僕が改憲してほしい理由

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僕は改憲に賛成。とは言え、それは一条に限られるんだけど。第9条。特に第2項だ。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」という一文。
なぜなら、これがあるために、「ルールなんて勝手にねじ曲げるもの」ということが日本人の当たり前になってしまったからだ。「赤信号みんなで渡ればこわくない」のルーツはここにあると思うわけ。
もともと裁判所は、自衛隊は戦力に相当するので違憲であるとの判決を出している。政府は自衛隊を「戦力に至らない程度の必要最小限度の実力」と言い張ったが、これは苦しすぎる。これが許されるなら、どんな法律だって拡大解釈が可能になる。
日本はほんとうに法治国家なのかと思うことが実に多い。高速道路で制限速度を守って走る車などほとんどいない。捕まる車はたまたまネズミ取りや覆面パトなどに捕まった運の悪い車である。10キロオーバーならまあ仕方ないが40キロオーバーは過剰だろう、というのは勝手な主観でしかない。戦力ではないが実力ならいいという理屈と同じだ。じゃあ20キロオーバーならどうなのか?そこは取り締まる側の主観、あるいは気分、ノルマ、に左右されてしまう。法治ではなく人治なのだ。つまり日本人にとってルールとは「力のある側が状況によって変えていい基準」でしかないのだ。
昨年、当時の菅首相が浜岡原発に停止要請を出し、中部電力はこれを停めたのだけど、僕はあれもいかがなものかと感じた。なぜなら、浜岡原発については近隣の住民との間で運転差し止めを巡って係争中で、地裁の判決は請求棄却、原告が控訴中であった。菅元首相は「裁判所の判断なんかどうでもいい、とにかく停めろ」というメッセージを送ったわけで、こういう司法軽視、ルール軽視について僕はいかがなものかと感じたわけだ。
ルール軽視風潮は仕事をする上でも非常に困る。たとえば競合プレゼンで、オリエンテーションの規定をどれだけ守るのか。決められた予算を大幅に超えた「見栄え」のよい企画が通る、なんてことも多く、実現不可能な提案、絶対に起用できないタレントを提案した代理店が獲る、といったこともまかり通っている。そういう場合はルールに従って、実現できないことが判明した時点でその代理店の提案は無効にならなければ話がおかしいのだけど、そうならない。再プレゼンの時間がないということで、ルール破りが勝つのである。これまで正直にルールを守ったことで落としたプレゼンが何回あったか数え切れない。そして、これが重要なポイントだけど、ルールを破ったことはほとんど非難の対象にならないのだ。かくて実現可能な良企画、それを提案した良スタッフが沈んでいく、これが広告業界の実態だったりするが、きっと他業界でも同じようなことは多いんじゃなかろうか。
そもそも日本人がルールや契約を嫌うのは、基本的に単一民族国家だからだろう。家族の間でルールを決めたり契約を結んだりするのか?という心情に近い。多民族多文化国家である米国でルールや契約を軽視するととんでもないことになる。言わずもがな、というのは日本人の美徳だ。しかし、ルールが怪しくなることで、逆にこのあたりも怪しくなってきている。
ルールがマナーに近づく分、マナーがルールに近づいていく。たとえば電車内で電話をする人。大声でしゃべっていたらうるさいかもしれないが、周りに気を遣いながら小声でしゃべっている分には全然気にならない。「周りに気を遣いながら」が重要なのだ。赤信号を「轢けるもんなら轢いてみろ」とばかりにどうどうと渡る歩行者はムカつくし、一瞬「轢いてやろうか」という気にもなるが、「すいませーん」と早足で渡るならそんなに気にならない。周りに配慮しようね、というのがマナーの本質だ。ところが街中であれやるな、これするなの禁止ポスターのオンパレード。マナーがいつしかルールになっている。そして、ルールさえ守ってればいいだろと、通勤電車で堂々と化粧したりメシ食う人が増える。そのうちこれもまた禁止ポスターが貼られるだろう。
日本にはきちんとしたルールもなければマナーもない。これでグローバル化、ましてやTPP参加なんてできるんだろうか?グローバル化、というのはグローバルでルールを作りましょうね、ということだけど、今の日本人がそれに馴染むかどうかはなはだ疑わしい。ルールはルールとして、きちっとする。マナーはマナーとして、その本質をきちっと押さえる。そのためにはまず、第9条第2項の拡大解釈を今すぐやめるべきだと思うのだ。
ところで僕は第9条の第1項も改めるべきと思うが、その理由はまた違う機会に書きたい。