犬と子供の脳みそ

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12/10は以前飼っていた犬の命日だったので、ペット霊園に行って線香を上げてきた。
長女がどうしても欲しいと言い続けるので、兄弟で必ず散歩などの世話をすることという約束で初めて買ってきた犬だったが、生後1年で死んでしまった。
明治通り沿いの公園で長女が遊んでいたら、突然外に駆けだしそのままバイクにひかれて即死。一晩だけ家に置いて、次の日にペット霊園に運び込んで供養してもらった。
ペット霊園には供養の方法で松竹梅がある。高いのは壺にお骨を入れて地下室に安置するもので、安いのは他のペットたちの骨といっしょに混ぜて土に埋める。僕は犬のために高い方を選ぼうとしたのだけど、子供たちは安いのがいいと言った。生前、他のペットたちとじゃれるのが好きだったから、その方が喜ぶと。なるほどなあ、と感心した。自分にはそういう発想はなかったなと。
犬が死んだことで、いくつかのうれしい発見もあった。長男は一見ドライで、自己中なところがある。姉の不注意を責めるかと思ったが、あれは犬の自殺だよと言う。その時、ちょうど世界のどこかで人が生まれようとしている電波をキャッチして、いま死んだら人間に生まれ変われる!チャンス!と思って道路に飛び出したんだと。いちばんかわいがっていた姉への思いやりも胸を打ったが、その発想がおもしろいなあと思った。自分はクリエイティブを生業としているから、常人にできない発想をしなきゃいけないわけだが、子供の発想には負けることが多い。
先日映画監督の行定氏とメシを食っていた時、何年か前に僕が送った年賀状の話題になった。それは子供の描いた画をそのまま使ったものだったのだが、非常に印象深くて5、6年経った今でも記憶に残っていると。何を描かせたかは覚えていないが、干支にちなんだものだからきっとその年の動物だろう。
子供にとって動物は最も身近な自然で、神秘だ。それを表現する時、自然に対峙する人間の原始的な畏れや興味や幻想がそのまま出てくる。大人はそこに、自分が忘れたプリミティブさを見出すのだと思う。
犬が死んでから2年経つが、家族からある種の高揚感が失われた気がする。子供たちの興味は、今では受験に向いている。同じ犬種の犬を飼うことにしたが、散歩はもはや楽しみではなくルーティンワークとなっている。最近、子供たちの作文を読んだ。つまらない。子供らしい発見も幻想もなくなっている。学校の教師が書いたような文章だと思った。人として凡庸なほど点数が取れる仕組みなのだから、仕方のないことなのだろう。言っていることもゲームやアニメで聞いたような話ばかりだ。現代社会で大人になるとはそういうことなのか。学校もテレビもない山の中で野生児のように育てるのが、人間にとっていちばんの教育なんじゃないのかと思った。