平林さんのブログで、先日書いた「アルゴリズム男子」への丁寧な感想をいただいた。→ココ
お礼の意味も含め、「感想の感想」を返してみたい。
まず、平林さんは労働の意義について国がきちんと教えるべきだとおっしゃる。それはまさにその通りだと思う。では、労働とは果たして何なのか、について少し私見を開いてみたい。
労働というもののそもそもの始まりは、農業だったと思われる。じつは、農業というものがなぜ始まったのかについては謎に包まれている。狩猟採集生活と農耕生活と比べた時、どちらがラクで効率的かというと圧倒的に前者なのだ。農業が始まる前、人々は一日の数時間だけを狩りと採集に費やし、後は遊んで暮らしていた。狩り、採集は本能に基づいているから楽しかったはずだ。楽しいから今でもスポーツやショッピングとして名残をとどめている。それが、一年中、毎日黙々と働く農耕という過酷な作業をなぜ始めたのか、その動機がわからないわけだ。人は本能的に未来よりも現在の利益を求める。それはローンを組む時のウキウキ感や受験勉強の苦痛を思い出してもらえればすぐ納得できるだろう。今の辛さと引き替えに未来の収穫を求める農業は本能に逆らう行為なのだ。農業をすることで食料生産高が上がっても別に暮らしが豊かになるわけではない。なぜなら歴史的に見ると食料生産高が上がると同時にそれだけ人口が増えるから、まさに「働けども働けども楽にならず」なのである。 だから、農耕の初期の頃は奴隷が従事していたのではないか、というのが僕の推論。支配者が自分の食糧を確保するために強制労働させていたのが、そのまま社会を支える基盤として定着したのではないだろうか、ということ。これが現代に至るまでずっと、労働が辛い、というイメージのまま残ってきているのではなかろうか。
では、農業は全て辛いものか。僕は農業の経験はないので確実なことは言えないけども、そうではないだろう。きっと、自分の作った米や野菜が自分の「作品」と思える農家は、そこに喜びを見出しているはずだ。 リチャード・ドーキンスは人間が人間に残し伝えていく情報を「ミーム」と名付けた。僕は勝手に「文化遺伝子」と訳している。生物は本能的に自分の遺伝子を残そうとする。そういう本能のある者だけが生存してきたわけで、人間も例外じゃない。でも人間は生物学的な遺伝子に加え、自分の「作品」を残すことに喜びを感じるようになった。自分のアイデアが世に広まり、次の世代に残っていくのを子孫繁栄に近い快感であることを発見したわけだ。芸術家が自分の作品を「子供」などと呼んだりするのも興味深い。歴史的に見ても、何かを極めた達人は生涯独身だったりするが、その人にとって文化遺伝子を残す快楽が子孫を残すそれを上回ったと言うことだろう。現代でキャリアか子供かと悩む女性にも当てはまる気がする。それはともかく。「ミーム」を残す仕事は本能にかなっているのである。
仕事は楽しいと言われたり、労働はつらいと言われたり、働くことについてのイメージが分散しているのは、本能に逆らうものとかなうものが混在しているからだと思う。その人の働きがただ消えていくものはつらいが、何らかの形で残るものは楽しい。広告業が相変わらず人気があるのは、自分のアイデアを広めたい、残したい、という人の本能にかなっているからだと思う。しかし、どの仕事が楽しいかではなく、どうすればその仕事は楽しくなるか、という視点がより重要なのは間違いない。たとえば店員の仕事だって、その人の笑顔がお客の心に何かを残していることを知ればとたんにやりがいを感じ始めるだろう。 そういう研究や教育がもっと進んでいけばもっと人は幸せに働けるのにと僕は思う。
あまり感想になってなかったかな。すんません。
感想の感想 労働について
2011年10月17日