2011年11月9日
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理性派vs.感情派

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どうやら民主党はTPP交渉参加で意志を固めたようだ。それを受けてか今日(11月9日)の東証は高値で取引が始まっている。TPPは日本人を二分してしまった印象がある。ネットを見ていてもTPP参加か不参加かで国論真っ二つの様相で、互いに口汚く罵りあっている。僕はどっちでもない。強いて言えば「どっちもわかる」派。理性で言えばTPP参加、感情で言えば不参加。だから自分の中で同居できる。不誠実で頭に来るクライアントだが金のためにやるしかない…みたいなことってあるでしょ?TPPはそういうのと同じじゃないのって思う。参加派と不参加派は、僕には理性派と感情派に見える。この二者は表裏一体のはずなのに、どちらが正しいかという二者選択をしようとするからどこまでも話が噛み合わないんだと思うのだ。
TPPを議論する前にまず押さえておかなきゃいけないって僕が思うこと。日本と米国は国の成り立ちがちがうってこと。日本は大和民族98%のほぼ単一民族国家。だから血のつながりをベースとした同胞意識が強い。TPP不参加派の中には、既存権益を守ろうという理性の人たちもいるだろうが、ほとんどの人たちの動機は「仲間を見捨てるな」という同胞感情に基づいているのではないだろうか。貧しい農家や、高額医療費を払えない人々も、同じ日本人なのになぜ切り捨てられようかと。参加派は常に損得で語るが、不参加派は損得は問題じゃないと言っているわけで、そのポイントで話が一致するはずがない。米国は言わずと知れた移民の国だ。彼らを一つにしているのは「Freedom」などといったイデオロギーだ。だからルールをしっかり作り、契約をしっかりやる。自己責任が原則となる。日本ではルールはあやふやだし、契約も「カタチだけ」だったりする。助け合いが原則となっている。この二つの国が完全に同じフレームで政治や経済をやっていく、ということはあり得ないと僕は思う。グローバルの歪みも、そういうところに根本の原因があるはずだ。それを認識した上で議論を展開しないと理性と感情の堂々巡りとなってしまう。
原発派と反原発派も、理性と感情の戦いに見える。失礼ながら反原発の人たちに理屈はあまりないように感じられる。日本経済がどうなろうと知らんと。「イヤなものはイヤ」。つまりはそこに尽きる。でも、その感情を無視してはいけないと思う。子供のために西日本に脱出した母親たちを軽蔑するべきじゃない。そういう感情こそが人類を人類たらしめる根拠なのだから。安全に暮らしたい、子供を守りたいという原始的な感情と、経済を破綻させないよううまく回していこうという理性。これは同居できるものだ。別のものとして争うから、話がわからなくなってしまうのじゃないか。論者のツイッターが炎上しやすいのは「なぜこの理屈がわからない」「なぜこの気持ちがわからない」の応酬になってしまうからだろう。日本という一つの人格の中で、理性と感情を認めあうことをきちんとやれば、分裂するようなことにはなりにくいと思うのだ。
ああそうだ、この文の主旨からは外れるけども、きっと多くの人が誤解してること。実はすでに日本は貿易立国とは言いにくい。数年前から、海外投資の利益が貿易の利益を追い抜いている投資立国なのだ。海外の関税を撤廃しても円高に飲み込まれてしまい、輸出にはさほど貢献しないと言われており、TPPの主眼はむしろ投資活動の活性化にある。企業による投資収益は雇用を増やすことにもつながらず、生活者には還元されにくいが、今後日本企業はそこでやっていくしかないようだ。

2011年11月4日
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進化って何。

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あなたにひとつ問いを投げてみたい。「人はなぜ身近な人と恋に落ちるのか」。誰でも初恋の経験はあると思うけど、だいたい通っていたクラスの子だったりして、大人になってから旅行先のアメリカ人と初めて恋に落ちた、という話は聞かない。また、誰でも大好き、誰でもセックスカモーン、という人も珍しい。なんで?さあ、あなたの仮説は何だろうか。……解答、出ました?こういう、やや哲学的なニュアンスを含んだ問いかけについては人によって様々な考え方があって、きっとどれも間違いとは言えないと思うのだけど、進化学的な正解はこういうことになる。「たまたまそういうヤツの子孫が生き残るのに有利だったから」。数百万年前、3タイプの人類がいたとしよう。1つは「身近な人と恋に落ちる」。1つは「世界中を巡り歩いて自分に最もふさわしい伴侶をみつける」。1つは「誰かれ見境なくヤッてしまう」。どのタイプが子孫を残すのに有利だったか。2つ目のタイプは巡り歩くうちに死んでしまう可能性が高い。3つ目のタイプは優秀で健康な遺伝子を持つ相手を選べないから、ひ弱な子孫しか残せず結局は滅んでしまう。自分の子孫が永久に繁栄するために優秀で健康な伴侶を厳選しつつも、ある程度のところでドキューンと恋に落ちて「こいつだ!」となる。そういうヤツらこそが遺伝子を残すのに最も有利であり、その子孫がいまちょうど70億人いるわけだ。これが進化ということなのだ。
僕は進化心理学という心の進化に興味があって、それと広告コミュニケーションの関係についての 本 も書いた。ツイッターなどを見ていると、進化ということについての誤解が目立つ。たとえば「強い者、頭の良い者が生き残るのではない。変化できる者が生き残るのだ」という言葉が頻出する。これはある真理を突いた名言だと思うのだけど、ダーウィンの言葉ではない。進化とは何らかの意志を持って変わることではなく、「たまたま」変化したり、環境の変化が自分にフィットした者が「たまたま」生き残った、ということなのだ。「進化」という文字面を見ると「進んで変化する」というふうに読める。この漢字に問題があるのだと思う。
縁起でもないことだけど、もし放射性物質がとんでもなく拡がって、人間が住めないほど世界が汚染されたとしよう。しかし、おそらく人類の数パーセントは放射能に対して耐性がある。雌雄が存在するのは遺伝子組み合わせのバリエーションを無限に増やすことで、ウィルスや気候変動などの外部変化に対抗できる個体を用意しておこうということで、過去、ペストなどが蔓延しても数パーセントは必ず平気なヤツらがいた。 放射性物質についても耐性を持った人たちが少なからずいると思う。それはあなたかもしれない。放射性物質に汚染された世界で、少数の人類が生き残り、子孫を増やしていったとしたら、人類はそのように「進化」したこととなる。でもそれは「たまたま」であって、誰かの意志でそのように変化したわけではない。「進化」とはどういうことかが、少しおわかりいただけただろうか。

2011年11月3日
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ベビーブームが来る!

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六本木の芋洗坂に時々利用するカラオケバーがある。博多弁のママと数人の女の子がいて、カウンター越しに相手してくれるのだが、全員非常に歌が上手でなかなか聴かせる。歌のうまさが採用基準だと聞いたが納得。男二人とか三人とかで歌うときはボックスも侘びしいので何かと重宝してたのだが、今年いっぱいで店を閉めるという。客もそこそこ入っているし、どうしたことかと理由を聞いたら「ママの子作りのため」だと。今年で37歳、そろそろ子供つくらないと…と焦っていたら20歳の頃つきあっていた元カレから再プロポーズされたのでそれを受け、結婚して子作り子育てに専念しようと決めたそうだ。そう言えば僕のマネージャーも確か37歳だっけ。時々、そろそろ子供が…とか、そろそろ再婚を…とか口走る。
今から20年ぐらい前、バブルの頃、銀座のクラブによく行った。クラブというのは摩訶不思議なシステムで、初めて行くと「担当」の女の子が決まるのだけど、これは客が自分のお気に入りを指名できるわけじゃなく、連れてきた客の担当が自動的になるなど、店側から勝手に決められてしまう。 だから、毎回、何の興味もない「担当」と飲まないといけない。自分のお気に入りの子はその担当を通じて指名するわけだ。僕の担当で29歳の子がいて、彼女はかなり焦ってた。このまま水商売に邁進するか?それとも誰かと結婚?子供産むならそろそろじゃない?などなどと。精神的にも少し不安定だったな。悪いお客はそういう心の隙を逃さない。彼女はこれと見定めた男にヤリ逃げされて、夜中、僕が寝てるときにわんわん泣いて電話かけてきた。二丁目に出かけてなぐさめてやったら、カラッと立ち直ってさっさと帰って行った。ホントに迷惑なヤツだった。いちおう言っとくと僕はその子となーんの関係もない。
思い出してみると、その子に限らず、当時は、女性が焦り始める時期は30前だった。それが、今は40前になっている。この20年間で、10歳ズレたのだ。その理由は、女性の社会進出が本格化したことと、やはり不妊治療の技術向上が大きいだろう。いまや40代で初産の人も珍しくないからね。そう考えていくと、ある予測ができる。それは、これからベビーブームがやって来る!ということ。
ここで、日本の人口動態グラフを見てみよう。下の表は2010年度の国勢調査からコピーしたものだ。
jinko
今の日本は、60代前半の年齢層が一番多い。グラフ上で「ポコッ」と突き出ている、上の方だ。この世代は人口も多いし金も持っている。いま健康食品などダイレクト通販会社の勢いがすごいのはここを主ターゲットにしているからだ。その人たちの子供が30代後半。「ポコッ」と突き出ている、下の方。そして、そこから下は、なだらかに人口が減っている。なだらかに…いや、ちょっと待て、「なだらか」って奇妙じゃないか?なぜかって、30代後半の人々が、他の世代の人たちと同じように子供を作っているならば、それがグラフに反映されてないといけない。10歳あたりから0歳にかけて、少しは「ポコッ」とした部分がないとおかしいわけだ。ということは、このグラフは二つの可能性を示している。一つは、30代後半の人たちは、「何らかの理由があって他の世代よりも子供を作ることを嫌がっている」ということ。もう一つは、「これから子作りしようとしている」ということだ。どちらが自然かというと、もちろん後者ということになる。
おそらく来年あたりから数年かけて、日本の人口動態は少し「ポコッ」としてくるはずだ。そうすると、次に何が起きるか?プチバブルだろう。以前のバブルは、今の60代前半の人たちが子供のためにマイホームを買い始めたことで発生した。それが一巡し、総量規制が終了のゴングとなった。30代後半の人たちに子供ができ、大きくなってマイホームや広めのマンションを買い始めると、日本は前回の規模とはいかないまでも、少しバブルになると思う。たぶん10年以内に景気が上がってくるんじゃないかな。
それはさておき、今、日本には子供を産みたくて仕方のない女性があふれている(僕の周囲だけで2人も!)。そういう女性たちを後押しするための環境整備が今こそ必要だ。民主党の子育て支援はなんだか尻すぼみになっているが、子育てのためにできることはいくつもある。保育園の待機児童問題もそうだし、医療費も地域によって不均衡だ。広告にだってできることはある。これまで、女性が家事や子育てに従事する姿を描くことに、企業は尻込みする傾向があった。フェミニズム団体が差別だとクレームを入れるからだ。でも、もういいんじゃないの?女性は立派に社会進出を果たしたし、僕もいつだって優秀な女性スタッフに頼っている。少し舵を戻して、子育てとか家事とか結婚とかの楽しさを表現するようにしていってもいいんじゃなかろうか。東海地方に「出雲殿」という結構式場チェーンがある。その新しい企業スローガンとして僕が書いたのは「結婚っていいものですよ。」だ。クライアントも僕と同じ思いを持っていてくださった。そのスローガンを見て「そうかもしれないなあ」と思う人が一人でも増えてほしいものだ。

2011年11月1日
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化ける人

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今日はPenの森本千絵特集号の発売日だ。僕はアマゾンで注文しているからまだ手に取っていないが、後輩がメジャーになっていくのは素直に嬉しい。それも、ただの運やコネやズルでなく、努力によるものであればなおさらだ。彼女と仕事した中で、ひとつ強烈に覚えているエピソードがある。僕がCDとして彼女にグラフィックをまかせたキリンの仕事なんだけど、そのプレゼン案を作るのに、彼女はデザイン事務所に泊まり込んだ。その泊まり方がとんでもない。当時彼女が乗っていた、ゴルフだったか何だかを事務所の真ん前の道ばたに停めておく。事務所でずーっと作業して、夜中にその車に行って仮眠を取り、朝また作業場に戻るのだ。それを、たしか3日ぐらいやってた。まさに僕は舌を巻いた。デザイン事務所も大変だ。拘束料だって払いきれないから、彼女は方々に「借り」を作っていたようだし、当時、「森本さんの仕事はちょっと…」と仕事を断るところもあった。そういうことを積み重ねて今の彼女がある。
僕は、「人は侮れない」と思っている。誰だって、どこかで化ける可能性を持っている。可士和君も、若い頃のデザインは「?」なものが多かったと記憶してる。でも、たぶんホンダの仕事あたりで化けた。僕の部下だった小西も当初は「あんなセンスないヤツいりません」と拒否ったぐらいだが、見事に化けた。
ただし、化ける人には共通点がある。それは、覇気を持っているということ。「アルゴリズム男子」で書いたような、ぼんやりと何かを待っている人は、化けることがない。身体の中に火薬を抱いていたとしても、温度が発火点まで行かないからいつまで経っても化学反応が起こらないのだ。ツイッターなどで、成功しているクリエイターの生の声を聞くことができるようになったけども、「なんだかみんなお気楽に成功してるんだなー」などと思ったら愚かだ。自分の抱える悩みや苦しみをそのままパブリックに丸出しするヤツなどいない。「こんなに努力してるのに何で自分は認められないのかなー」などと思ってる人は、その努力がほんとうに努力と呼べるレベルのものなのか、発火点までの熱さを持っているのか、自分を見直してみるのがいいと思う。

2011年10月22日
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「バカ」の法則

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あなたは道を歩いていた。道ばたにカップルがいて、女が男に大声を上げた。「あんたってとんでもないバカよね!」。 それを聞いたあなたはどう感じるだろうか。公道でののしり声を上げるなどゆるせん!と憤り、「お嬢さん、人に対してバカとはけしからんよ」とたしなめるだろうか。いや、あなたはそんなことするわけない。多少の知能がある人なら知っている、前後の「文脈」がわからなければ、彼女の真意、「バカ」の意味を判断しようがないことを。
僕は若い広告クリエイターにコピーライティングを教えるときに、昔から「バカの法則」という話をしてきた。言葉ば持つ意味は一つに限られない。前後の文脈や背景の時代性などによって変動する、場合によっては逆になることもある、ということだ。たとえばさっきの例で言えば、もし会話の流れがこうだったとしたら。男「じつは冬のボーナス全部使って婚約指輪買ったんだ」。女「あんたってとんでもないバカよね!」。 この場合、当然ながら「バカ」は「知能の劣る人間」という意味じゃない。「一途な人」「愛しい人」という主観のニュアンスが入ってくる。男「えっ…おまえ、おれのこと好きだったの…?」。女「あんたってとんでもないバカよね!」。この場合は「鈍感な人」「私を困らせる人」というニュアンスが入っている。男「ちょっとこのコピーの感想聞かせて?」。女「あんたってとんでもないバカよね!」。この場合は「ぶっとんだ発想のできるヤツ」。 男「じつは冬のボーナス全部競馬ですっちゃった」。女「あんたってとんでもないバカよね!」。この場合は「救いがたいヤツ」。男「じつはおれ九九がぜんぶ言えないんだよ」。女「あんたってとんでもないバカよね!」。  この場合はもともとの意味。
言葉だけじゃなく、行為についても前後の文脈でその意味や価値は変わってくる。人を殺しても、その動機が私欲によるものか正当防衛かで罪の重さは全く違ってくる。文脈はかほどに重要であるにも関わらず、最近はそこを読み取ろうとしない人が増えている気がする。ツイッターなどの普及で、短い文で話を完結させようという文化になってきているのだろうか。それまでの流れだったり、その人の思想の背景だったりを見ないで、表面の文字面だけで激昂する人が多い。先ほどの例で言えば、「バカ」という言葉を聞いただけで「バカとはけしからん」と割って入っていくようなことを平気でやる。
そしてもっと困ったことには、それをマスコミがやる。鉢呂前大臣の「放射能つけるぞ」にしても、どういう話の流れでそういう発言になったのかを全く検証することなく非難する。漏れ伝わってくる噂では、福島からトンボ返りで作業服のままだった前大臣にある記者が「放射能ついてるんじゃないか」と言ったことにカチンと来て、たしなめる意味で、だったら付けてやろうかと言ったとか。平野復興相はまさに、震災で亡くなった友人を「バカなやつ」と言ったわけだが、新聞はこれを問題だと言う。自民党は国会で追及すると言う。夫の墓の前で「あんたってとんでもないバカよね!」と泣く女に、「バカとは何事、国会で追及するぞ」と叱るようなものだ。それではもともとの意味でのバカじゃないか。

2011年10月18日
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俺の教育

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もともとこのブログは酔っ払ったイキオイでくだらないことを書く、という主旨で始めたものなんだけど、どうもまともで難しいことばかりを言っている。がっかりした人も多いだろうな。が、平林さんの感想→ココ に触発されて、もうちょっとだけめんどくさい話をしてみたい。今度は教育について。
「教育」は他動詞だ。どうしても「教え育てる」側の視点に立って思考してしまう。そこにそもそもの問題があると僕は思っている。教育しなくたって、人はほっといても何かを学ぶ。こないだドラクエ型RPGが子供に与える影響について書いたけども、子供は遊ぶだけじゃなく、同時にそこから何かを学びとっているはずで、それが「世の中に矛盾はない」「人は自分の敵か仲間かどっちかだ」「歩き回ってれば何者かになれる」といったことだと危ないと言った。もちろんTVからも何かを学んでいるし、漫画からも、友達との会話や街の風景、猫の鳴き声からも学んでいるだろう。暴力とエロはいけないといった短絡的な話だけじゃない、もう一段広く深いところで「学び」というものを見ていくべきではないだろうか。「ゆとり世代」についても「ゆとり教育」が問題だと言うのは学校教育を過大評価しすぎじゃないのかな。もっともっといろいろなものが影響を与えてきたはずだ。教育をどうこうと考える前に、学びの環境がどうあるべきか、という思考が必要だと思う。僕はいろんな事情で渋谷に住んでるけども、ほんとうは子供を育てるには自然のある田舎がいいと思ってる。
そして、いわゆる「学校教育」についてだけど、子供達に「そもそもの学校教育の意義」を誰も教えようとしないのが僕は気になる。たとえば微積分。こんなもの、一般人が実社会で使用することなんてありえない。なぜ学ぶ必要があるのか。普通は「受験のため」と受け止めているのだろうが、僕は子供達に、数学を学ぶことの意義を「問題解決の快感を覚える」ところにあるのだと言ってる。課題があって、どういう公式を応用すればいいのか頭を悩ませる。そして解をはじき出した時の快感。これはビジネス上での課題解決の快感につながっていく。僕は数学が得意で満点以外を取るのが珍しいぐらいだった。プログラミングも趣味でやっていた。アルゴリズムが思い通りに決まってアプリケーションが走る時の気持ちよさは何とも言えない。ベーシック、デルファイと来てC言語で挫折してしまったヘタレではあるけども。今でもクライアントからオリエンをいただくと、さてこれをどうやって解こうかとぞくぞくする。そしてこれだという解が出た時の快感はたまらないものがある。そのために仕事しているようなものだ。若い人の中には課題を与えると苦渋に満ちた顔をする人がいるが、数学が不得意だったんじゃないだろうか。だから僕は子供達にとにかく数学をやれと。大量に問題を解けと。そう言っている。そうしたら子供達は納得して勉強している。
科目で言うと数学の次に重要なのは「作文」だと思っている。これはつまりプレゼンテーション能力だ。自分のアイデアや感じていることをどう表現するか、人に伝えるか。社会人にとって、この力のあるなしはめちゃめちゃデカい。国語の読解は、「普通の人の感じ方」を学ぶもの。人って普通はこう考えるんだよ、というところでマルバツをつける。そこを知っておくことはもちろん重要だ。しかし、その上で「君はどう考える?」という部分がないといけない。そこを学校はおざなりにしている。だから国語は「普通の人大量養成科目」になってしまっている。作文については自分で教えるしかない。感想文とか、自由作文とか、そういうのを僕はできるだけ細かくチェックして、出だしがどうのとか、なんでこの単語を使ったんだとか、そんなことをやっている。家庭でこれをやらないと、将来打合せで発言できない大人になってしまう気がする。
最近息子に家庭教師を付けた。僕が学校に不満があるのは、子供の「なぜ」にきちんと対応できないところだ。家庭教師には「なぜ」にきっちり答えるよう頼んである。学校と同様、これは塾にもできない。だから僕は子供達を塾に行かせてない。 理科社会で言えば、このユビキタス社会で知識の暗記なんて無意味だ。理科社会とは、世の中の「道理」を知る学問だと子供達に言っている。たとえば歴史とは人間の欲がぶつかり合った結果のことだろう。そこを教えたり、いっしょに考えたりすることが大事だと思っている。こないだ「荘園」がテストに出ていて、マルをもらっていたのだけど、子供に荘園について説明させたらやはり全く理解していなかった。名前を覚えているだけだ。「地方の領主に税を納めたら高いんだよ。だから自分の土地をその上の、京の貴族の別荘だということにして税を払わない。実は裏でこっそりその貴族に安い税を払う。つるんでズルをやるのが荘園だ」って言うとおおーと納得する。学校でも塾でもそういうふうには教えない。
僕は貧乏性なところがあって、何でももったいないと思ってしまう。受験だけのために勉強するなんて時間の使い方はあまりにもったいない。受験は通過点だ。それまでの勉強が、社会に出てから活きなければいけない。学校教育にも、そういう視点をもっと採り入れてほしいものだ。そしたら日本ももっと優れた人材を輩出できるようになるんじゃないだろうか?

2011年10月17日
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感想の感想 労働について

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平林さんのブログで、先日書いた「アルゴリズム男子」への丁寧な感想をいただいた。→ココ
お礼の意味も含め、「感想の感想」を返してみたい。
まず、平林さんは労働の意義について国がきちんと教えるべきだとおっしゃる。それはまさにその通りだと思う。では、労働とは果たして何なのか、について少し私見を開いてみたい。
労働というもののそもそもの始まりは、農業だったと思われる。じつは、農業というものがなぜ始まったのかについては謎に包まれている。狩猟採集生活と農耕生活と比べた時、どちらがラクで効率的かというと圧倒的に前者なのだ。農業が始まる前、人々は一日の数時間だけを狩りと採集に費やし、後は遊んで暮らしていた。狩り、採集は本能に基づいているから楽しかったはずだ。楽しいから今でもスポーツやショッピングとして名残をとどめている。それが、一年中、毎日黙々と働く農耕という過酷な作業をなぜ始めたのか、その動機がわからないわけだ。人は本能的に未来よりも現在の利益を求める。それはローンを組む時のウキウキ感や受験勉強の苦痛を思い出してもらえればすぐ納得できるだろう。今の辛さと引き替えに未来の収穫を求める農業は本能に逆らう行為なのだ。農業をすることで食料生産高が上がっても別に暮らしが豊かになるわけではない。なぜなら歴史的に見ると食料生産高が上がると同時にそれだけ人口が増えるから、まさに「働けども働けども楽にならず」なのである。 だから、農耕の初期の頃は奴隷が従事していたのではないか、というのが僕の推論。支配者が自分の食糧を確保するために強制労働させていたのが、そのまま社会を支える基盤として定着したのではないだろうか、ということ。これが現代に至るまでずっと、労働が辛い、というイメージのまま残ってきているのではなかろうか。
では、農業は全て辛いものか。僕は農業の経験はないので確実なことは言えないけども、そうではないだろう。きっと、自分の作った米や野菜が自分の「作品」と思える農家は、そこに喜びを見出しているはずだ。 リチャード・ドーキンスは人間が人間に残し伝えていく情報を「ミーム」と名付けた。僕は勝手に「文化遺伝子」と訳している。生物は本能的に自分の遺伝子を残そうとする。そういう本能のある者だけが生存してきたわけで、人間も例外じゃない。でも人間は生物学的な遺伝子に加え、自分の「作品」を残すことに喜びを感じるようになった。自分のアイデアが世に広まり、次の世代に残っていくのを子孫繁栄に近い快感であることを発見したわけだ。芸術家が自分の作品を「子供」などと呼んだりするのも興味深い。歴史的に見ても、何かを極めた達人は生涯独身だったりするが、その人にとって文化遺伝子を残す快楽が子孫を残すそれを上回ったと言うことだろう。現代でキャリアか子供かと悩む女性にも当てはまる気がする。それはともかく。「ミーム」を残す仕事は本能にかなっているのである。
仕事は楽しいと言われたり、労働はつらいと言われたり、働くことについてのイメージが分散しているのは、本能に逆らうものとかなうものが混在しているからだと思う。その人の働きがただ消えていくものはつらいが、何らかの形で残るものは楽しい。広告業が相変わらず人気があるのは、自分のアイデアを広めたい、残したい、という人の本能にかなっているからだと思う。しかし、どの仕事が楽しいかではなく、どうすればその仕事は楽しくなるか、という視点がより重要なのは間違いない。たとえば店員の仕事だって、その人の笑顔がお客の心に何かを残していることを知ればとたんにやりがいを感じ始めるだろう。 そういう研究や教育がもっと進んでいけばもっと人は幸せに働けるのにと僕は思う。
あまり感想になってなかったかな。すんません。

2011年10月16日
by kossii
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長袖予報

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僕は株を買えば必ず下がり、売れば必ず上がるのだけど、服装もほぼ必ず裏目に出る。この季節は僕にとって非常に苦手な季節だ。半袖を着ていくと必ず寒く、長袖を着ていくと必ず暑い。僕の長袖半袖は、なぜかいつも世の中の人たちと逆なのだ。そしてそのうち風邪を引く。
季節の変わり目は風邪を引きやすい、とはよく言われるが、それは、寒い日に半袖を着ちゃうようなうっかりさんが多いということではなかろうか。 僕のようにいちいち何を着るか悩むのが面倒、という性格ばかりが問題なのではなく、家屋の性能が向上しているのも無視できないだろう。現代家屋の壁は昔のようにペラペラではなく、非常に優秀な断熱材でできているから、家の中では気候を感じにくくなっているわけだ。だから、今日は何となく暑そうだし、コート着ていくのも面倒だし、このまま行くか、と甘く予想して風邪を引く。
少しデカい話をすると、いま社会保障費は膨張する一途で、これをどう圧縮するかが国にとって喫緊の課題となっている。この中で、「寒い日に間違えて半袖着て引いた風邪」の医療費は案外と馬鹿にできない割合なんじゃなかろうか?医療費削減のためにも、ぜひ「長袖予報」を提案したい。天気予報で、「東京は長袖です」「埼玉はコートが必要です」と、何を着ていくべきかの予報も同時にすればいいわけだ。 ピクトグラムで長袖シャツやコートのアイコンを見せればいいだけだから、簡単にできると思う。もちろん最高気温/最低気温を見て自分で判断すればいい、という話もあるが、少なくとも僕はそこから何を着ればいいか判断つかない。つかないったらつかないのだ。そういう人は他にもたくさんいるはず。
2年前広告批評のラストイベントに招かれた時に「クリエイティブは世の中を幸せにできるか」というテーマを投げられた。僕の答は「もちろんできる」だったのだけど、これはまあその一つの例。小さなアイデアを積み重ねて日本を少しずつ良くしたいものだ。などという文章をパンツとランニング姿で打っている。

2011年10月15日
by kossii
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アルゴリズム男子

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ここ数年、若い世代と接することが増えてきた。事務所には30歳以下の従業員が5人いるし、無料広告学校では一回に15人の若い人たちを相手にする。彼らの動きとか仕事への姿勢とか見てて感じるのは、「自分とはずいぶん違うなー」ってこと。特に男子。僕はとにかく打合せでもセミナーでも何か発言せずにはいられない。授業参観でも「先生それちょっと違いますよ!」とか言ってしまって子供からにらまれる。彼らはとにかくしゃべらない。打合せでもひたすらメモを取るだけで自分の意志を顕わにしない。僕はあらゆるものを疑う。新入社員の頃も上司や先輩の案を見て「こういうコピーの方がよくないですか?」なんて生意気を言ってた。彼らは僕が提示した案をそのまま受け取って一切疑わない。僕はライバルを出し抜きたい。彼らは仲間とつるみたがる。横並びが大好きのようだ。それで世界一のクリエイター目指してます、なんて矛盾を言ったりする。僕は先取りをしたい。工夫をしたい。社員のToDo共有にNozbeを導入しよう、とか、WEBサイトの構成をこう改良しよう、とか言い出すのは常に僕で、若い従業員が何か自発的に提案してきたことはただの一度もない。やる気がないわけではないようで、与えられた仕事は黙々とやる。僕にとっては非常に不思議な彼らの動き。前々から何かに似ていると感じていた。そして、コシモはきづいた!こいつらの動きって、ドラクエの「勇者」と同じじゃんと。
ドラクエの勇者はしゃべらない。周囲のキャラクター達が勝手に気持ちを理解してくれるから、話す必要がない。やるべきことは、ふらふら歩き回ること。そのうち仲間が増える。誰かとぶつかったりして、「北の洞窟に行くといいよ」みたいな話を聞く。そしてその通りに行動していればいつのまにか成長して世界を救う。ふらふらとセミナーやイベントを歩き回って、自分を導いてくれる人やチャンスとの出会いを待っているコピーライター志望の若者と、動き方が非常に似ている気がする。いやそのことはいいと思うんだけど、そうしてれば何とかなる、と思ってる人が多いような気がするわけだ。
ドラクエ型コンピュータRPGの元祖は「Ultima」だろう。これは大人向けのPCゲームで、世界に散らばる「徳」を集めるという、やや宗教的で難解な内容のものだった。これを、魔王を倒すというふうに目的を単純化し、世界観を日本人向けにアレンジしたのがドラクエだと僕は認識してる。往年の大女優淡路恵子さんは、人生の悲しみやストレスを克服するためにドラクエに没入し、台詞のほとんどを覚えてらっしゃるほどのファンだった。自分の人生はドラクエで救われた、スタッフにお礼を伝えたい、どなたか紹介してくれないかと頼まれたので堀井雄二さんとの会食をセッティングしたことがある。こういう人にとってRPGは素晴らしい救いとなる。矛盾のない完璧な世界。歩いていれば何かが起こり、努力すれば成長し、必ず最後はハッピーになれる。現実の世界と「真逆」だからこそ、大人は不完全で理不尽な現実世界からの一時逃避として、バーで酒を飲んでママにくだ巻くのと似たような動機でRPGをする。そして次の朝には現実に戻る。しかしもともとは大人向けだったRPGを子供にやらせることを、僕は非常に危惧している。まだ現実世界を知る前の、幼少時の多感な時期にこの完璧世界にひたらせるのがいいことか。以前プレイステーションのコンサルティング契約をしてた頃、小学生にRPGをさせる危険性を調べるべきではないかとSCEに提案したこともある。
今の若い世代は自発性やパワーに欠ける「ゆとり世代」と揶揄されている。しかしその原因は教育にあったのだろうか。僕にはどうも彼らは「アルゴリズム世代」であるように思える。プログラマーが作った狭いアルゴリズム世界で育った世代…という印象だ。なんというか、発想や認識している世界の幅が非常に狭いような気がするのだ。草食男子は「アルゴリズム男子」。勇者は女をくどかない。向こうが気持ちを察して勝手に彼女になってくれるのだ。
原発問題にしても、僕は、この世界は理不尽なものという前提があるから、原発今すぐ停めるべきなどとは考えない。電気が止まり、工場が止まったら首をくくる人が何人もいるだろうと考える。工場は一瞬でも停電があるとその日の操業が全て無駄になったりするのだ。だから、まず電力の確保をした上で、原発を減らすにはどうするか考えるのが正しい順番だろう、などと思う。しかしそんな話をツイッターですると、若い人から「アホな広告屋」などと言われたりするのだ。アホとかバカとかを多用する人がいるが、自分の世界の枠を越えたものをそう呼ぶしかないのだろうと思う。
歴史上、「天才」と呼ばれた人たちのほとんどは子供時代を田舎で過ごしているそうだ。人間のアルゴリズムでは生み出すことのできない、身近な自然物の無限の営みが脳にいい影響を与えるのかもしれない。 自然は理不尽で思い通りにならない。天才的な解決法とは、都合良くいかない世界を直視する中から生まれてくるものということだろう。広告クリエイティブ業界も、今後天才と呼ばれる人が現れるとしたら、極端に言うと、離島で育ってRPGって何ですか?というような、そんなヤツなんじゃないだろうか。
今の若い人たちは学生の頃からほんとうによく勉強していてそこには頭が下がる。でも勉強の幅の狭さには不安を感じていないようだ。それはあたかもモンスターと戦ってレベル上げしてれば全てオッケーと信じているかのよう。 僕はぜひクリエイター志望の若い人たちには勇者と逆のことをしてほしい。自分の世界、自分の常識を疑う。自分の敵は自分で決める。仲間と横並びにならない。自分の言葉をしゃべる。自分の考えで動く。被災地に行くにしても、誰かにくっついていくんじゃなくなるべく自分一人で行くと感じ方も違ってくると思う。

2011年10月13日
by kossii
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最強の痴漢撃退法

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もうずいぶん前、まだ独り暮らしだった頃、夜中に電話が鳴った。こんな時間に誰だろと思いつつ「もしもし?」と応えたが返事がない。切れてるわけではない。電話口の向こうからかすかに、「はあ…はあ…はあ…」と吐息のようなものが漏れ聞こえてくる。「どなたですか?」と聞いても反応が変わらない。僕はピンと来た。これは…母親に違いない!と。その頃うちの両親は非常に不和で、いつも離婚するだの何だのともめていたので、母が電話の向こうでしのび泣いていると思ったのだ。「母さん!母さんだろ?母さん!」と僕は叫んだ。そのとたん、ぶつりと切れてしまった。その後しばらくして、やっと得心できた。あれは変態電話だったのだ。僕はおかしくなってきた。変態もさぞびっくりしただろう。まさか「母さん」という言葉が返ってくるとは思わなかったに違いない。それに、男にとって「母さん」というのは最強に「萎える」言葉なのだ。
今日、大病院の泌尿器科に行った。2年ほど前から睾丸に水がたまるようになって、それは陰嚢水腫といって特に害のない病気なんだけど、完治させるために手術の申し込みに行ったのだ。泌尿器科の先生を僕は非常に尊敬する。他人の男のあれを素手で触れるというのはいかに職業といえどすごい。でも、若い女医となると感心ばかりもしてられない。反則だ。エコー検査であそこをぐりぐりされて僕はちょっとヤバい感じがしてきた。万が一にも反応しちゃったら大変じゃないか。それで僕は邪念を払うために微分積分を思い出そうとした。しかし高校の数式など思い出せるわけがなかった。次に僕は母親の顔を思い描いた。一気に萎えて、無事に検査は終わった。
女性達に覚えていてほしいこと。もし暗がりで痴漢に出会ったら、こう叫ぶといい。「母ちゃん!」。それで男はほぼ萎える。これより強力な痴漢撃退法は存在しないのではなかろうか?ぜひACでもCM化を検討してほしいものだ。