ピエール瀧の子どもに罪はない

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あくまで仮の話としてです。
山中教授が若い頃から違法ドラッグをやっていたのが見つかったら、iPS研究は自粛しなければならないのだろうか?
答は否に決まってます。
教授自身は研究から退くかもしれませんが、研究を止めるわけにはいきません。
ならば、アーチストがドラッグや犯罪をやっていたら、その作品は地上から抹殺されるべきなのか?
この答えも否に決まっています。
どちらもその人自身ではなく、その人の成果物なのですから。
そして、どちらもそれによって恩恵を受ける人たちが、数の多寡はともあれ、いるのですから。
これは議論の余地もないのではないでしょうか。

科学者であれ、アーチストであれ、ビジネスマンであれ、彼らが残した功績は等しく彼らの「子ども」です。
子どもにまで罪を着せようというのは、古代の九族皆殺を連想させてゾッとします。

現代のあらゆる生物は自分の遺伝子を残そうという本能を持っています。
そういう本能を持たない生物も過去にはいたかもしれませんが、当然ながら、死滅しています。
僕らにもその本能はあるわけで、それがゆえに、わざわざ時間やお金や労力を使って「子ども」を産み育てます。
しかし、生涯子どもを持たない人たちもいますよね。
これはなぜなのか。
ミームという考え方があります。
情報遺伝子、あるいは疑似遺伝子とでも呼びましょうか。

自分が成し遂げたもの、作り上げたものには何らか「自分」が宿っています。
そして、それは拡散していく可能性があります。
iPSなら、そこを起点にして新しい発見がなされるとか。
音楽なら、それに触発された人が新しい音を生み出すとか。
人間はそこに自分の遺伝子を見出すのですね。
あたかも自分の子孫が増殖していくように。

人間だけが持つこの不思議な心性は、少子化と結びついています。
新興国で出産率が高く、先進国で出産率が低い理由は、乳幼児死亡率の高低なども影響しているでしょうが、先進国の方がミームを作る機会に恵まれているからでしょう。
先進国に住む僕らは生物学的な子どもよりも情報遺伝子による子どもをせっせと産み育てているわけです。

逆に言えば、だからこそ僕らは先進でいられるのかもしれません。
昔から、何かを成し遂げる者にとって子どもは足かせでした。
僧侶は妻帯を禁じられていました。
しかし、一族の中でそのような者が出ると必ず兄弟が子どもを多く残す。
そのように生物学的な子どもと情報的な子どもを残すバランスを取りながら僕らは進歩というものをして来たのでしょう。
少子高齢化の問題はそのバランスが崩れてきているということです。

いずれにせよ、「子ども」のいない世界に未来はありません。
私見では、生物学的な子どもは何より重要です。
しかし、情報遺伝子による子どもも未来に繋がる種であることは間違いありません。
子どもに罪はありません。
子どもを抹殺してはいけません。