ちょうど18歳で大学に入った頃、「パソコン」というものが世の中に登場した。生協でそれを見かけた僕は、なんだかとても欲しくなってしまった。自分にとっていったい何の役に立つのかさっぱりわからなかったが、どうにも欲しくなってしまって、何十万円も学生ローンを組んで買ってしまった。NECのPC-8001という機種であった。買ってから、さてこれをどうしたものかと悩んでしまった。とりあえずゲームを買ってやってみたら、ハマった。当時のゲームはカセットテープから読み込むタイプで、その卸をやっていたのがソフトバンクだ。プログラムも今のように複雑高度なものでなかったので、自分で作ってみたくなって、さらになけなしの金をはたいてPC-9801というさらに高価な機種を買った。ベーシックとマシン語を独学で覚えてシミュレーションゲームをプログラムし、電気屋で販売してもらったりしてた。その頃、業務に使うコンピュータと言えばUNIXのワークステーションが主流であって、「パーソナル」にコンピュータが役立つことって何なのか、自分にはゲームとワープロ、家計簿計算、住所録ぐらいしか想像がつかなかった。当時、パソコンを端末として世界中の人々がネットワークでつながり、SNSで会話する未来を思い描いていた人なんていただろうか?そもそもパソコンの始まりは技術者の練習キットだし、コンピュータも暗号解読器として大きく開発された。コンピュータを発明した偉人たちは今のような使われ方を想像しただろうか。
蓄音機を発明したエジソンも、自分の発明の用途に困っていたようだ。使い道として「遺言の記録」などと書き残している。蓄音機が音楽視聴に利用され始めたのは発明されて20年以上経ってからのことらしい。どうも、偉大な発明というのはすべからく最初は何に使っていいかイマイチ見当がつかない、というもののようだ。ワットが発明した蒸気機関はもともと炭鉱の水をくみ出す装置としてしか使われていなかった。作った本人も機関車に載せるなどという発想は持っていなかった。iPhoneだって、最初の市場導入時からその未来を確信していた人は少なかったんじゃないだろうか。
近頃のニュースでは日本の家電メーカーが青息吐息になっていると聞くが、思うに、根っこの問題はこの「発明の法則」に反したことをやり過ぎているからではなかろうか。つまり「マーケティング」だ。
マーケティングというのは、市場導入のリスクを少しでも回避しようという技術だ。ニーズを先読みすることで、ハズレをなくそうということ。しかし、そこから誕生するものは発明ではない。発明というものは可能性の塊、原石のようなものだろう。それを時代や社会が研磨していくことで、思いがけない宝になっていく、そういったものと言える。日本のメーカーは可能性の原石を世の中に投げ込む、という試みをやって来た。その筆頭がソニーだろう。最近、その意識を忘れてしまっているのが衰退につながっているんじゃないだろうか。
ここ数年、いろんな企業の「宣伝部」が「マーケティング部」に名称を変更している。自分たちで市場を把握して科学的合理的に商品を売るんだ、という意思の表れだ。でも僕は、発明家にはピュアであってほしい。そうじゃないと偉大な発明はできない気がするから。マーケティングはピュアの対極だ。ターゲット、キャンペーン、リサーチといったマーケティング用語が軍事用語であることからも推察できるとおり、軍事戦略を軍事家が民間に応用したのがマーケティングなのである。
そういった汚れ仕事は広告屋に任せればいいと思う。「蓄音機を発明したものの何に使えばいいかわからんのじゃ」と言ってくれれば、「うーん、こいつのターゲットは相続で困ってる金持ちより音楽愛好家と考えるべきじゃないでしょうか。オーケストラの公演を聴く金のない人たちが集う音楽パブに置いておけば…」といった提案をしてあげますから。
発明とマーケティング
2012年4月9日