今年のシメ : 障害について思うこと

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今年のシメに、何か書こうかな。
振り返るといろいろ書きたいことあるなー、と多少逡巡しつつ、障害をテーマにいま感じてることを書くことにしました。
障害者の大量殺人など刮目すべき事件もあり、障害について世の中が考えさせられる年でもありましたしね。

僕は「視覚障害者のホントを見よう」など、障害者の社会復帰運動をサポートしています。
また社会課題解決型の仕事をいくつかやらせてもらってるんですが、そこに障害者の存在をどう考えるか、が関わってくることもあります。
それで社会活動家の方々からお話を聞くことあるんですけども、こういった主張をされることが多いです。
「障害者を特別扱いするな」。
障害者、健常者、と区別すること自体おかしいのだ、と。
その区別が差別の元になるし、障害者に自分を一段劣った存在だという思い込みを与えてしまうのだ、ということです。
同列の人間として扱うべき、なんなら障害者という呼称自体なくしてしまってもいい、ぐらいの。
僕も障害者の端くれ(?)ですが「自分を障害者だと思ってはいけない」と言われたこともあります。
オリンピックとパラリンピックをいっしょにすべきという意見はこの延長線上にある気がします。

考え方として、頷ける部分は大いにあります。
どんな人であっても人間として等しく価値を持つのだ、という理念は美しく、「障害は個性だ」という言い方もよく聞きますが、生物の生存に欠かせない多様性の現出なのだ、とまで思考を行き着かせることもできます。
ただ、こういった「障害者も健常者も区別するな」といった言葉は、健常者から聞きます。
障害者から聞いたことは、僕はまだありません。
その理由の一つはきっと、そこに現実的なジレンマがあることを知っているからでしょう。

僕は3年前に肉腫の大きな手術をして以降、左脚が多少不自由になり、下肢障害4級の障害者手帳をもらっています。
それと同時に警視庁に申請して、公道に駐車できる許可証ももらいました。
こいつが大活躍で・・・。
いろんな制約はあるし、僕もなるだけ交通の邪魔にならない場所を選んで停めるのですが、それでもかなり便利です。
目的地のすぐ近くに停められますから。
僕は打合せやらプレゼン、編集やらで、多い時は1日に4~5箇所ぐらい車で移動しますが、障害者になる前と比べて移動効率は格段に上がってます。
今年は19年前に独立してから最も売上げの高い年になりまして、それはもちろん皆さまのおかげなのですが、こいつのおかげもけっこうあるかな~と。
僕の会社には僕が働けなかった頃に生じた欠損金がかなりあったのですけど、それも消化してしまったので、この調子で行けば来年あたりはとんでもない税金を払うことになりそうです。
逆にもしこの許可証がなかったら?
仕事の効率は格段に落ちるでしょう。
駐車場から目的地まで歩くのが大変です。
駅やバス停まで歩くのも大変ですから、電車やバスを利用するのは現実的ではありません。
そして、稼ぎが落ちて、納める税金が下がる、あるいは働くのをやめちゃった時、僕は社会を支える側から支えられる側に回ることになります。
健常者、大損です。
それに僕は12月30日にこんなものを書いていて、てか、これは早くやっつけちゃって次の本の執筆に移らねばとジャストナウ焦っているぐらいの仕事人間なので、働かないで皆さんに養ってもらう状態は決して幸せなことではありません。
何が言いたいかというと、障害者と健常者を区別する制度は、一方的に健常者が障害者を養うためだけにあるのではなくて、障害者の方も社会に益する、そして自尊心を保つことができるという幸福な関係を成り立たせてもいるということです。

だから、人々の心性的に区別をなくそう、というのは非常に正しい。
社会システムとして区別しなければいけない、というのも非常に正しい。
でも「システムとしては障害者だけど意識としては障害者と感じるな」というのは、けっこう難しいことですよ。
そのジレンマをどうするのか、が課題であると思っているわけです。

それを解決するヒントがありました。
東大の中邑教授の講演で、目鱗が落ちた気がしました。
「近視の人が眼鏡をかけて普通に生活をしている。これを障害とは呼ばない。障害のある人が義足などのデバイスをつけて普通に生活できればそれはもう障害者ではない」。
なんとシンプルな回答!
今、テクノロジーが急激に発達していて、デバイスによって障害はある程度乗り越えられる。
それどころか、義足のアスリートは走り幅跳びで8m40cm飛ぶ。
より高く飛びたい、より速く走りたいアスリートは自らの足を切ろうと考えるかもしれない。
人を真っ裸な状態で見るのではなくて、デバイスで補助された状態で障害者と言えるかどうか判断すべき時代だろうと。
「眼鏡がないとPC画面がぼんやりします」といった理由で就職できない、なんて話はないわけですから。
デバイスの補助、もそうでしょうし、僕のように法制度による補助によって健常者以上のパフォーマンスを出す、ということもあります。
働いている僕の姿を見て、人として劣った存在だ、と思う人はいないでしょう。
いや、少しはいるかもしれんな・・・。
僕は「杖」「人工骨頭」というデバイスと「駐車許可証」という法制度によって健常者並みになっているのです。

法制度のことで言えば、101人以上の従業員を抱える企業は2%以上の障害者を雇用しないとペナルティが課せられます。
ただし、週20時間以上働かないとカウントにならないのです。
障害者の中には週19時間しか働けない、という人も実際にいるのですが、そういった人たちは働くチャンスに恵まれないことになります。
ソフトバンクなど自主的に20時間未満でも障害者雇用を始めた企業もありますが、たとえば数人で分業することで1カウントにするなど、法制度の見直しもまだ余地があるでしょう。
それで健常者のように働けたなら、不自由なく生活できたなら、その障害者は健常者と同じだよね、と思えばいいんじゃないでしょうか。
いわば、「見なし健常者」とでも言いましょうか。

そして、進化したデバイスによっても、法制度によっても健常者と同じようにはいかない、という人は社会が面倒を見てあげる。
ただそのような人たちを社会復帰させるためにテクノロジーを開発すると、そこからイノベーションが起きることがあると思います。
宇宙空間は極限空間で、いかに少ない物資で、いかにエネルギーロスなくやっていくかの技術を磨き続けているわけですが、そこからイノベーションが生まれた事例は多いのだと以前JAXAで聞きました。
それに似たようなことと捉えてもよいのでは。

「障害者」「健常者」を線引きすることでいろんな歪みが生まれている、というのはそうだと思います。
でも区別しない、というのは現実問題として、全員にとってのデメリットが多い。
ならば、「障害者」「健常者」に加え、「見なし健常者」の三者が世の中には存在するのだ、そして「障害者」をどんどん「見なし健常者」化していくのだ、そんな意識を皆で持てば、社会保障費問題も含めいろんな課題解決に向かっていけるのではなかろうか。
実を言えば、障害者の社会復帰運動にはいろんなクレームが寄せられますが、そのほとんどは障害者からのものなんです。
ひとことで言えば、
「そっとしといてくれ」。
その気持ちの奥底には、何を言われようとどうしようと、結局障害者は障害者じゃないか、という諦観に近いものがあるように感じます。
確かに、そっとしておいてあげるべき人もいらっしゃると思います。
でも、尻を叩くことで健常者以上になれる人もたくさんいらっしゃるはずだし、そういう人はもう障害者として見るべきではないよ、という認識を共有することが大事ではないかと。
そんなふうに考えたりします。

ともあれ、今年はお世話になりました。
来年が皆さまにとって良き年でありますように。