレビを観ているという想定自体に大きな矛盾があります。
情報は携帯ラジオで得るべきなんです。
もう身も蓋もない話ですが。
他にも突っ込みどころ満載なのですけど、このへんにしときます。

このように書いていくと、こういった反駁を感じる人は多いでしょう。
「いやしかし、震災への備えを啓発する意味で、あのドラマには意義があったはずだ」。
そこなんです、ポイントは。
「だからこそ」なんですよ。

東日本大震災の時もそうでした。
震災の悲惨さ、被災者の大変さ、を描くコンテンツはたくさんありました。
しかし、「表現」としてよくできているものはさほど多くなかった印象です。
ところが描き方が下手じゃないかという批評はされないんです。
これは障害者を描くコンテンツもそうですし、人権や差別問題を描くものもそう。
そういうテーマのものはアンタッチャブルで批判されにくいので、ヘタなままでよしとされてしまうわけです。
これらは社会全体がターゲットで、商品CMなどよりもよほど重要なもののはずです。
だからこそ、「見事に」伝えるための工夫、表現上の努力が一層必要とされるはずです。

先日、厚労省の「人生会議」ポスターが炎上しました。
テレビのコメンテーター含め、ネットでは擁護する発言が多く見られました。
「こういう啓発はどんどんしていくべきだろう」と。

僕は過去、非常に恐怖な体験をしたことがあります。
全身麻酔が手術中に切れそうになったんですよ。
ふと意識と感覚が戻って、手術室の会話が聞こえてくるんです。
どうやら今からメスを入れるようで、僕は必死になって、自分が意識あることを何とか伝えようとしました。
しかし身体はピクリとも動きません。
もうこのまま耐えるしかない、と諦めたらまた眠りに落ちていきました。
あの恐怖はいま思い出しても身震いします。

「人生会議」のポスターは、おそらく、植物人間になってしまったのだけど意識はあって、周囲の人々の声は聞こえてくる、そんな状況を描いているのでしょう。
こんなことになるなら延命拒否の意思表示をしておけばよかったと。
でも、これはとてもじゃないけど笑い事にできるものではないです。
一般の人に広く伝えるためエンタメにすべし、という理屈はわかりますが、生死の綱渡りをしている人たちも見るわけで、「ふざけんな」の声が起こるのは必定です。
なぜそこまで予測しなかったのか。
ついでに言えば、なんで小籔さんの眼は開いてるんだろう?
それもちょっと意味がわかりません。

表現者には、表現を見事にやる責任があるんです。
社会的に重要なコンテンツであるほど、その責任は重くなるはずなのですが、逆に、甘えのようなものを感じるケースが多いです。
プロの表現者であれば、広く皆が自分事として受け止めなければいけないテーマほど、表現のハードルは高くなるのであって、幾重にも慎重になりつつ優れたアイデアを出さなければいけないのだ、そういう意識を強く持っていただきたいと思います。