2012年3月29日
by kossii
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コピーの価値

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「MAXIS」という会社が、100本1万円でコピーライティングをするサービスを始めるらしい(http://news.mynavi.jp/news/2012/03/27/113/index.html )。「キャッチコピーは1本100円の時代に」が宣伝文句で、反発しているコピーライターも多いようだ。Twitter上で「新世代コミュニケーションプランニング」の著者でもある高広さん(@mediologic)からこれについて意見が聞きたいと振られたので、自分の思うところを少し以下に述べてみたい。
ずいぶん前から感じていたことなのだけど、言葉の値段はどんどん下落する一方だ。ネット社会が成熟し、ブログやSNSで一般人が言葉を発し始めたころから言葉の流通量は爆発的に増えた。モノの値段というものは基本的に需要と供給によって決まるわけだから、必然的に言葉は安くなっていく。エディトリアルの世界ではライターはもうやっていけない、という話をよく聞くし、職業作詞家もほとんど絶滅状態だ。秋元康はおニャン子やAKB48などコンテンツありきで作詞をくっつける、というやり方を発明して生き残っている。コピーライターのコピー料もどんどん下がっている。つまり言葉業界は構造不況なのだ。「百円キャッチコピー」はそんな状況を象徴するサービスのように自分には感じられた。
では今後コピーライターは廉価多売に甘んじて、言葉大量生産マシンにならないと生きていけないのだろうか。そうではないと思う。コピーには百円以上の価値がある。というか、コピーをたくさん書きますよ、安く書きますよ、という発想自体に問題がある。残念ながら、コピーの価値についてわかっている人は広告業界の中にも少ない。そこがいい加減だから、百円コピーなどというサービスが出て来るとおたおたしてしまうのだと感じている。
まず僕のような職業コピーライターがどうやって稼いでいるかを解説してみたい。僕はコピー一行納品して、だいたい数十万円、場合によっては数百万円いただいている。百円コピーを書くライターの千倍以上の報酬を得ているわけだが、インスタント麺とフカヒレ麺よりも激しいこの値段差にはどういう根拠があるのか。
ひとことで表現すると、僕が書くコピーとはいわば「作戦が濃縮された言葉」だ。最近の例を一つ挙げる。東海地方に「izumoden」という大手結婚式場チェーンがあるが、昨年の秋からサービス内容も含めた全体を刷新することになり、新ロゴ、新CM、新ブランドスローガンなどを僕の会社でお引き受けした。採用されたスローガンは、「結婚っていいものですよ。」だ。これを見た人からは、なんでこれがブランドスローガンなのかわからない、と言われることがある。しかしターゲット層を対象とした好感度調査をするとかなり高いポイントが出てくる。なぜか。izumodenのターゲット層は結婚を間近に控えた人たちだ。マリッジブルーという言葉があるが、彼らはただハッピーなばかりでもない。結婚という人生の大きな選択に対して不安いっぱい。そんな彼らに対してどういう言葉をかけてあげると一番うれしいだろうか、と考えて導き出したわけだ。結婚前じゃない人たちに響かなくても、全く構わない。広告はターゲットにだけ伝わればよい。また、ブランドリニューアルにおいて非常に重要なのは、従業員が気持ちを一つにして進むべき同じ方向を見、その方向に自信を持つことだ。izumodenはグループとして葬祭も行っている。人生の冠婚葬祭全てを引き受けますよというスタンスが、ホテルやハウスウェディングなどとの大きな違いだ。ならば、人生全体の中での結婚、という俯瞰した視点を持ち、独自の魅力的なサービスにつなげていく。そこを自分たちのアイデンティティにしようよと。そういう志をコピーの中に含めている。アイデンティティがしっかり確保できれば、じゃあ新しいサービスや施策はこうあるべき、という、あらゆることが生まれてくる礎ができる。そこに大きな価値があるわけだ。他に最近書いたコピーではReebokの「反則?」などもあるが、これはキャッチーさを追い求めただけでなく、今後のブランドの進むべき方法としてナイキやアディダスなどとはっきりポジションを変えていこうという大きな狙いを含んでいる。コピーが「作戦が濃縮された言葉」であると言った意味が少しわかっていただけただろうか。
こういったコピーを書くには時間が必要だ。エージェンシーの営業さんの中にはまるで自動販売機のボタンを押せばコピーがごろんと出てくるかのように思っている人もいるが、そういうわけにはいかない。まずクライアントの意識や状況をしっかり把握して、感覚的に言えば脳ではなく身体の中にいったん収める。課題を自分の肉体化する。そして、考えてみたり、忘れたり、ということを何週間かやると、潜在意識下でいろんなアイデアがどろどろと煮えたぎる。そしてあるタイミングで、その中から「これ」というものが飛び出してくる。いいアイデアを生み出すには潜在意識下のカオスを醸成することが必要なのだ。
「作戦が濃縮された言葉」としてのコピーは全ての指針、土台となるわけだから、クライアントは高い値段をつけてくれる。しかしほとんどのコピーライターがコピーをそういうものとして捉えておらず、書き方も知らない。30年ぐらい前に糸井さんが週刊文春で「萬流コピー塾」というページを連載していた。これはまあ広告コピー「的」な言葉をいろんなものにくっつけてみようよというお遊びだ。たとえば「現代」というお題に「戦争や平和。」とか、「草履」というお題に「我が家に代々伝わる短足を乗せてみた。」とか。物事をいろんな角度から見る訓練としてはおもしろい。でも当然ながらそこに販売戦略やブランド戦略などはない。とても広告コピーの体をなしてはいないわけだが、驚くべきことに巷のコピー学校ではいまだにこれと同じことをやっている。何かお題を出して、生徒にコピーを考えさせ、おもしろいとかおもしろくないとか。そういうところで学び「広告コピーってこういうものなんだ」と思い込んだコピーライター志願者は、実務で使い物にならないことが多い。ターゲット視点について説明しても理解できない。自分視点でちょろっと面白おかしな言い回しを考えるまではできても、いったい誰がどうしてその言葉に数十万円を支払うのか、というところの想像までできないのだ。家族が「おいしいね」と言って食べてくれたからといって、そのラーメンで商売を始めようと思う人は少ないだろう。ビジネス感覚が異常なことになっているわけだ。
コピーと言えばキャッチコピーだ、という一般的な認識にも問題がある。TVCMであれグラフィック広告であれ、広告の基本構造は「キャッチ+結論」だ。CMなら気になるビジュアルやストーリーがまずあって、グラフィックならキャッチコピーやキャッチビジュアルがあって、最後に結論として「この商品を買うとあなたにとってこんなにいいことがあるよ」といった内容のコピーが来る。どちらが重要かというと、結論コピーの方が圧倒的に重要だ。ここがその商品の広告戦略の土台となり、ターゲットの心理変容、態度変容を生み出す。キャッチは文字通り興味をキャッチするためのものであって、言葉でなくたって構わない。キャッチがキャッチとして力を失わないためには、常に変えて行かざるを得ないという矛盾がある。結論コピーはコミュニケーション戦略が変わらない限り何年も変わらない。「名作コピー」といってキャッチコピーを集めた書籍などもあるが、広告クリエイティブ業界のキャッチ礼賛主義は間違っているし、キャッチの書き方しか知らないコピーライターは広告の仕事を知らないと言っても過言じゃないと思う。
百円キャッチコピーがビジネスモデルとしてうまくいくかどうかはわからない。たぶん難しいんじゃないかと思う。これが役に立つのはクライアントにしっかりとした作戦が確立されていて、他の言い回しがほしいとか、そんな場合に限られると思う。でもそれなら社内や知人からアイデアを募集してもさほど結果は変わらないだろう。コピーライターが発想を広げたり思いがけないキーワードを見つけたりするためのアシストとしてなら使えるかもしれない。
僕が嫌だなあと思うのは、こういったサービスが登場することでコピーの価値についての誤認識がますます広まること。「なんであなたのコピーはそんな値段なの?」と聞かれてコピーとは、をゼロから説明するのはかなり煩わしい。

2012年3月28日
by kossii
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必死を恐れる人のアイドル

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「俺はまだ本気出してないだけ」というタイトルのコミックがある。なんとなく不満で会社を辞め、なんとなく漫画家を目指すがダラダラとしか生きられないダメ男の日常を描いたものだが、このタイトルはとても秀逸だと感じている。いまの世代の心情、必死になることができない精神構造をひとことで言い当てている気がするからだ。
若いコピーライターたちを見ていて不思議に思うのは、「なぜこいつらは必死にならないんだろう?」ってこと。僕が新人の頃はみんな必死だった。僕もどうやればコピーライターとして「書ける」ようになるのかわからなくて、コピー年鑑を書写してみたりフランス映画の字幕をメモってみたり電車に乗りながら書いてみたりと、まるっきり無駄な努力も含めていろんなことを試した。自分の知る限り、今の人たちはそういう足掻きをやらない。かっこつける。何も調べようともせず机の上でいきなり書き始めて、書いたものをダメ出しされても、また同じことをやって同じことを繰り返すだけ。このままじゃヤバい、何とかしなきゃ、どうしたらいいんだ、という焦りが伝わってこない。いや、違うな。きっと焦りはあるはずだ。やらない、じゃなく、できない、んだろう。正確に言うと、なりふりかまわず必死にやって、自分は何でもない人間なんだという結果を見るのが怖いんじゃないだろうか。そんな気がする。
そして、AKB48。
彼女たちを支えているのは、そんな、必死を恐れる人たちなんじゃないかと僕は見ている。なりふりかまわず必死になるなどという、彼らにとって恐ろしいことをやってくれている、そこにリスペクトが生まれる。昔のアイドルは完璧に「できあがった」状態で皆の前に出てきた。うんこもしないパーフェクト人間だった。AKB48が昔のアイドルと違うところは、必死さを隠そうとしないところだ。いやむしろそれが戦略になっている。彼女たちはできあがっていない。できあがるまでの必死のプロセスを楽しむ「システム」なのだ。
必死さはTVを通じては伝わりにくい。だからライブ活動、密着活動を主体としてきた。コンサート中前田敦子が過呼吸で倒れたとき、主催者側がそれを隠そうとしたところ、秋元康はなぜそれをそのまま観客に伝えないんだと叱ったと言う。「総選挙」や「じゃんけん」がなぜあれほどウケるのか。それは残酷だからだ。必死にスターダムを目指してそれでも突き落とされて涙ぐむ姿に、必死になれない人たちが共感を抱く、そういう構造を作っているんだと思う。AKB48は彼女たちの涙とワンセットなのである。
その中心が前田敦子だった。失礼ながら、彼女はいわゆるアイドルとしての美しさを備えているとは言いにくい。口の悪いネット住民からは「顔面浜田」などと揶揄されても来た。そんな彼女だからこそ、必死さが見えやすい。涙が様になる。ファンは、そこに自分の姿を投影しやすかったんじゃないか。
しかしいま、前田敦子は「AKB48システム」にとってもはや不要の存在とも言える。登りつめてしまったからだ。ドコモ「応援学割」のCMが象徴的だ。彼女の必死さを見せるにはもう過去の映像を見せるしかない。ヒットチャートを見るとSKE48やNMB48が後ろから急激に追いかけてきている。もともとAKB48のファンだった人たちがそちらに移ってたりしているのだが、それはやはり、国民的アイドルとして不動の位置を確保したAKB48よりも彼女たちの方がもっと必死に見えるからではないか。
前田敦子の卒業劇に関しては彼女の意思でという話になっているけども、そんな甘いものか。AKB48はいまや巨大利権だ。いろんな人や組織が複雑に権利を分け合っている。「じゃあ仕方ないね」といった話にはならんだろう。話の発端が彼女からだったとしても、「その方がAKB48にとっていいんだ」という画が描かれているのは間違いないと思う。まあそのへんの真相はそのうち関係筋から耳に入ってくるだろうけども。
今後、AKB48は新陳代謝を繰り返すだろう。登れば登るほどコア価値である必死さが見えなくなるというジレンマと闘いながら。でもアイドル界全体としての「必死」競争はしばらく続くんじゃないかと思う。

2012年3月17日
by kossii
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2児虐待死事件の真の犯人とは

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ダンテ「神曲」の中で、最もおぞましいエピソードとしてずっと記憶に残っているのがウゴリーノ伯とルジェリ司教の物語だ。二人はピサの有力者だったがウゴリーノはルジェリの奸計に嵌まり、息子たちと塔の中に閉じ込められてしまう。最初はパンが与えられていたがやがてドアが釘で打ち付けられ、誰も来なくなってしまった。あまりの飢えにウゴリーノは狂ってしまい自分の腕をかじり出すがそれを見た息子たちは自分を食べてくれと言う。この身体はもともとあなたからもらったものだからと。ウゴリーノは取り乱した自分を恥じ、心を平静に保ちながら救いを待つが息子たちは一人ずつ死んでいく。そして彼もついに絶望の中で力尽きていく。憤怒の恨みを抱いて地獄に落ちたウゴリーノはやがてそこに落ちてきたルジェリを捕まえ、その頭をかじって食う。頭が再生するとまたかじる。それを永遠に繰り返す。どれだけかじっても恨みは晴れぬと喚く。ダンテ「神曲」はもちろん創作だけども、このエピソードはピサで実際にあった事件が基になっている。彼やその時代の人たちにとってそれだけの衝撃だったのだろう。
「大阪2児虐待死事件」で懲役30年の判決が出た。僕はこの事件のニュースを見るといつもウゴリーノ伯のエピソードを思い出す。弁護側は「保護責任者遺棄致死罪」を主張していたようだが、幼児を置きっぱなしで炎天死させたとか凍死させたとか、そういう事案と同一視していいんだろうか。キッチンに出て水を飲めないようにドアをテープで塞いだらしいが、それで殺意がなかったと言うならば、ドアを釘で打ち付けたルジェリ司教も自分には殺意がなかったと地獄の審判で弁明できるだろう。
餓死とはどれほど苦しいものだろうか。成人なら努力の限界もわかるだろうし、それが無駄だと知った時どのように心を静めて運命を迎え入れるか考えることもできたろう。天国で次の生を営むことを期待するかもしれない。幼児には餓死という概念も、努力の限界もわからないに違いない。自分の糞尿を食べてさらに苦しみながら、最後まで無為な足掻きをしていたはずだ。
餓死した2児とウゴリーノの違いがひとつある。それは、2児はきっと母親を恨んでいないということだ。僕ら成人が見ている世界と幼児が見ている世界は違う。幼児にとって親は世界そのものなのだ。幼児は理不尽に虐待されてもそれを理不尽だとは思わない。自分が悪いことをしたからだと思う。悪いこともしてないのになぜ?というのは自我が芽生えてからの心理。虐待されて育った子供は自分の中に基準がなくなり、どう行動していいのかわからなくなってしまう。自我が芽生えずそのまま成人になった人のことをアダルトチルドレンと呼んだりもする。この2児は母親のことを恨んだりはしていない。何か悪いことをしたから罰されたのだと、自分たちを責めながら死んでいったはずだ。
下村被告自身も幼い頃に育児放棄されたらしい。親が離婚再婚を繰り返し、自分を顧みなかったと。親に見放されるのも立派な虐待だ。親に捨てられるなんてそれほど自分は悪い子なのかと幼児は思うからだ。そしてそれは成人してからもトラウマとして一生心に刻まれ、行動の判断基準を失わせてしまう。彼女には殺意はあった。しかしそれがいいことなのか悪いことなのかの判断ができなかった、というのが正しい見方だろう。こういう裁判にはオブザーバーとして児童心理学者を招聘すべきと思う。正常な人にはその心の構造が理解しにくいからだ。
ネットなどでは、多くの人たちが「今の若い女は云々」と憤っている。マスコミも、快楽に走って善悪の判断がつかなくなった女が起こした事件、ぐらいの報道の仕方をしている。とても表層的だと思う。この事件の本質として採り上げられるべきは今の「女」ではなく今の「親」だ。これは虐待の連鎖がもたらしたおぞましい事件なんだ。その連鎖を止めなければ、ということをこの事件の教訓にしなければいけない。
長女が通う公立中学では、半分近い家庭が片親だ。今はとてもカジュアルに離婚してしまう時代だけども、離婚もまた幼児虐待。異常行動する子はそこが遠因となっているはず。そういうことを親は考えなさすぎだし、社会も教育しなさすぎと思う。どうしても離婚するなら、子供が十分育って、自分で善悪の客観的判断ができるようになるまで待つべきだ。自分が悪いから捨てられたんじゃない、両親の問題なのだとわかればトラウマにはならないだろう。
もしこの2児が間一髪救助されていたらどうだったろう。あーよかった、神様はいるんですねといったおめでた話で済んだろうか。とんでもない。彼らはこのことが強いトラウマとなって何をするにも自信がなく、人を信頼することもできない人間に育って苦しみながら一生を過ごすことになっていたかもしれない。それでも母親はたいした罪には問われなかっただろう。そのことこそが現代社会の大きな問題なんだ。

2012年3月14日
by kossii
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これは新種の中元歳暮なのか?

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僕はホワイトデーというものが嫌いだ。だからお返しなどしない。しないったらしない。僕の周りの女性はみな賢明にも「お返ししてくれー」とは言って来ない。
なぜ嫌いかというと、美しくないからだ。野暮だからだ。
バレンタインデーは、まだいい。いちおう由来がある。皇帝の命に背いて兵士の結婚を祝福し殉教した聖ヴァレンティヌスの故事に因み、愛を祝う習慣が時代や国によって様々に変容したのがバレンタインデーだ。日本だけがなぜか「女性から男性に告白する」ということになっているが、そういう日を利用して告白するけなげさを美しく感じる人が多かったから定着したのだろう。
いったいホワイトデーに何の美しさがあるのか?
チョコをもらったら男はお返しをしないといけないと言う。ではそのお返しとは何なのか?愛情なのか?バレンタインデーに告白された男は、嘘でもその子を好きだよと言わなきゃいかんのか?モノなのか?もらったモノに対して返すのがルールというなら、それはただの中元歳暮じゃないか?バレンタインデー、ホワイトデーとは、中元歳暮のことだったのか?昔はせっけん、今はチョコ、そういうことなのか?だったら「2月3月のごあいさつ。贈り物はチョコがいいですね。」ってCMでも流せばいいんじゃないか?
ホワイトデーには何の由来もない。菓子業界が、2匹目のドジョウを狙ってでっち上げたものだ。男もチョコ買えと。女が勇気出して買ってるんだから、男としてもらったままというわけにはいけないでしょ、やっぱり何か返してあげないとね?返すんならこれがいいよ。やっぱ男なら3倍返しでしょ。ね?計算づくの見合い婆みたいだ。ほっといてくれ。
僕は広告学校で、マーケティングとは「付け目」を見つける作業だと教えている。時代の付け目、心理の付け目。バレンタインデーは女性心理の付け目にうまく入っていけた。それで成功した。ホワイトデーも付け目を見つけたようだが、それは、もらったら返すべき、男ならこうすべき、といった脅迫の付け目に感じる。マーケティングとして美しくないのだ。
ただ、過去、ホワイトデーも悪くないな、と思えることもあった。女性から「お返しとしてホワイトデーにデートしてよ」と誘われた時だ。
ホワイトデーのようなものの存在が認められるとして、それをバレンタインデーの延長と考えるならば、日本の場合は、「女性がもう一段プッシュする日」にしたらいいと思う。昔と比べて女性は強くなっている。だから返せ、じゃなく、だからさらにいく、とした方が自然だし笑えるじゃないか。

2012年2月29日
by kossii
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復興CM。

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クリナップは高級システムキッチンで広く知られているメーカーだ。最近、その新製品「ステンレスエコキャビネット」のTVCM1タイプとWEBムービー3タイプを納品させていただいた。この製品はこれまで百~三百万円ぐらいしていたステンレスキッチンを一気に数十万円の価格で提供しようというコンセプトで開発されたもので、それでいてキャビネットの裏の裏までステンレス製という、まさにクリナップが社運をかけたと言っても言い過ぎではない逸物だ。CMとWEBムービーにはCGのスプーンとフォークがキャラクターとして登場するが、その声をスリムクラブにやってもらっている。一昨日からオンエアが始まって、このリンクで観ることができる。http://cleanup.jp/cleanlady-sp/ 評判は上々のようだ。
このCM、僕にとってはただのCMじゃない。もしかすると日本のみんなにとっても意味のある、いわば「復興CM」なのである。どういうことかと言うと、もともとこのプレゼンの依頼があったのは、1年以上前の、昨年の年明けぐらいになる。企画が固まり、制作に入ろうと思っていたその矢先に3.11が来た。クリナップの工場は福島に集中していて、大きな被害を受けた。津波に巻き込まれ、不幸に見舞われた従業員の方たちもいらっしゃった。製造機能が止まり、納品が全くできない状況が何ヶ月も続いた。当然、TVCMなどできるわけない。現場では他社製品を紹介したり、ショールームではお客さんを他社のショールームへ案内したりなど、苦しい営業活動を続けていたと聞く。正直なところ、僕は、会社自体このまま傾いていくのではと不安な眼で見ていた。
それが昨年末に思いがけず、「同じ企画でCM制作してほしい」という連絡がエージェンシー経由で来た。クリナップは立ち直って、今から攻めに転じるのだと。それで震災前に提案のあったCM企画を同じスタッフで制作してほしいのだと。これまでいろんな仕事の依頼を受けてきたけども、この時の感慨深さというのは、ちょっと簡単に言葉にできない。日本の製造業が災禍から雄々しく立ち上がるのを間近に見せていただいた気がした。
僕が初めてクリナップのお仕事をさせていただいたのは5年ほど前。システムバスのCMとショールーム用のムービーを企画制作した。スタッフのがんばりもあってかなり好評で、バスの売り上げもずいぶんと伸びたようだ。その頃ちょうど僕は自宅を建てている最中だったので、システムバスとシステムキッチンをクリナップから安く売ってもらうことにした。「アクリア」というシステムバスはまだ発売前だったから僕が顧客第一号ということになる。システムキッチンは思い切って「S.S.」という最高級ステンレスにした。その最高級キッチンで日々どんな料理が作られているかは、あまりクリナップの人に聞かせたくない。どちらも使っていて感じるのは「誠実さ」。ユーザー視点で細かくいろんなことが考えられている。クリナップの本社は西日暮里の住宅街の中にある。町工場として創業してからそこを動かない。社員を大切にする会社で、身体障害者の雇用に特化した子会社も創設している。初めてプレゼンテーションルームに入った時、社長の訓示が眼に入ってきた。「飲酒運転は身を滅ぼす。」と達筆で書かれてあった。

2012年2月26日
by kossii
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寄付とは投資ではないか

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飢えた人がいる。その人を助けるために、釣った魚をあげますか、それとも釣り竿をあげますか、という質問をどこかで見たことがある。魚をあげてもそれを食べてしまえばまた飢えてしまう。それよりは釣り竿をあげれば、本人の努力次第でもう飢えずにすむ。単にモノやお金を差し出すよりも、その人が自立できるように支援する方が寄付としては実がある、という考えを伝えているわけだ。
正しい考え方だと思う。でも、僕はもう少し掘り下げて考えたい。現実には、飢えた人は一人じゃない。たくさんいる。その全てを救えるわけじゃない時に、どの人に釣り竿をあげるべきだろうか。最も飢えている人にだろうか。最も器用な人にだろうか。
僕なら、自分が教わった釣り方を他の人たちにも教える人。釣り竿を他の人たちのために作ってあげるような人を選びたい。そうすれば、一人を助けることが、十人を、百人を助けることにつながっていく。その人を助けることが、世の中を助けることになる。
つまり寄付に必要なのは、誰を助けるかを見極めた上でレバレッジをかける、投資的思考なのではないか、と思っているわけだ。
僕は毎年児童養護施設への寄付を続けているが、2年前から自分独自のやり方を採り入れさせてもらっている。ある財団法人系の機関を通じて、児童養護施設の高校生から「これ」という子を一人推薦してもらい、その子の大学や専門学校の学資を出す。「これ」というのは、まず、その子のやる気、人間性、能力、家庭事情、といったものを総合的に見て、きちんと学校を卒業し、将来はちゃんと社会の役に立つだろうという見極めのこと。僕が今支援している子は、短大で児童心理学の資格を取り、卒業後は福祉施設で働くことを目標としている。互いに名前は知らない。僕のことを知りたがったそうだが教えないようお願いした。個人に借りを感じるのではなく世の中に感じてほしいからだ。
児童養護施設から大学へ進学するための民間基金は存在しているが、実態としてはうまくいってないらしい。成績が優秀で条件をクリアしたとしても、本人の精神の弱さや、家庭の事情で退学したりする例は多いと言う(児童養護施設の子は孤児とは限らない。親がいながら育児放棄されたり保護されるケースもある)。
それに、僕は人が自分の夢を叶え、社会の役に立つための進学は大学に限定されることはないと思う。短大でも専門学校でもいいはずだ。そういう、良い意味でルーズな制度が見当たらないので個人的に始めた。
そもそもなぜ人は他人のために寄付をするのか。それは人を助けるためだろうか。そうではなく、自分が救われたいからではないか。人間は本能的に、つながりを感じていなくては生きていけない動物だ。 自分も含め、寄付や支援をする人はその行為を通じて社会とつながることで、自分の存在を確認しているのかもしれない。寄付の反対語はもしかすると自殺ではなかろうか。
もちろん寄付にはいろんなやり方があるし、その全てが尊いと思うが、僕は今のところ自分のやり方を気に入っている。 手応えを感じることができるからだ。寄付をした後何年も、自分の投資がどうなるか楽しみにしていられる。ちなみに僕が協力してもらっている機関は中間でお金を抜かないので、出した金額がそのまま本人の元に届く。税金の控除もある。僕の業界仲間で、お金に余裕があって自分もやってみようかなという人がいたら、連絡ください。

2012年2月16日
by kossii
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若者よ良い経験をせよ。

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最近ネットで、若者は大企業など行かずフリーとして生きるべしとか、行っても3年でやめるべしとか、そもそも大学に行く必要もないとか、そんな論調がよく目に入ってくる。
大反対だ。
そういうこと言う人は「経験」というものについてわかっていないと思う。
たとえば教本を読んだだけで車を上手に運転できる人がいるだろうか。とっさの判断でブレーキを踏んだりハンドルを操ったりできるのは、経験の積み重ねが正しい直感を作ってくれたからだ。ビジネスも同じ。うまくいく、うまくいかないの判断は、経験の積み重ねによる直感がモノを言う。
スティーブ・ジョブズを尊敬して彼のようになりたいと言う若者は多い。しかしそれは彼の経歴を知った上で言っているんだろうか。ジョブズは12歳の時にヒューレット・パッカードでアルバイトを始めた。それから数十年コンピュータと付き合った上で世界を変えることができた。ちなみにビル・ゲイツは高校生の時、まだ一般人が誰もパソコンというものに触れてない頃、パソコンの仕事を始めた。
何かしなきゃという意思や、ふとしたアイデアだけで天才になれるわけじゃない。天才の母体は経験なのだ。
昔から優れたCMを連発する企業がある。そういう企業には、ずっと宣伝をやり続けている人がいる。1年や2年でコロコロと人を異動させる企業のCMは安定しない。以前はおもしろかったのに最近どうしちゃったの?という企業と言えば、すぐにいくつか思い浮かぶだろうが、そういうところは長年携わってきた人を異動させている。組織の問題じゃなく、人の問題が大きい。正しい直感を持つ人材は促成栽培できるわけじゃない。
将来何者かになりたいのなら、若者が目指すべきは「良い経験のできる場所」だ。
それは大企業に限ってはいないと思う。しかし僕はやはり大企業ほど、立体的で幅広い経験ができると思っている。だから自分の広告学校の生徒には、できるだけ大きな企業への就職を勧めている。
フリーになってどんな経験ができるだろうか?何にも束縛されず、気楽に仲間と交流し、自分の身の丈に合った仕事だけをするのは気分のいいことかもしれない。でも鈴鹿で毎日先輩にくっついて走っている者と、近所を適当に流している者と、どっちがレースで勝つだろうか。
3年じゃ足りなすぎる。正しい直感を養うためには10年の経験でも足りないかもしれない。じっさい、成功する人はほとんどが30代半ば以降の独立らしい。ちなみに僕は36歳の時。僕に仕事を依頼する人は、僕の経験と直感に依頼していると言っていいと思う。経験のない若者に数十億のキャンペーンの命運を預けようと誰が思うだろうか。
コピーライター募集の最終選考に残した数名に、じっさいの仕事をアルバイトでやらせてみた。頭の使い方がコピー学校とはぜんぜん違いますと言っていた。学校で習うことも、本当の経験とは言えない。経験してもいないのに経験した気になると、大事故を起こす。あるいは一生レースに参加できないかもしれない。
若者よ「良い経験のできる場所」を目指せ。20代の間に、どれだけ良い経験ができるか。それが一生を決めると言っても言い過ぎじゃないと思うから。

2012年1月22日
by kossii
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あるレジ打ちの女性とタクシーの運ちゃん

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Facebookで紹介されていた、「あるレジ打ちの女性」の話に感銘を受けた。 まずは↓このリンク先の話を読んでほしい。
http://1minute.raindrop.jp/?p=5100
何年か前、あるタクシーに乗った。「武蔵小山」と行き先を告げると、初老の運転手は「武蔵小山ですか。今なら、かむろ坂通りは○○(花の名前)がきれいでしょうねえ」と言った。聞いたこともない花の名前を言われて、僕は少し面食らった。「そうなんですか。僕は花とか、そういうの全然わからなくて」。「いま走ってるこの通りの街路樹、あれは○○と言うんですよ。もう少ししたら花が咲きます」。「へえ。街路樹っていろんな種類があるんですか?」。「そりゃもう、東京はね、通りによっていろんな木が植わってるんですよ」と言って運ちゃんは笑った。「あのー、運転手さん、もしかして東京中の街路樹がわかるんですか?」。「わかりますよ」。「本当に!?なんでそういうの覚える気になったんですか」。「えっ、だって一日中東京を走ってたら、いろんな街路樹を見ながら走るわけだし、名前を知ってる方が楽しいじゃないですか」。僕はずいぶん感動した。その日はすごくいい気分でベッドに入ることができて、もし僕がもっと郊外に住んでいたらいつも帰宅に利用するんだがなあ、と思った。 当時僕はキリン生茶のプレゼンを抱えていて、よしこのテーマでいこうと決めた。寝る前に思い出すと、ちょっとうれしくなる、そんな話でいこうと。それで、松嶋菜々子がフェリーに手を振ると乗客がみんな振り返してくれる、とか、転がってきたボールを投げ返したら高校球児が気持ちよくお礼を言ってくる、とか、そんなCMシリーズができた。それは余談。
誰しも日常の生活の中で楽しみを見つけようとする。同じように、仕事の中でも、自分なりの楽しさを発見していく姿勢は必須だと思う。それが仕事への愛着を生み出し、生産性を高め、自分の価値を上げることになる。 昨今はネット上で、若い頃から企業をやめて独立するのが素晴らしい、なんて言う人が多い。嫌な仕事をする必要はない、企業の歯車にならないで、自己実現を目指しなさいと。僕は「いい大人が何をバカ言ってんだ」と思う。「地獄への道は善意で舗装されている」というヨーロッパのことわざを思い出す。目の前にある仕事をどのように自分の楽しみに変換するか、その努力もできない人にいったい何ができると言うのか。
そもそも「自己実現」って何なのか。
企業人であれ、独立人であれ、誰かに何かを提供し、その対価を得て経済活動をすることに違いはない。相手が何を求めているのか、相手にとって自分に価値があるのかないのか、そういう視点に立たないで、まず自分が気持ちいいのが自己実現、みたいに思ってる人は乞食になるしかない。仕事というものがわかってないのだから。いやむしろ乞食になってほしい。コンビニに行けば廃棄食料いっぱいあるし。まっとうに働いてる人の税金をあてにすんなよってこと。
人間はつながることで生存して来た。今でも皆その本能を持っている。組織は自然発生的なものなんだ。犬が家庭になじむのは同じ本能を持っているからだ。むしろ一人になる方が人にとって不自然と言える。自殺とか、異常犯罪を起こす人はほとんどが社会からの疎外を感じている。コピーライターはTCCに群がる。誰もが群がりたがる。一人になるのは恐ろしいことだ。その恐怖を克服することが自己実現ってことじゃない。ここを勘違いしてはいけない。人とのつながりの中で自分の価値を認めてもらうことが自己実現なんだよ。企業の中で自分の存在価値が出てくれば、それは素晴らしい自己実現なんだ。
僕は独立を否定してるわけじゃない。自分自身独立してるし。レジ打ちの女性やタクシーの運ちゃんも、そのうち転職するかもしれない。でも彼らは悩むだろう。せっかく楽しさがわかってきた、せっかく自分の価値が認められてきた今の仕事を捨てるべきかどうかと。それでも本当に自分がやりたいことがあるんだ!と決断するのであれば、その独立、転職は成功すると思う。

2012年1月13日
by kossii
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ネットが信じられるって?

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「TVや新聞は嘘ばかりつく。ネットで流れている情報の方が信用できる」と言う人がいる。これからはネット上の優良な情報を選別するキュレーターの時代だ、と言う人も。
確かにキュレーター、あるいはアマチュア(?)キュレーターの存在はありがたいものだ。「へー」と思うようなトピックスを紹介してくれて、ツイッターなどの楽しみを数倍にもしてくれる。
でも、それがマスコミ報道に取って代わるという意味での「キュレーターの時代」なら、そんなものは絶対に来ないと僕は思う。
僕は仕事の性格上、一般の人よりも新製品の情報を先に知ることがあるし、企業の動きについての実態や、スキャンダルの真相を知ることもある。そして、そういったものについてネットで話される時、そのほとんどが出鱈目だということを知っている。「こうじゃないだろうか」と憶測で語られるならまだいい。「あれはこうなんだ」と、いかにも当事者のように根も葉もない嘘を言い放つ人間の多さに呆れてしまう。「そうだったのか!」とだまされた情報が真実のように伝播されていっても、僕らとしてはそれを眺めるしかできない。守秘義務というもので縛られているからだ。匿名の詐話師のような連中が法螺を撒き散らしているのを真相を知る者たちが苦々しく見ている、ネットの情報とは残念だがそんなものだったりするのだ。
新聞の報道はまだ信じられる。「素っ破抜き」というものが時々ある。僕の過去の経験値では、完全に正確ということは少ないが、実感として9割合ってる。1割はリーク元が自分に都合のいいように歪曲させているような場合だ。
そもそもネットとマスコミでは責任の背負い方が違う。匿名文化のネットでは嘘を撒き散らしても責任を追及されることは少ない。「事実」より「面白さ」がもてはやされる。感情論に引きずられて真実が簡単に歪んでしまいがちだ。マスコミ、特に新聞はまだ「事実」を伝えるべしという最低限の鉄則を持っているだろう。
時々、専門誌からインタビューを受けることがある。だいたいの記者は僕の喋りをボイスレコーダーに記録して、それをまとめるというやり方をする。先日いらした読売新聞の人はそういうことをしなかった。ただちょこちょことメモを取るだけ。記事の元はレコーダーではなく、事前に調べ倒した僕のプロフィールやネットでの発言で、ご自分の中でだいたいの内容をすでにまとめていたかんじだった。つまり僕の文を編集する、のではなく自分の文責において書く、という姿勢なのだ。 報道記者ってそういうことなんだなと思った。
マスコミが偏向報道をすることはあると思う。朝日新聞は日本の戦争責任を追及してきたが、その拠って立つものが真実かは疑わしさが残る。読売新聞は巨人軍のスキャンダルを進んで扱おうとは思わないだろう。広告主を批判しにくいという部分もあると思う。自分たちの生きる糧だから。でも数年前、消費者金融問題を採り上げる際に朝日はサラ金業者の広告掲載をしない、という決断をして売り上げを下げた。さすがにそのぐらいの骨はあるんだと感心した記憶がある。ネットでは原発マネーでマスコミは東電の言いなりになっている、などと言われたりしてるけども、そこまで金の奴隷ではないと信じたい。
僕はこれから報道機関、特に新聞の価値が見直されるんじゃないかと予測してる。ネットの情報がいかに危ないかが判明して来ると思うからだ。TVや新聞の接触率が減少し、売り上げが下がってくると水に落ちた犬は打てとばかりに旧メディアは終わった終わったと快哉を叫ぶ人がいるけども、それが僕らにとって何のメリットがあるのかよくわからない。むしろどうやって支えるか考えた方がいいんじゃないのか。新聞の問題は「紙」というメディアの価値が下がってビジネスモデルが行き詰まっている、ということと思うけども、たとえばフリーミアムの考え方を導入して、ネット上のテキスト情報がフリー、紙の情報をプレミアム、という発想をするとか。新しいモデルをうまく導入できないのだろうか。なんとかかんとかがんばって、ぜひとも生き残っていってもらいたいものだ。

2012年1月12日
by kossii
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尾崎の反抗、おれの反抗

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朝日新聞の社説が波紋を呼んでいるようだ。要点を言うと「今の若者はもっと尾崎豊の反抗精神を学んでもいいんじゃないか」ってことだが、尾崎という人間すら知らない世代にそんなん押しつけてどーするとか、WEBでいろんな異論が出ている。
僕もこの社説から大きな違和感を得た。でもそれは「反抗」という言葉の定義についてだ。尾崎豊は「ここではないどこか」に行きたいという反抗精神を歌っていた、ということだけど、窓ガラス割ったりバイク盗んだりするのが反抗だという発想がなんだか貧弱だなあ、と感じたわけ。
僕は大阪の貧乏な家に一人っ子として生まれた。なぜ他に兄弟がいないのかと聞いたら、養う金がないという返事だった。親は僕に、京大に入って大阪市役所に勤めろという。僕は役所の仕事を馬鹿にしているわけではないが、とにかく自分には向いてないと思った。しかし親はそういう発想しかできない人だった。「ここではないどこか」に行かなきゃいけないと思った。そして、そこから逃げるためには東大文一に入る以外なかった。それが自分の反抗だった。 僕はガラス割ったりバイク盗んだりしても何もならないということがわかっていた。
いま、ガラス窓の割れている学校はあまり見ない。成人式が破壊されたというニュースも聞かなくなった。学校が荒れてなければ若者は反抗していないということなんだろうか。そうじゃないだろう。目に見えない反抗をして「ここではないどこか」へ行こうと企んでいるヤツらはたくさんいるはずだ。そういうヤツらに、バイクも盗めないようじゃあと嘆くのはあまりにトンチキだ。
そも、尾崎が歌いたかったのは反抗なのか。そこも違うと思う。彼はかなり心の弱い人だったろう。それをむき出しで表現していただけだ。心が弱すぎて早世してしまった。
歌というのは現代人にとってどういう価値があるのか。カラオケがなぜストレス発散になるのか。歌というのはその人の心の弱さを大声で述べることが認められている表現手法なのだ。もしあなたが居酒屋で毎晩「どれくらいの値打ちがあるだろう?僕が今生きているこの世界に」なんてつぶやいてたら、「うわ、キモ」「酒が不味くなるからやめろ!」と嫌がられたり怒られるに違いない。ところがミスチルがステージでそれを歌にすると観客総立ちで泣いたりする人も出るし、カラオケで歌っても拍手がもらえる。好きな人に振られて泣いたとか、自分の恋人のことばかり毎日思ってるとか、どう生きていけばいいかわからないとか、日常で口にすると「なんて陰気なヤツだ」と皆逃げていくような心の弱さを大声で述べられるのが歌なのだ。
僕も尾崎をよく歌う。「15の夜」とか「卒業」はピンと来ない。でもクリエイティブでメジャー目指してもがいてる人に「シェリー」は心に響くと思う。もし今の時代に尾崎がいたら、ニートの心情を丸出しにした歌を歌ったかもしれない。バイクを盗む歌は歌ってないと思う。