2児虐待死事件の真の犯人とは

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ダンテ「神曲」の中で、最もおぞましいエピソードとしてずっと記憶に残っているのがウゴリーノ伯とルジェリ司教の物語だ。二人はピサの有力者だったがウゴリーノはルジェリの奸計に嵌まり、息子たちと塔の中に閉じ込められてしまう。最初はパンが与えられていたがやがてドアが釘で打ち付けられ、誰も来なくなってしまった。あまりの飢えにウゴリーノは狂ってしまい自分の腕をかじり出すがそれを見た息子たちは自分を食べてくれと言う。この身体はもともとあなたからもらったものだからと。ウゴリーノは取り乱した自分を恥じ、心を平静に保ちながら救いを待つが息子たちは一人ずつ死んでいく。そして彼もついに絶望の中で力尽きていく。憤怒の恨みを抱いて地獄に落ちたウゴリーノはやがてそこに落ちてきたルジェリを捕まえ、その頭をかじって食う。頭が再生するとまたかじる。それを永遠に繰り返す。どれだけかじっても恨みは晴れぬと喚く。ダンテ「神曲」はもちろん創作だけども、このエピソードはピサで実際にあった事件が基になっている。彼やその時代の人たちにとってそれだけの衝撃だったのだろう。
「大阪2児虐待死事件」で懲役30年の判決が出た。僕はこの事件のニュースを見るといつもウゴリーノ伯のエピソードを思い出す。弁護側は「保護責任者遺棄致死罪」を主張していたようだが、幼児を置きっぱなしで炎天死させたとか凍死させたとか、そういう事案と同一視していいんだろうか。キッチンに出て水を飲めないようにドアをテープで塞いだらしいが、それで殺意がなかったと言うならば、ドアを釘で打ち付けたルジェリ司教も自分には殺意がなかったと地獄の審判で弁明できるだろう。
餓死とはどれほど苦しいものだろうか。成人なら努力の限界もわかるだろうし、それが無駄だと知った時どのように心を静めて運命を迎え入れるか考えることもできたろう。天国で次の生を営むことを期待するかもしれない。幼児には餓死という概念も、努力の限界もわからないに違いない。自分の糞尿を食べてさらに苦しみながら、最後まで無為な足掻きをしていたはずだ。
餓死した2児とウゴリーノの違いがひとつある。それは、2児はきっと母親を恨んでいないということだ。僕ら成人が見ている世界と幼児が見ている世界は違う。幼児にとって親は世界そのものなのだ。幼児は理不尽に虐待されてもそれを理不尽だとは思わない。自分が悪いことをしたからだと思う。悪いこともしてないのになぜ?というのは自我が芽生えてからの心理。虐待されて育った子供は自分の中に基準がなくなり、どう行動していいのかわからなくなってしまう。自我が芽生えずそのまま成人になった人のことをアダルトチルドレンと呼んだりもする。この2児は母親のことを恨んだりはしていない。何か悪いことをしたから罰されたのだと、自分たちを責めながら死んでいったはずだ。
下村被告自身も幼い頃に育児放棄されたらしい。親が離婚再婚を繰り返し、自分を顧みなかったと。親に見放されるのも立派な虐待だ。親に捨てられるなんてそれほど自分は悪い子なのかと幼児は思うからだ。そしてそれは成人してからもトラウマとして一生心に刻まれ、行動の判断基準を失わせてしまう。彼女には殺意はあった。しかしそれがいいことなのか悪いことなのかの判断ができなかった、というのが正しい見方だろう。こういう裁判にはオブザーバーとして児童心理学者を招聘すべきと思う。正常な人にはその心の構造が理解しにくいからだ。
ネットなどでは、多くの人たちが「今の若い女は云々」と憤っている。マスコミも、快楽に走って善悪の判断がつかなくなった女が起こした事件、ぐらいの報道の仕方をしている。とても表層的だと思う。この事件の本質として採り上げられるべきは今の「女」ではなく今の「親」だ。これは虐待の連鎖がもたらしたおぞましい事件なんだ。その連鎖を止めなければ、ということをこの事件の教訓にしなければいけない。
長女が通う公立中学では、半分近い家庭が片親だ。今はとてもカジュアルに離婚してしまう時代だけども、離婚もまた幼児虐待。異常行動する子はそこが遠因となっているはず。そういうことを親は考えなさすぎだし、社会も教育しなさすぎと思う。どうしても離婚するなら、子供が十分育って、自分で善悪の客観的判断ができるようになるまで待つべきだ。自分が悪いから捨てられたんじゃない、両親の問題なのだとわかればトラウマにはならないだろう。
もしこの2児が間一髪救助されていたらどうだったろう。あーよかった、神様はいるんですねといったおめでた話で済んだろうか。とんでもない。彼らはこのことが強いトラウマとなって何をするにも自信がなく、人を信頼することもできない人間に育って苦しみながら一生を過ごすことになっていたかもしれない。それでも母親はたいした罪には問われなかっただろう。そのことこそが現代社会の大きな問題なんだ。