2021年1月12日
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小霜より新年のごあいさつ

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明けましておめでとうございます。

昨年は大変な1年でしたね。
こちらは蓋を開けてみると売上的には例年とほぼ変わらず、これも皆さまのご厚誼によるものと心より感謝しております。

1月8日の日経クロストレンドにこのような記事が掲載されました。
(有料会員記事です)

https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00407/00006/?n_cid=nbpnxr_mled_feature_01
今年もコピーライティングやネーミングなど、広告クリエイティブ全般についてこれまで通りお引き受けしていますが、自分にしかできない役割は「マス・デジ」統合コミュニケーションのサポートになろうかと思います。
この記事では具体的にどういうことをしてるの?どんな成果が上がってるの?などの紹介がなされています。
(積水ハウスさまありがとうございます)
ご興味あればご一読ください。

さて昨年、特に前半はずっと自宅でNetflixとPS4に漬かっているような毎日でしたが、それでも売上や収益を保ったということは、テレワーク化によって少なくとも効率だけは劇的に高まったということです。
それまでの自分の働き方は毎日あちこちに足を運んでは打合せをするというものだったところ、毎日数時間の移動時間がほぼなくなったわけですから。
この余った時間をどうするか?が今年のテーマです。
アドバイザリー契約先もさらに2社加わる予定ですが、仕事を増やすだけ増やす、というのも深みのない話ですし、今年は「オープン」な年にしようと思いました。

クライアントビジネスはクローズドな仕事ですが、ノンクライアントのオープンな動きも増やしていこうということです。
たとえば、宣伝会議宛に、「ここらで広告コピーの本当の話をします」について、著者の講義はないのかといった問合せが入るそうなんですね。
であればこの本の内容をベースに、コピーライティングを中心とした広告クリエイティブについて改めて体系化されたオンラインセミナーを実施し、それを映像アーカイブ化する、そんな検討を始めています。
最近は若手のデジタル系クリエイターなどがコピーライティングの学習を求めているようなのですが、彼らに必要なのは感性論というよりはロジカルな体系化であるようです。
そんなこれからの業界を担う人たちのニーズに合わせた学習アーカイブが必要と考えたわけです。

また、今年も東京コピーライターズクラブから企画部幹事のオファーがありましたが、今回はお引き受けしようかと。
毎年選挙で選ばれるのですが、自分に期待する人たちがそんなに多いのであれば、これからはクライアントビジネスでは得られない、そういう方々との回路も大事にしてみようかなとちょっと気が変わったわけです。
社会貢献活動もこれまで以上に。
網膜iPS再生医療の高橋政代先生率いるNEXT VISIONのアドバイザーも正式にお引き受けしまして、視覚障害者の支援活動もサポートします。

問題は体力ですね…。
1日中座りっぱなしの引きこもり生活を1年続けていたら体力、筋力が相当低下したようです。
ちょっと歩くと息が上がるし。
だからテレワークに頼る…となるとどんどん負のスパイラルに陥りそうです。
あまり効率化ばかり求めないで、時間を使って無駄に歩き回る方が身体にはいいのかな…とか思ったりもします。
自粛生活の長期化による健康への影響は今後社会問題化する気がします。
皆さまもぜひお気をつけください。

では、本年もよろしくお願いいたします!

小霜和也

恐れながら社長マーケティングの本当の話をします。

急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。 (宣伝会議)>Amazon

ここらで広告コピーの本当の話をします。 (宣伝会議)>Amazon

欲しい ほしい ホシイ── ヒトの本能から広告を読み解くと(インプレス・ジャパン)>Amazon

2020年12月31日
by kossii
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オリンピックを中止にする理由がわからない

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今年言いそびれたこと、その3は、
「オリンピックを中止にする理由がわからない」
です。

たぶん「グッとラック!」だったと思いますが、コロナが収束しない状況でオリンピックは開催できるのか?というテーマについて、橋下徹さんがこんなこと言ったんです。
「開催できないですよ。だって、アスリートだって日本に来るの嫌がるでしょう」。
僕はそれを聞いた時、
「いやいやいやいや、アスリートが嫌がるわけないでしょうよ!」
と、心の声が外にそのまま出てしまいました。

オリンピック・パラリンピックはアスリートにとって人生を変えるイベントですよ。
人生そのものかもしれない。
コロナに感染するのが怖くて東京に来ないなんてことあるかあ???
僕はその時確信めいたものを得ました。
それは、橋下さんのような方でも、オリンピックとなるととち狂うんだな、ということです。

そもそもオリンピック・パラリンピックって何ですか。
ひとことで言うと、人間賛歌ですよね。
クーベルタンは「人の努力」に価値を置いています。
「参加することに意義がある」とはそういう意味ですね。
人は努力することによってここまで行けるんだ!という姿に全世界が刮目し、人間の素晴らしさを再確認し、新しいスターの誕生に喜びあい、互いの努力を讃え合うことで世界の交流と平和を図る、それがオリンピック。
全世界が楽しみに待っているイベントですよ。
東京オリンピックはそのことが置き去りになってませんか?

報道でもSNSでもよく「東京オリンピックは中止にすべきだ」という人いらっしゃるけど、そもそも僕らに中止にする権限なんてないからね。
それわかって言ってるのかなあ。
東京オリンピックは日本人のものではなくて、世界中の人々のものなんだから、東京都や日本の都合で中止になんてできないんです。
できるのはIOCだけ。
喩えるなら、ジャニーズの年越しライブをドームでやるとして、ドームの従業員たちが「今年は中止にするかあ~?」と話し合っているようなもの。
いやいや、契約したからには、それあなたたちが決めることじゃなくて、決めるのはジャニーズなんで。
それに似た滑稽さがあります。
もちろん意見を言うぐらいはできるでしょうし、尊重はしてくれると思いますよ。
でも、IOCが「できるはずだ」と判断したらそれに従うしかないわけです。
暴力的に拒絶することもできるかもしれませんが、とんでもない賠償と拭えない不信を背負うことになるでしょう。
ドームが一方的に閉鎖したら、それ以降ドームと契約する興業団体はなくなるだろうってことです。

いったい皆、何を怖れているんだろう。
コロナの拡大?
オリンピック開催して、世界からアスリートとスタッフがやって来ると、コロナ蔓延が加速する?
GoToトラベルを利用した人は11月末時点でのべ約7千万人。
GoToトラベルがコロナ蔓延を加速したとか関係ないとか言ってますけど、オリンピックに来るアスリートとスタッフの人数ってどれくらいですか。
海外客だとしても、それ、どれほどのインパクトあるのかなあ。
きっちりとした監視下で検疫もするわけでしょ?
さらに金がかかりそう?
もちろん、開催費用の大部分は東京都民、日本人の税金から賄われるので、金について全くの無頓着ではいられません。
でも今中止になったらこれまで費やしたものはほぼドブに捨てるようなもの。
どんなカタチであれ開催すれば何らかは回収できるはずなので、中止にする方がトクだという理屈はないですよね。

リオの閉会式で安倍さんがマリオに扮して登場しましたよね。
僕はあれ、失敗だったと思ってます。
あれで東京オリンピックに政治と経済の臭いが強くついちゃった。
東京オリンピックの話題は、最初っから金、カネ、金、かね、金。
なぜ東京都が「お・も・て・な・し」しますから~と必死で誘致活動をしたのか。
それは、感動を目の前で味わいたかったからでしょ。
と言うと、「東京都が誘致したのはそんな理由じゃなくて、経済効果が欲しかったからだろ」なんて馬鹿にされそう。
いやでもそれは「ゲス」の考えだよね。
外に出しちゃいけない本音というか、「いや、経済効果もちょっとは期待してまして、へへ・・・」ぐらいがまともな言い方では?
「ゲス」の考えをみんなが堂々と公言して憚らないこの状況、僕はとち狂ってるとしか思えない。
平和の祭典だってエー?そんなもん知るかよゲヘー俺たち日本人は卑しいエコノミックアニマルなんだゼエーダヨネーとみんなで確かめ合ってるようなものじゃない?
オリンピックへの日本人の期待感は、あまりに歪みまくってるように感じるんです。

2012年のロンドン大会で世界中が内村航平選手の演技に酔いしれ、喝采を送りました。
まさに神業だと。
もしロンドン大会が何らかの理由で中止になっていたら、僕らは内村航平というスターを得られなかったかもしれません。
同様に、東京大会が中止になれば、得られたはずの大勢のスターたちが知られることなく消えていきます。
8年間のブランクを生み出すんですよ。
僕らがまず恐れるべきはそこではないの?

東京オリンピック・パラリンピックが中止になったらどう感じます?
「やれやれ、ホッとした」ですか?
それおかしくない?
「オリンピックが観られなくなってがっかりだー!」とならなきゃおかしくない?
アニマル日本人は知らんけど、世界の人たちはそうなりますよ。
開催地を決める時、最後までしっかり運営をやり遂げるんで、と約束したんでしょ。
その信頼の上に、任されたんでしょ。
ならあきらめずに開催に向かって進むべきでは。
僕は自分の都合で仕事の依頼を投げ出したことないですよ。
緊急入院することになってもベッドから指示を出すし、感染症の時は熱があっても一時外出で編集に行きました。
たとえ急病だとしてもオタオタヘロヘロした姿を見せるのって、カッコ悪いと思うから。
日本人、カッコ悪すぎよ。
むしろIOCが「ちょっと無理じゃね?」と言ったって、「いや、何とかします!」と言い続けるぐらいしてほしいな。
そういうところが日本人の美徳だったと思うし、それで見事に開催できたら、世界も「日本やっぱすげえ」となるのでは。
今年11月に国際体操連盟が親善大会を開きました。
その閉会スピーチでの内村選手の言葉を一部紹介しておきます。

「国民の皆さんが五輪はできないんじゃないかという気持ちが80%を超えている、というのは、少し残念に思っています。『できない』じゃなくて『どうやったらできるか』をみんなで考えて、どうにかできるように、そういう方向に考えを変えてほしいと思います。非常に大変なことであるというのは承知の上で言っていますが、国民の皆さんとアスリートが、同じ気持ちでないと、大会はできないのかなと思う。どうにかできる、なんとかできるやり方は必ずあると思うので、どうか『できない』と思わないでほしいと思います」

2020年12月30日
by kossii
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マヂラブを見習ってほしい

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今年言いそびれたこと、その2は
「マヂラブを見習ってほしい」
です。

M-1を観てなかった方のためにちょっと説明しますね。
決勝戦でのマヂカルラブリーのネタは「つり革」。
「電車のつり革を掴むと負けた気がする」
「じゃあやってみよう」
ということで、激しく揺れる電車の中で踏ん張るという設定で、左右に飛んだり上下に飛んだり、トイレで自分のシッコ浴びたり、床に背中つけて回ったり、そういった芝居を延々やり続けたわけです。
相方とのやり取りは冒頭だけ。
後は、一人だけでパフォーマンスをやり切った。
僕はこれを観て、「いいね!!!」と思いました。
「こういう漫才があってもいいじゃないか」というメッセージ、あるいはプレゼンテーションとして受け取ったからです。
途中で二人のやり取りを入れて、より通常の漫才に寄せることはできたでしょうけど、たぶんそれだとキレは悪くなったはず。
あえて挑戦的なやり方を最後に持って来た姿勢について、「いいね!!!」だったんですよ。

このスタンスは広告クリエイターにも通じるものがあります。
広告クリエイターは1流、2流、3流に分かれます。
発注主のオリエンに答えるだけなら2流。
答えることすらできないのは3流。
オリエンを超えて初めて1流。
オリエンを超えるというのは、要は、「そう来たか!」ってことです。
提案内容が発注主の予想内にとどまるのであれば、それはクリエイティブというよりも、まだどこか「事務」の範疇に留まる気がするのです。
もちろん、お題をきっちりやることも大事ですよ。
でも予想を上回るソリューションでお題が解決されている方が、提案される側もする側も大きな喜びに包まれます。

そして、オリエンを超えるためには、オリエンのルールを少し破るというか、拡大解釈する必要があります。
オリエンを無視するわけではなく。
発注主が頭を悩ませて作ったオリエンですから、そこは尊重しつつ、しかし疑う。
ここをこう破ればもっといい結果に繋がるんじゃないか?という確信が得られれば、恐れず提案する。
「ぶつける」感覚です。
これ受け止められますか?とぶつけた時、発注主は困ります。
「そう来たか!」は困り言葉です。
でも、そのぶつかり合いの火花から、新しくより良いものが生まれるんです。
新しくより良いものに導けるから、オリエンを超える広告クリエイターは1流なんです。

このオリエン超えを歓迎するのはトップです。
僕の経験では、トップに近い意思決定権者ほど、「いいじゃないか、やれ」です。
ところが、「オリエン通りではない」とグズグズ言って、古いやり方に固執する人がいるんですよ。
それはだいたい現場の担当者です。
たとえば昔のVAIOのコンペで、僕はTVCMは一切やめて、デジタルにメディアシフトする方が成果に繋がる、という提案をしました。
現場レベルでは「これはないだろう」と話していたそうですが、新任の社長は「このチーム以外ありえない」と即決。
こういう例はよくあります。
なぜトップと現場の乖離が起きるかというと、現場は自分のポジションを守ることを最優先にするからです。
外部の新しいアイデアを採り入れると、自分ができない人間に見えたり、ポジションが危うくなったりするので、全体の効率や成果を上げる邪魔をしてしまうのです。

「老害」って言葉がありますけど、「若害」も多いと思いますよ。
会社組織では、上に行くほど革新を求めがちで、下ほど保守的です。
僕は数年前から広告「マス・デジ統合」のサポートをしていますが、これを阻むのは現場の保身主義者です。
最近は僕に見倣ってマスデジ統合やりますって人が増えているようですが、難しいと思いますよ。
もし充分なスキルがあったとしても、トップから入れるルートがないとダメなんです。
CM企画のクライアント直受け感覚で現場から入ろうとしてもほぼうまくいきません。

マヂカルラブリーの優勝に、異を唱える人たちがいます。
「漫才じゃないではないか」と。
マヂカルラブリーはインチキをしたわけではなく、わかった上で「こういう漫才があってもいいじゃないか」と最後につり革ネタを持って来ました。
こういう「そう来たか!」がいっぱい出て来る方が漫才全体が活性化されてトクなはずです。
拒絶していったい何のトクがあるのか?
松本人志が言うように、いまいちパンチのない標準的な漫才師を守ることにしか繋がらないわけで、それが生むのは停滞ですよね。
変化の激しい時代に停滞を求める気持ちもわからんではないです。
最近はどちらかと言うと若いクリエイターの方が保守的で、「こういうことですよね」とオリエン通りの企画で満足しがち。
「これじゃあ面白くない」と言ってもその真意が理解できないようです。
とにかく若い保守クリエイターには「マヂカルラブリーを見習え」と言っておくこととします。

2020年12月29日
by kossii
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不倫報道の意味

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よ~やく年内の仕事も納まって、ちょっと時間も余ったので、今年言いそびれたことをいくつかまとめて書いてみようかと思いました。
その1は、「不倫報道の意味」についてです。

こないだワイドナショー観てたら、田村淳さんがこんなこと言ってたんです。
「近藤真彦さんの不倫はこのまま誰も報じなきゃいいのにと思ってた。それを前例として芸能人の不倫報道はもうしないってことにできたのに。不倫というのは家庭と周りのスタッフぐらいしか言えない話だと前から思ってた」。
他のコメンテーターも、ものすっごわかる!などと賛意を示してました。
僕はそれを観ながら、アチャー、芸能人の不倫について、当の芸能人の認識はこんなものかよと心底ガックリ来ました。
わかっとらんなと。
知性派(?)の田村さんですらこんなものかと。

確かに一般人の不倫ならその理屈は通るでしょう。
しかし、芸能人の不倫となるとそうはいきません。
芸能人の不倫は、実質的には巨額詐欺行為に近いものがあります。
なぜなら、彼らは不倫しない、していない、クリーンなイメージを守る、と「嘘をついて巨額のマネーを集めた」からです。
それに、不倫が発覚すると契約違反に伴う賠償責任が発生するわけですが、スポンサーや関係者のダメージはそんな賠償ではとても賄いきれるものではありません。
芸能人はそこについてあまりにも無関心過ぎると呆れました。

いま、企業にとってマーケティングは生き死にを決める重要な活動になっています。
仮に中堅どころの企業、あるいはベンチャー企業が乾坤一擲で10億ぐらいの予算を投じて広告展開を始めたとします。
芸能人を起用して、契約金と出演料に年間6千万円払ったと。
で、展開を始めた途端、彼の不倫が発覚。
急遽、別タレントでCMを撮り直すことになった。
その場合、どういう損害が生じるか?
まず時間的なことで言うと、別タレントを契約し直して、撮影してオンエアするまで、超人的に急いでも1ヶ月はかかります。
その間、TVCMは枠を押さえちゃってるんでキャンセルは不可、違う素材に差し替えないといけません。
別商品のCM素材があればそっちを流し、なければ「エ~シ~」。
ACのメディア費は全部スポンサー企業持ちです。
目立たないながら、TVよりもっと痛いのは店頭です。
商戦期を狙いすまして、消費財ならスーパーとかドラッグにタレント起用の売り場を展開していたのが、什器も立て看板もPOPも全部撤去。
これは流通に迷惑をかけたことにもなり、メーカーとしてはとってもつらい作業です。
1ヶ月後、タレント替えましたんで、といってまた売り場作ってくれるかというと、そんなわけにはいきません。
つまり、商品を売るタイミング、売る場所をほとんど失ってしまうことになるのです。
賠償金で6千万円返してもらったところで、事実上10億円丸損、もっと言うと、その新商品ローンチが躓いたことで開発から営業から何から企業活動が数10億円丸損、てことにもなりかねない。
よく「損害賠償金1億か?」などと報じられますけど、その不倫のおかげで周囲が被った被害はその十倍以上だったりします。
このような最悪のシナリオでないにしても、賠償額1億なら実際の損害は10億以上に見ていいんじゃないでしょうか。
もちろん広告だけではなく、映画やドラマ、舞台などにはまた金額には換えられない様々な悲劇があるでしょう。
それをね、「家庭と周りのスタッフぐらい」程度の認識でいーわけねーだろ!と言いたいわけ。

「自粛する意味あるの?」といった話もよく聞きますけど、あるわい!
あおり運転で捕まったら免許証を取れない欠格期間が最大10年。
これは、すぐ免許証渡すとまたすぐやるんじゃないか?ってことですよね。
それと同じで、自粛ってのは、反省してないとまた不倫繰り返して人様に迷惑かけるから、欠格期間を設けようってことですよ。
やらかしたことの大きさによってその期間が決まるのも当然かと。
ワイドナショーでかまいたち濱家さんは「どんだけ仕事なくなったかとか知らんがな」と言ってたけど、いや知っといてくれよ!

マッチの不倫がたいして報道されなかったことについて、Jへの忖度だとか、大物ほど騒がれないのかとか言うけど、そういうことじゃないと思いますよ。
僕が知らないだけかもしれないけど、マッチの不倫で損害を被ったという話はほとんど聞きません。
自動車事故に喩えれば、マッチの場合は通行人1人とぶつかって怪我を負わせました、ぐらいのもの。
渡部さんとかの場合は、歩道の通行人10人なぎ倒して、えっ運転中無修正ポルノ観てた!?みたいなものですよ。
報道に差が出るのは当然でしょう。
マッチだって、10社ぐらいとCM契約していて全部で100億ぐらいダメージ与えてしまった、てことだったら大々的に報道しないですんだわけはない。

「クリーンなイメージの芸能人は叩かれ、悪いイメージの芸能人は許されがちで、不公平だ」とも言うけど、それは当たり前!
繰り返すけど、偽りのクリーンイメージでマネーを集めていたのだから。
企業はそのイメージを借りようとして大きな契約金を払っているので、完全な逆効果になってしまい、こっちの方がスポンサーの打撃も巨大になります。
悪いイメージの芸能人はそもそも企業の顔として起用されにくいし、打撃は少ないです。

イメージで金を集めることのできない芸能人は一般人同様、家庭のこととして収めてよいでしょう。
でもイメージで金を集めた芸能人が不倫で周囲に巨大な損害を与えたら、芸能人がそんなことをしては許されないのだと、報道で徹底周知してもらう必要があります。
これが、芸能人の不倫報道の大きな意味です。
不倫リスクの不安を抱えながらもまだ企業がタレント契約をするのは(芸能人なんかとビジネスできるかという企業もあります)、それがギリギリの自浄効果を生み出しているからと言えるでしょう。

ただ、ここに一つ問題があるとすれば、「私刑」になる恐れです。
民事上、刑事上の禊はすんでいるならば、報道によってバッシングを繰り返すのは、法治国家として許される一線を越えないのか、という議論はあるでしょう。
もちろん、本人を痛めつける目的の報道、誹謗中傷の報道はなされるべきではありません。
しかし、嘘によって金を集め多大な損害を各所に与えた芸能人について、再発防止の観点から戒めの報道をすることは、業界の「慣習法」と考えてもよいのではと思います。

もし不倫報道がその意味を持たなくなるとしたら、それは、日本人が不倫を受容するようになった時でしょう。
「別にそんなん悪いことでもなんでもなくない?」と。
そのようになった時は、誰も損害を受けないのだから、不倫報道の意味はなくなると思います。

2020年12月2日
by kossii
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ナイキCMは下司なのか

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もう20年以上も昔の話。
当時、大手広告主の一部は海外での「賞獲り」目的の長尺CMを毎年制作していました。
カンヌなどで評価を得るためにはどうしても60秒ぐらいの尺が必要で、かと言って日本の地上波で60秒枠を大量に買い付けるのは現実味がない、ということで、どこかの安い番組枠で1回だけ流してオンエアの既成事実を作り、賞に出品するのです。
その中で印象深いものにFAXのCMがありまして。
若いカップルが長距離恋愛をしているのですが、帰宅してからFAXで手紙を送り合ってるんです。
その頃はまだメールというものがなく、今のメールのやり取りのようなことをFAXでやっているという、なかなかオシャレで気の利いたアイデア。
ラストシーンで、二人が久しぶりに会うのですが、踏み切り(だったかな)を挟んで眼と眼が合うや、手話を始めるんですよ。
やられた!ってかんじ。
二人はオシャレでFAX文通をしてたんじゃなく、電話ができない人たちだったんですね…。
きゅん、どころかどきゅん、と来ました。
CMのメッセージとしては、こんなところでもFAXは役に立ってるんですよというものですが、見事にしてやられました。

ところがこれをカンヌで上映したところ、評価どころか客席からは大ブーイングが起きたそうです。
理由は、
「障害をビジネスに利用するとは何事だ」。
これもまた、なるほどー!と、若い僕の心を撃ちました。
もちろん広告主の方々だって、障害者を利用して一儲けしてやろうなんて魂胆は1ミリとてないはずです。
でもそのような構造になっていること自体がもはや許されないのだ、マーケティングの姿勢として下司に見えるぞと指摘されたわけです。
これはある種、プロとしてのスノッビズムなんだなと理解しました。
売ればいいものじゃない、さらには、感動させればいいものでもない、感動の起点まで、採り上げるにふさわしいものか否か疑わないと、我々はとたんに卑しくなってしまうのだぞ、という。
ただ「感動したー」で終わらせていた自分はまだ浅い、カンヌの海外審査員深い、と、これもまたやられた!てかんじでした。
最近は意見広告が多く、社会問題を採り上げて拡散される事例も増えてきていますけども、本当に社会問題解決を目指した企業活動を告知しているのか、社会問題に乗っかって利益誘導を図っているのか、僕はその経験からけっこう厳しい目で見ています。
この線引きはなかなか難しくて、無邪気にやっちゃったんだろうなーという事例もあります。
昔の僕のように、指摘されて初めて「言われてみれば確かにー」みたいな。

さて、ナイキのCMが炎上気味になっていますね。
「日本に差別が常態化しているように描いている」と怒る方々もいらっしゃれば、擁護する方々もいらっしゃいます。
擁護する意見として、怒る人たちはナイキのターゲットではないのだから、彼らを排除していいのだ、だからこのCMはマーケティング的に成功なのだ、といったものもあります。
僕はどちらも違和感があるんですよね…。
昨今は「マーケティング」という言葉が一般層にも普及して、わりと軽く「マーケティング的にはさあ」と口にされるようになって来ました。
それにつれて、マーケティングというものについての曲がった理解もちょっと拡がっている感があります。
確かにマーケティングの設計をする時は計算高くやります。
理詰めで、何をどうすればどれだけのリターンが見込めるかを予測して、その通り、あるいはそれ以上のスコアが出れば成功、という世界です。
ただ、スコアが出れば何でもいいかと言えばそうではないはずです。
全ての商品、企業は人々の幸福に寄与するためにある、という大前提を忘れてしまうと、それはマーケティングとしては浅ましいものに成り下がります。
クライアントがいかに高潔さを失わずにビジネスを成し遂げるか、下司な企業に落とさないかも、我々が慎重に気を配るところです。
もしもナイキが、「よっしゃ、ブランドのプレゼンスを上げるために、いっちょ日本の差別問題に乗っかってやるか」という魂胆でCMを制作したのだとすると、たとえそれが思惑通りに行ったとしても、それは下司であると言えます。
なので、ナイキのCMについて、マーケティング的には成功だ、と褒めるのは、じつは褒めていることにならんのじゃないか、という気がするんですよね…。
ナイキってそんな企業だったっけ?と。

映画は観客が思い思いにメッセージを受け取っていいものだと思いますが、CMの場合はターゲットに「こう感じさせよう」という狙いがハッキリと存在します。
ナイキのCMはそれが何であるかと言うと、
「若者を困難から救い出すスポーツってやっぱ素晴らしい」
でしょう。
登場人物が「ありのままに生きられる世界、待ってられないよ」と言いますけども、これは、周囲に期待なんかしてないで実力だけがモノを言うスポーツに飛び込めよ、ってメッセージですよね。
これまでもナイキは世界の紛争地域や貧困地域などを採り上げて、いかにスポーツが若者を救ってきたかというCMを展開してきました。
これもその流れだと思うんです。
日本でもそういう、どうにもならない場所は存在するよね、スポーツにはそこで困難に直面している若者を救う機能も担っているんですよ、と。
だから、
「このCMを見て、スポーツの素晴らしさを再確認した」
というコメントが付いて成功となるはずなんです。
炎上するなら、
「スポーツの力を過剰に表現しすぎだろ」
とか言われて本望のはずで。

その視点で見ると、このCMはやや前半が重すぎる気がします。
どういうことかと言えば、「日本にも若者を苦しめる問題はある」「彼らを救うのはスポーツだ」と、大きく2つの要素でCMは構成されているわけですが、後半が軽すぎるんじゃないか。
だから差別の実態ばかりが強く印象に残ってしまって、スポーツ礼賛CMのはずが、ご意見CMとして受け取られてしまったのではないかと。
いやもしかすると逆に、意図的にそうしたのかもしれない…。
スポーツ礼賛CMのフリをして、差別を採り上げることで拡散を狙ったのかも…?
だとするとそれは下司なマーケティングです。
僕はそうは思いたくない。
だから、差別問題に斬り込んだナイキあっぱれと褒める気にはならないです。
もしあなたがナイキファンならば、「ナイキすごい」では褒めたことにはならなくって、「スポーツすごい」と言ってあげるべきでしょう。

2020年10月28日
by kossii
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「鬼滅の刃」と自分ごと化

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広告用語に「自分ごと化」というものがあります。
ターゲットが、自分に取って商品の価値を感じられるようにする、という意味です。
たとえば自動運転車のCMがあったとして、観る人が「おっ、すごいな」と感じたとしても、「そのうちそういうクルマが普及するのかもなー」と思っているのではまだ「他人ごと化」されている状態。
自分とはただちに縁のないものとして、そのまま忘れられてしまいます。
そのクルマに自分が乗っている様子を想像して、「あんなふうに衝突を回避してくれたら、いつもの運転がラクだろうなー」と自分に関わることとして捉えてくれたら「自分ごと化」した、ということになります。
そこから「次の買い替えは自動運転車も検討してみよう」という意識が生まれるわけで、自分ごと化されなければ、その商品を具体的に試してみよう、買おう、という意識は生まれません。
ということで、自分ごと化は非常に重要なキーワードであり、ほとんどの広告が自分ごと化を目指します。

ところで、鬼滅の刃。
我が家は5人家族で女3人男2人の構成なのですが、去年あたりから女3人が鬼滅の刃のアニメを観てこれはいいーすごいーとやたらワーワー言い出しました。
しかし僕と息子は最初の数回を観て脱落。
理由としては、設定のほとんどに既視感があったんですよね…。
そもそも鬼ってのがよくあるヴァンパイアじゃないですか。
「十二鬼月」もるろうに剣心で似た設定があったような…。
鬼にも事情があるんだぜ、てのも、東京喰種だよな…とか。
「猪の被り物をしてる子がいて、脱ぐと顔が可愛いんだよ!」とか女3人組はコーフンして話すのだけど、火の鳥にそういう人物がいた気がするし、最近だと不滅のあなたへのグーグーと重なる。
いろんな過去作品の詰め合わせみたいなもの、と思っていたのでそこでもう興味を失ってしまったわけです。
ところが今年になっても妻はLINEの返信に鬼滅の刃スタンプをちょいちょい混ぜ込んでくるし、映画館から帰ってきた末娘が「煉獄さんがあ…」と言って泣いている様子などを見ていると、これはどうも尋常じゃないぞと。
まだ自分が見つけていない、これまでになかったナニカが潜んでいるはず。
ここまで彼女たちのハートを鷲づかみにしているそのナニカを探り当てねばなるまい、と思い立ち、取りあえずアニメ全話を観てみることにした次第です。

その結果、「これは今までになかったかも」というポイントを一つ見つけました。
主人公が泣き言を言うんですよね。
戦闘中に「痛い。これはすごく痛い」とか「もうダメだ。死ぬ。耐えられない」とか、女々しいことを口にする。
ストーリー作りには「ここを外してはならない」というセオリーがあります。
いいことと悪いことは交互に起こせ、とか、問題解決の時間制約を設けろ、とか。
主人公については、「普通の人から始めろ」です。
最初から王族の生まれ、とか、超能力を授かっている、ではダメなんですよね。
普通の人が、イヤイヤ巻き込まれて、気がついたら世界を救うことに…という流れが定番。
なぜそうでなければならないかと言うと、その方が観客が自己投影しやすいからです。
「自分の身にも起きかねないこと」として、観客との距離感を縮めておかないと、その世界に感情移入してもらえなくなるから。

ただ、これまでの主人公たちは、最初はうだうだ言っていても、いったん戦闘してしまえば一気に覚醒してそこから先はヒーロー然として振る舞うといったものが通常だったと思います。
無敵になることのカタルシスもあって。
でも鬼滅の刃の主人公はいつまで経っても無敵のヒーローになりそうもなく、ずっとグズグズ泣き言を言います。
戦う理由も世界を救う的なことではなく、妹を救うという非常にプライベートなもので。
たぶんポイントはここでは。
これまでのアニメは、バサーッと刀で斬られても、「うーやられたー」と倒れるぐらいでまたすぐ立ち上がったりして、痛みがよくわからなかった。
でも鬼滅の刃では、いちいち「これはすごく痛い。思ったより痛い」とわかりやすーく解説してくれて、「確かに自分があんなふうに斬られたらあんなふうに感じるかもなあ」という気にさせられるんですよね。
つまり、狙ったのかどうかはわからないけど、鬼滅の刃は「自分ごと化」において一段進歩してるんじゃないか、ということです。
観る人が、戦闘中もそこに自分を投影できる。
自分だったら音を上げるよな~文句言うよな~と、すごく近い距離で自分を置き換えているんじゃないか?と。
もし設定やストーリーに斬新なものがあればコミックですでに火が付いているはずで、アニメで火が付いたのは、声優のうまさもあって、今までになかった自分ごと化ができたのだってことでは。
逆の言い方をすると、ここまで観客との距離を詰めないともはやヒット作品は生まれないのだ、ということかもしれません。
ジャンプの次の看板タイトルである僕のヒーローアカデミアの主人公もコンプレックスの塊で、特殊能力を身に付けてからもずっとビクビクオドオドしています。

僕はTVとWEBの統合コミュニケーション設計というものをやっていますが、そのキモとなるのはWEBCMです。
WEBはTVよりもターゲットを精緻化できるので、その人たちに刺さりやすいクリエイティブを露出できます。
つまり、「自分ごと化」を一段進歩させられるわけです。
これらをうまく組み合わせられれば大きな成果に繋がります。
TVCMの15秒では伝えきれない商品機能をWEB動画で解説する…といった使い方ではもったいない。
時代の不透明さが増し、不安が覆っているからか、「ロマン」とか「憧れ」といったワードを聞くことは少なくなって、生活者も「自分」から視野を広げる余裕がなくなってきている気がします。
鬼滅の刃のヒットはそれを表していると捉えてもいいのでは。
「自分ごと化」のパワーを改めて認識し直す時ではないかと思っています。

2020年8月19日
by kossii
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顔芸はもう使えません

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「Slice of life」という言葉があります。
日本語訳すると「日常の切り取り」。
象徴的、非現実的でない、リアルな生活シーンをベースに物語を作る映像表現手法のことです。
日本のドラマは時代劇などを除けばほとんどが「Slice of life」です。
海外ドラマはSF、ファンタジー、歴史モノなどが多いですが、日本が日常モノに偏るのは予算の事情でしょうね。
近場のロケで撮れるので、美術費やCG費などが圧倒的に安くすみますから。

「Slice of life」の長所は、視聴者がその世界に自分を投影できるところです。
そうそう、ああいうことするよね、とか、わかるわかる、とか、自分が今住んでいる世界と地続きになるのが強み。
そこをベースに置くことで「共感」が獲れるというわけです。
ということなのですが、厳密に言えば、現在流れているドラマ、またCMなど、その全てが「Slice of life」ではありません。
本来の「Slice of life」映像を描くとどうなるか。
これは、登場人物皆がマスクをつけていないとおかしい、ということになります。
もしつけてないとそれは現在のリアルではありませんよね。
架空の世界、あるいはビフォアコロナの世界になります。

じゃあ、皆がマスクつけている日常を描けばいい、という理屈になりますが、それはなかなか難しい。
一つには、そんなシーン観たくない。
皆がマスクつけている日常なんて、まだ受け容れられてないんですよ。
それを露出すると、「受け容れろ」という強制を感じてしまいます。
そこには反発が生まれます。

それよりもっと大きな問題は、マスクしちゃったら「表情が描けない」。
これはかなり致命的です。
「半沢直樹」新シリーズが歌舞伎役者陣の顔芸で話題をさらっていますが、これは現代劇ではないんですよね。
航空会社再生というテーマを知った時、また古い話を持ち出してきたな、と感じたんですけど、時代設定がビフォアコロナのどこかなんですね。
だから違和感がない。
もしウィズコロナを舞台に「半沢直樹」を作ることになったら?
不可能と思います。
マスクして顔芸はできませんから。
第3弾があるとしたら、その舞台はやはりビフォアコロナになるんでしょうか。
この先、ずーっとビフォアコロナ?
いや、マスクのないアフターコロナを描けばいい?

おそらく、映像の世界において、皆がマスクをつけているSlice of lifeは「なかったもの」にしようよ、というのが暗黙の了解になっている気がします。
これは一時的な異常なものだから。
こんなのは日常じゃないよね。
日常として描きたくなんかないよね、と。
すぐアフターコロナの世界が来るから、それまではSlice of lifeもビフォアコロナでいいじゃないか、と。

ではマスクのない世界がやって来るのはいつ頃なんでしょう。
来年ワクチンが開発されたとしても、日本国民全員がサーッと一斉に打てるものとは思えません。
行き渡るにはかなり時間がかかるはず。
それに、一回打てば永久に免疫ができる、というものでもなさそう。
インフルエンザワクチンのように、年に1回、あるいは季節ごとに1回打つ、といったものになる可能性が高いそうです。
全員がつけている、ではないにせよ、マスクをつけてる人がいないという世界はもう訪れないんじゃないでしょうか。
そうすると、だんだん、皆の共通認識が変わってくるはず。
「マスクをつけてる人がいるのが日常シーンだ」と。
マスクをつけてる人がいないと、どこか絵空事に見えて来るということです。
その分岐点を推し量るのがメチャ難しいなあと思っています。
顔と顔を突き合わせて「おしまいDeath!」とかやっても、「普通あんなことしないだろ」という反応が返るタイミングがやがてやって来るわけです。

来年のドラマ、CMはどうなるんだろう。
ノーマスクで撮影すると、ああビフォアコロナの頃の話ね、となってしまう恐れがあります。
「今のリアルをベースにした話なんだ」と伝えるためには、マスク着用が必要となるでしょう。
ところが、マスクをつけると表情が描けない。
このジレンマはけっこう制作者としては頭が痛い。
今はまだ問題として顕在化してませんが、すぐ困ることになります。
でも正直、今のところ解がないです。

2020年8月6日
by kossii
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「そんなもん誰に見せんねん」ノーマル

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僕が子どもの頃、母が丹念に化粧していたり、ちょっと良さげな服を選ぼうとすると、父は必ずこう言いました。
「そんなもん誰に見せんねん」。
自分たちのような庶民が外見にがんばったって、それを披露する立派な場などないではないか、という、自嘲を込めた関西風冗句です。

20年以上前に買ったブルガリペアウォッチの革バンドは劣化が早く、1年ほどですり切れて来るんですが、先日また付け直しました。
革バンドとは言え、安いのでも2万円以上します。
まあ仕方がない…と思いつつ新しい革バンドになった腕時計を眺めていたら、ふと他界した父親の言葉が脳でリフレインしました。
「そんなもん誰に見せんねん」。

結婚記念で買ったものなので、別に見せびらかしたいわけではない。
でも、どこか心の奥底で、「奥さんを大事にしてるんだな」といった周囲の人たちの印象を期待しているのかもしれません。
誰も見ていない状況で身に付けるのは無意味すぎます。
オンライン会議で映るのは首から上ですし…。
ということで、ペアウオッチはデスクの上にずっと置かれたまま。

人間は関係性の生き物です。
どの生物も何らかの関係性の中で生きていますが、自らの意思で関係性を構築したり修正したりしようとするのは人間だけです。
その人の評価は他人との相対的な比較で決まっていきますし、他人からどう見えているかが全てと言って過言ではないでしょう。
そして、その評価に何らかの作用を与えようとして、「見栄え」を気にしているわけですよね。
ところが今は、いわば、人を肉眼で見に行くことが禁じられています。
そうなるとこれまでの見栄え戦略は大きな見直しを迫られます。
きちっとしたスーツを着ることで「あの人きちんとしているな」というイメージ作りはできにくくなります。
在宅でオンライン会議に参加する人はだいたい部屋着です。
「在宅感」のようなものを演出しよう、となるのか、大企業の社長さんでもオンライン会議ではボサボサの髪で無精髭だったりします。
また見栄えには、行動も含まれます。
朝早く出社して「あの新人、やる気あるな」という印象作りはできにくくなります。
飲み会で率先してサラダ取り分けて「あの子、家庭的なんだな」という好感度UPは得にくくなります。

ニューノーマルとは何か?についてずっと考えていたのですが、僕の中で一つ出来上がった結論は、
「ニュー関係性戦略」
です。
これが本質なんじゃないかな。
関係性に作用させるための商品やサービスの全てが、「そんなもん誰に見せんねん」というフィルターを通る時代。
ファッションや美容はもとより、クルマも見栄えで選ぶことが虚しくなっていく。
カラオケだって「そんなもん誰に聴かせんねん」と思うと練習する気は萎えてしまう。

性淘汰に勝ち抜くために、クジャクの雄は立派な羽を生やしていたり、鹿の雄は立派な角を生やしていたりしますが、クジャクに「これから見せていいのは頭だけなので」と言ったら悩むでしょう。
鬱になるかも。
いくら羽を雄々しく広げたところで「そんなもん誰に見せんねん」。
人間界はこのような状況に突入しつつあるということです。
見栄えはその人の「実」ではなく「虚」と言えましょう。
しかし、「実」はそのままでは伝わらないから、「虚」に投影する必要があるわけです。
それをもぎ取られてしまうと、いったい何をもって自分を見せればいいのか?
これはかなりの難問ではないかと思います。

リモートで使える「虚」は極めて限られます。
オンライン会議の背景に凝る人もいますが、それがその人の「実」を投影しているかというと、なんとも心細い。
あとは話し方ぐらいでしょうか。
となると、「虚」に頼らない、中身で勝負、提案性や発言内容をそのまま評価する、ということになりますが、それに耐えられるかどうか。
見栄えによる関係性戦略が本能から来ているものだとすると、それを失った生き方はかなりストレスフルなものとなるでしょう。

見栄えはその人の「実」を投影していると言いましたが、その人の「希望」を投影しているものでもあります。
一見ヤクザ風であったりロッカー風であったりしても、中身は軟弱者ということは往々にしてありますよね。
「こんなふうに見てほしい」ってことで、理想と現実のギャップを埋める役割も果たしているわけです。
「実」だけが評価される状況になると、ただの軟弱者としか見られなくなります。
これはこれで辛いことでしょう。

サイボウズの今年の新入社員はまだ出社していないとのこと。
これは社員思いの文脈で語られることですが、彼らの今の心情を訊いてみたいです。
本当に「ラク」なのか?

見栄えに代わる「虚」の作り方。
これがニューノーマルのテーマになるのではと思っています。
このカテゴリーで新しい商品やサービスができたら、かなりのブルーオーシャンではないでしょうか。

2020年5月28日
by kossii
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コロナは「テーブルの呪縛」を解いた

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先日、「オンライン落語」なるものに招待されまして。
オンライン会議ツールを使って落語を楽しむというものなのですが、400人ほどが参加してました。
落語も楽しかったのですが、僕はそれ以外のことが気になっていました。
演目が終わってからフリーQ&Aの時間になり、参加者と師匠が「なぜ落語家を目指したのか」といった会話を交わしていたのですが、それを眺めながら僕は、「これって400人の会議だよなあ」と思ったんです。
400人がひとつのテーブルに座っているようなものだなと。

その瞬間、僕の頭から「テーブルの呪縛」が解かれました。

今まで、会議と言えば真っ先に脳裏に浮かぶものはテーブルでした。
その会議の規模、膝詰めの2人なのか、10人なのか、40人なのか、を決定づけていたのはテーブルの大きさと数です。
400人の会議が不可能だったのは、400人が同時に座れるテーブルが存在しないからと言えるでしょう。
オンライン会議はそのテーブルのない世界、あるいはそれぞれが自分のテーブルを持ち寄る世界です。
進んでいくと数百人の会議も普通になるかもしれない、と思ったわけです。

これは当たり前のようでいて、ものすごいパラダイム転換ですよ。
僕は、通販が店舗の「棚」という概念をなくしてしまったものに通ずると感じています。
棚の広さに制約がある世界では、店舗はその時その時の売れ筋を揃えられるかが勝負となります。
ちなみにTポイントやPONTAが普及したのはポイント解析による「棚」の最適化を加盟店に提供するビジネスだったから。

Amazonを初めとする通販は、いわばこれを逆手に取る戦略を取りました。
ロングテールです。
棚の広さという制約がないので、年に1つしか売れない商品も在庫に持てるわけです。
それらのチリツモがけっこうデカいと。
そして、ここを足場として、実店舗にはない通販ならではの強みを開拓し、どんどん盛っていきました。

会議からテーブルがなくなると、たとえば1000人相手のプレゼンテーションも可能になります。
企業相手のプレゼンでは聴く人はせいぜい20人以内が通常ですが、できるだけ全従業員に聴かせたい、というケースもあるかもしれません。
これまでそんなプレゼンを依頼されたことはありませんが、おそらくそこには1000人の会議なんて無理に決まってるというテーブルの呪縛もあったのでは。
企業にとって会議室は大きなコストです。
会議はできるだけ小さくやるのがコスパがよく、大人数でやる場合は貸し会議室を借りることになります。
しかし、そのコストはもう必要なく、むしろ、時間的コストを考えると100人などの大人数で一気に会議を開くのが常識化するかもしれません。

テーブルがなくなるということは、当然ながら距離の制約もなくなります。
現在、僕の仕事の中心は広告主とのアドバイザリー契約ですが、これまで地方企業は受けにくかった。
ほんの1時間打合せするだけでも、移動時間を合わせると丸1日かかってしまうので、なかなかペイしづらいからです。
もはやクライアントとの定例会議は一気にオンライン化しましたが、これであれば全国どこのお仕事も引き受けられます。
また、僕が主宰している広告学校も、首都圏に住む人じゃないとほぼ受講できませんでした(過去には地方から深夜バスで通う人も何人かいましたが)。
これもオンライン化すれば全国から応募が可能になります。

会議に臨む際の意識も変わるかもしれません。
テーブルにはそこに着く者の順位を決める作用があります。
上座・下座がありますし、メインの人物は真ん中、外野は端っことか後ろとか。
アーサー王のテーブルは逆に王と騎士との順位を決めない円卓。
これが、テーブルがなくなると、順位付けという意識もなくなります。
社長もワンオブゼムになってしまいます。
順位付けによって塞がれていた意見を吸い上げやすくなるのでは。
オンライン会議に参加していると、ビデオも音声もオフにして自分の気配を隠しながら参加する人いますけど、皆の視線に入らないようテーブルの端っこに座る感覚を引きずっているのでは。
そのあたりの意識変換をしないとオンラインのメリットを活かし切れない気がします。

オンライン会議ならではの強みは他にもいろいろ考えられます。
そのうちAIが実装されるでしょう。
オンライン面接ではすでに実施されていますが、AIが被験者の映像を分析して、知能の高さを測ったりするのです。
ディストピア的ではありますが…。
会議を重ねるごとに、AIが「リストラすべき順番はこの人とこの人」といった提言をするなどは今の技術ですぐできるはずです。
また、会議は情報交換であったりアイデアを出す場だったりしますが、オンライン会議は情報取得やブレーンストーミングをサポートするためのプラットフォームになり得ます。

FacebookがVRのOcculus社を買収したのは、たとえば東京とニューヨークのユーザーがテーブル越しに会話する、そのようなコミュニケーションの世界を実現するためと言われています。
しかしそこにはテーブルの呪縛が存在していました。
Facebookと言えど、会議、会話と言えばテーブル越しにやるもの、と思い込んでいたわけです。
100人の会話にVR空間は必然ではありません。
どうやら、彼らが思いもしなかった方向にコミュニケーションの世界は展開しようとしています。

では、なぜこれまでオンライン会議はさほどの普及を見せてこなかったのか?
これはテクノロジーの成熟度が絡んでいると思います。
Amazonはテクノロジストの会社と言われますが、その歴史はテクノロジー開発によって顧客のストレスをどんどん解消していった歴史でもあります。
瞬時にして読書できる電子書籍も、即日配達も、ストレスフリーを突き詰めた結果ですから。
オンライン会議も、Skypeなどのツールにはまだストレスがありました。
動画がカク付く、音声が途切れるなど。
それなら移動時間がかかろうと対面の方が気持ちよかった。
ところが、コロナ禍で皆が強制的にオンライン会議を立ち上げたところ、そのストレスがかなり解消されていることに気づいたわけです。
そのタイミングが偶然合致したんですね。
マルコム・グラッドウェル言うところの「Tipping point」がいきなり舞い降りた格好です。

テーブルの呪縛からの解放は、経済に大きなインパクトを与えます。
オフィスに会議室が必要なくなると、固定費の考え方が変わり、オフィスに求められる設計が変わり、あらゆる意味で不動産の世界を一変させるポテンシャルを持ちます。
また、商圏という概念にも影響を与えます。
僕がアドバイザリー契約をしている資格学校は、外出自粛への対応でオンライン化を進めたところ、かえって売上が急増しました。
全国の隅々から募集することが可能となり、説明会に参加する敷居も格段に下がるなど、対応のはずが進化になっていたのです。

コロナ禍の緊急事態宣言で、いろんな企業が「対応」を迫られました。
しかし、対応だけでは追いつきません。
これを奇貨とし、対応を超えた進化をしていく必要があります。
そしてそれは、テーブル呪縛に限らず、見渡せば他にも見つかっていくように思います。
新しい進化を見つけた企業が勝ち残っていくことになると思います。

2020年5月26日
by kossii
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罵倒オナニストについて

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木村花さんがSNSの誹謗中傷によって自殺に追い込まれたとされるニュースを観ました。
SNS上で誹謗中傷を繰り返す人たちに批判が集まっています。
「相手がどう感じるか、思いを馳せる想像力が必要だ」とか…。

僕は、SNS上の誹謗中傷が治まることはないと思っています。
それは強い自粛要請下でもパチンコ店の行列が絶えないのと同じです。
彼らが誹謗中傷を繰り返す理由は、罵倒という快楽に勝てない誹謗中傷依存症だからです。

罵倒は何らかの快楽を伴います。
「馬鹿」「クソ」と罵ると、どこか気持ちがスッとします。
子どもは際限なく彼らの語彙内で罵り合いますよね。
大人になるにつれ「節度」を持つようになるのですが、快楽に勝てない人も一定数存在します。

安倍政権を口汚く罵る人たちは「アベガー」と揶揄されますが、その発言内容ではなく、「馬鹿」とか「クソ」とかいった言葉を吐き出してしまう、その節度の無さに周囲が辟易としているわけです。
政権に限らず、彼らの多くは常に罵倒する対象を探しているかのようです。
動機が快楽から来ていると思われるので、その矛先はいつどこに向くかわからず、節度ある人は彼らとは距離を置こうともします。
自分が周囲から狂犬のように見られていることについてご本人たちも薄々気づいているのでしょうけど、やめられない。
これはアルコール中毒やギャンブル中毒と同じ、立派な依存症です。
このような人は著名人にも珍しくありません。
「羽鳥慎一モーニングショー」のコメンテーターである青木理氏は、話の最後に「無能」とか「ポンコツ」とかいった言葉を付けずにいられないようですが、これは精神的に幼児性を引きずっているということでしょう。
ホリエモンも必ずと言っていいほど文章を罵倒で締めくくりますが、狙いでやっている…というよりは、知能の高さと精神的な未熟さがアンバランスなのでは。
ただ、上記お二方は自分たちの行いを「罵倒」であると認識していると思います。
問題は「批判」と称しながら罵倒する人々です。

各種ハラスメント、
いじめ、
児童虐待、
差別、
芸能人の麻薬、
芸能人の不倫、etc.
これらは昨今のTVの情報番組でよく採り上げられるネタですが、共通点としては、どれも節度を失って快楽に負けた行為であり、そこに卑しい自己正当化が存在するところです。

児童虐待で言えば、なぜ虐待するのか。
それは、そこに暴力の快楽が伴うからですよね。
「しつけ」なのか「虐待」なのか。
その一線は、節度を伴うか、快楽が伴うか、とも言えると思います。
「しつけ」は苦いものです。
たとえ子どもをぶったとしても、しつけは自分が痛みを感じるものです。
これは節度が快楽を押さえ込んだと言えます。
だから社会は許容してきたのでしょう。
ところが、痛みを感じるどころか、暴力の快楽に支配されたとしか思えない親が数多く出現するようになって、「しつけ」という言い訳はもう一切許さない、となりました。
本人の節度に任せるわけにはいかないということです。

人間は共同生活で生存してきた動物なので、コミュニティを壊そうとする者、あるいは「ズル」をする者を厳しく監視する本能があります。
(ズルを糾弾する時に人の脳ではドーパミンが分泌されているようで、中野信子氏の「正義中毒」とはいわばこの「ズルを許さん」が肥大化している状態を指すと言えます)
今のムードとしては、快楽に負けたくせに自分を正当化する者に対して、そのズルは許さんぞ、となって来ています。
しつけと称しながら、快楽に負けて虐待をする。
コミュニケーションと称しながら、快楽に負けてハラスメントをする。
甲斐性と称しながら、快楽に負けて不倫をする。
これらはどれも許されない。
では、「批判」と称しながら、快楽に負けて罵倒を浴びせる行為はどうなのか?

批判には生産性があります。
そこから何かアイデアが生まれたり、改善策が生まれる余地があります。
罵倒は何も生みません。
「馬鹿」「クズ」という言葉から何かが生まれるでしょうか?
そもそも彼らはコミュニケーションを取ろうなどとは思ってもいません。
ただひたすら自分が快楽を得るための行為を繰り返しているに過ぎないのです。
罵倒オナニーなんです。

僕が参加しているFaceBookのグループに医療関係者の情報交換会があるのですが、最近は罵倒オナニストがちらほら現れるようになりました。
「PCRをむやみに拡大してはならないのはどういう理由か」というスレッドで、「安倍の馬鹿を許すな!」といった発言をするわけです。
テーブルを囲んで会議している者の中に1人だけシコシコしながら「あーイクーイクー」と白目むいてる人がいるようなことなのですが、頭がイッちゃってますから、なぜ自分がお呼びでないかがなかなか理解できません。
で、誰からもまともに相手にされなくともご満悦のようなのです。

なぜ彼らは一方的な虚しい発言で満足できるのか?
これはいわば疑似コミュニケーションとも言えましょう。
人間は主体性を失う時に恐怖感を抱きます。
クルマよりも飛行機の方が事故に遭うリスクが低くとも恐怖を感じるのは自分で運転できないからです。
何らか関わっている気になることで安心するわけです。
罵倒オナニーは罵倒の快楽と擬似的な主体性による安心感で構成されます。
その言葉が相手に届くわけがなくとも、届けるようなカタチになっていればよいわけです。

SNSで誹謗中傷する人は、「誹謗中傷されるべき相手」ではなく、「誹謗中傷を受け止める相手」を探していると言われます。
これは頷けるものがあります。
木村花さんの件で、「芸能人も人間だ」という言葉がよく見られましたが、すかさず「だからといって政治家は別」というものも見られました。
批判と罵倒の違いが理解できていないということですが、それよりも、政治家も誹謗中傷を受け止めきれない人間であると認めると罵倒オナニーができなくなってしまう、困る、ということでしょう。

つまり、罵倒オナニストは常にオナニーする場所を探し歩いているわけです。
例えば社会活動のスレッドは政権批判につながりやすいので、そこには容易に侵入します。
何かを罵倒しているスレッドにはワーッと群がります。
木村花さんのSNSは罵倒オナニスト仲間が大量に集まっていたので、紛れ込みやすかったわけです。

なので、最善の対処法は「場」を作らないことと思われます。
「割れ窓理論」という言葉がありますが、ニューヨーク市で割れた窓ガラスを全て直したら犯罪が減ったと。
窓ガラスが割れている場所では犯罪を犯していいかも?という気分になるらしいんですね。
同様に、「ここは罵倒オナニー禁止」という空気をその場ごとにどう作るかでしょう。
スレッド主の発言の中に誹謗抽象語があれば「ここは罵倒オナニーしてもいいんだ!」とワーッと群がってくることになります。
それでももし侵入してきたら相手にしないに尽きるんじゃないでしょうか。
それが批判、批評の類であれば無視せず議論すべきと思いますが、そこはこちらも区別する眼を持つべき。
おそらく医療グループも政権批判がウケるだろうと思われたのでしょうが、そこはそうではなかった。
相手にされないとだんだん去って行きました。
木村花さんは罵倒に対して反応してました。
いわばズリネタのグラビアモデルが「やだーやめてー」と反応したようなものなので、さらにコーフンさせて、シコシコを加速させてしまったわけです。

彼らはコミュニケーションを取るつもりがないので、罵倒の根拠について勉強する気も事実確認する気もありませんが、これは昨今の報道の姿勢と寸分違いません。
マクロで見た時の問題は報道であるように思います。
報道はもはや罵倒オナニストの総本山とも言えます。
例えば、どの情報番組を見ても今こそ休業補償のために国債を発行しろと、政府が無能だ何だと居丈高でしたが、国債発行は子ども世代にツケを回すことになるわけで、いわば倒産の危機に陥った店舗が営業を続けるために子ども名義の借用書を書くようなもの。
「子ども世代には申し訳ないが、ここは国債を発行させてもらうしかない」という態度の報道を僕は見たことがありません。
「営業を続けることも大事ですが、お子さん名義でこんなに借金して、後のこと考えてますか?」と慮る銀行員に対して、「今は非常時なんだからいくらでも金貸すべきだろ!もっと貸せよケチ野郎が」と罵り、「あの銀行は無能でポンコツ。皆さんそう思いませんか?」と悪評を垂れ流すようなことを公共の電波でやっているのです。
子どものためにどこまで我慢するのか、それでも国債を発行するのか、今を乗り越えた後で子どもたちへのツケをどう解消するのか、といった「快楽を伴わない」発想はもうできなくなっているのでしょう。
ハラスメントや虐待などの自己正当化については徹底的に断罪しながら、誹謗中傷で視聴率や読者を稼ぐ自らの卑しさについて彼らは何も感じないようです。
心理学用語で「確証バイアス」という言葉がありますけども、人はそもそも自分の考えを裏付けるデータばかりを集める傾向があります。
報道の姿勢はその確証バイアスを乗り越えて中立公平に情報発信をすることのはずですが、テレ朝「グッド!モーニング」の歪曲取材問題で顕かになったように、その意識は一般人よりも低いと言えましょう。

しかし、昨今は報道の姿勢について疑問を持つ人が増えて来ています。
反動のようなものでしょうか。
報道がどれだけ二枚舌で誹謗中傷文化を育てようとしても、実はSNS上で何かを常に誹謗中傷している人は日本全国で数十人程度しかいない、という研究があります。
彼らが大量アカウントを使って大量の人々が誹謗しているように見せかけているだけだと。
もしかすると、コロナのクラスターを早期に潰していったように、木村花さんに対して罵倒を浴びせた者を実名公表するなどして丹念に潰していけば、SNSの誹謗中傷問題もほぼ治まるかも知れません。
個人的にはそのぐらいやってほしいところです。