2020年10月28日
by kossii
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「鬼滅の刃」と自分ごと化

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広告用語に「自分ごと化」というものがあります。
ターゲットが、自分に取って商品の価値を感じられるようにする、という意味です。
たとえば自動運転車のCMがあったとして、観る人が「おっ、すごいな」と感じたとしても、「そのうちそういうクルマが普及するのかもなー」と思っているのではまだ「他人ごと化」されている状態。
自分とはただちに縁のないものとして、そのまま忘れられてしまいます。
そのクルマに自分が乗っている様子を想像して、「あんなふうに衝突を回避してくれたら、いつもの運転がラクだろうなー」と自分に関わることとして捉えてくれたら「自分ごと化」した、ということになります。
そこから「次の買い替えは自動運転車も検討してみよう」という意識が生まれるわけで、自分ごと化されなければ、その商品を具体的に試してみよう、買おう、という意識は生まれません。
ということで、自分ごと化は非常に重要なキーワードであり、ほとんどの広告が自分ごと化を目指します。

ところで、鬼滅の刃。
我が家は5人家族で女3人男2人の構成なのですが、去年あたりから女3人が鬼滅の刃のアニメを観てこれはいいーすごいーとやたらワーワー言い出しました。
しかし僕と息子は最初の数回を観て脱落。
理由としては、設定のほとんどに既視感があったんですよね…。
そもそも鬼ってのがよくあるヴァンパイアじゃないですか。
「十二鬼月」もるろうに剣心で似た設定があったような…。
鬼にも事情があるんだぜ、てのも、東京喰種だよな…とか。
「猪の被り物をしてる子がいて、脱ぐと顔が可愛いんだよ!」とか女3人組はコーフンして話すのだけど、火の鳥にそういう人物がいた気がするし、最近だと不滅のあなたへのグーグーと重なる。
いろんな過去作品の詰め合わせみたいなもの、と思っていたのでそこでもう興味を失ってしまったわけです。
ところが今年になっても妻はLINEの返信に鬼滅の刃スタンプをちょいちょい混ぜ込んでくるし、映画館から帰ってきた末娘が「煉獄さんがあ…」と言って泣いている様子などを見ていると、これはどうも尋常じゃないぞと。
まだ自分が見つけていない、これまでになかったナニカが潜んでいるはず。
ここまで彼女たちのハートを鷲づかみにしているそのナニカを探り当てねばなるまい、と思い立ち、取りあえずアニメ全話を観てみることにした次第です。

その結果、「これは今までになかったかも」というポイントを一つ見つけました。
主人公が泣き言を言うんですよね。
戦闘中に「痛い。これはすごく痛い」とか「もうダメだ。死ぬ。耐えられない」とか、女々しいことを口にする。
ストーリー作りには「ここを外してはならない」というセオリーがあります。
いいことと悪いことは交互に起こせ、とか、問題解決の時間制約を設けろ、とか。
主人公については、「普通の人から始めろ」です。
最初から王族の生まれ、とか、超能力を授かっている、ではダメなんですよね。
普通の人が、イヤイヤ巻き込まれて、気がついたら世界を救うことに…という流れが定番。
なぜそうでなければならないかと言うと、その方が観客が自己投影しやすいからです。
「自分の身にも起きかねないこと」として、観客との距離感を縮めておかないと、その世界に感情移入してもらえなくなるから。

ただ、これまでの主人公たちは、最初はうだうだ言っていても、いったん戦闘してしまえば一気に覚醒してそこから先はヒーロー然として振る舞うといったものが通常だったと思います。
無敵になることのカタルシスもあって。
でも鬼滅の刃の主人公はいつまで経っても無敵のヒーローになりそうもなく、ずっとグズグズ泣き言を言います。
戦う理由も世界を救う的なことではなく、妹を救うという非常にプライベートなもので。
たぶんポイントはここでは。
これまでのアニメは、バサーッと刀で斬られても、「うーやられたー」と倒れるぐらいでまたすぐ立ち上がったりして、痛みがよくわからなかった。
でも鬼滅の刃では、いちいち「これはすごく痛い。思ったより痛い」とわかりやすーく解説してくれて、「確かに自分があんなふうに斬られたらあんなふうに感じるかもなあ」という気にさせられるんですよね。
つまり、狙ったのかどうかはわからないけど、鬼滅の刃は「自分ごと化」において一段進歩してるんじゃないか、ということです。
観る人が、戦闘中もそこに自分を投影できる。
自分だったら音を上げるよな~文句言うよな~と、すごく近い距離で自分を置き換えているんじゃないか?と。
もし設定やストーリーに斬新なものがあればコミックですでに火が付いているはずで、アニメで火が付いたのは、声優のうまさもあって、今までになかった自分ごと化ができたのだってことでは。
逆の言い方をすると、ここまで観客との距離を詰めないともはやヒット作品は生まれないのだ、ということかもしれません。

僕はTVとWEBの統合コミュニケーション設計というものをやっていますが、そのキモとなるのはWEBCMです。
WEBはTVよりもターゲットを精緻化できるので、その人たちに刺さりやすいクリエイティブを露出できます。
つまり、「自分ごと化」を一段進歩させられるわけです。
これらをうまく組み合わせられれば大きな成果に繋がります。
TVCMの15秒では伝えきれない商品機能をWEB動画で解説する…といった使い方ではもったいない。
時代の不透明さが増し、不安が覆っているからか、「ロマン」とか「憧れ」といったワードを聞くことは少なくなって、生活者も「自分」から視野を広げる余裕がなくなってきている気がします。
鬼滅の刃のヒットはそれを表していると捉えてもいいのでは。
「自分ごと化」のパワーを改めて認識し直す時ではないかと思っています。

2020年8月19日
by kossii
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顔芸はもう使えません

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「Slice of life」という言葉があります。
日本語訳すると「日常の切り取り」。
象徴的、非現実的でない、リアルな生活シーンをベースに物語を作る映像表現手法のことです。
日本のドラマは時代劇などを除けばほとんどが「Slice of life」です。
海外ドラマはSF、ファンタジー、歴史モノなどが多いですが、日本が日常モノに偏るのは予算の事情でしょうね。
近場のロケで撮れるので、美術費やCG費などが圧倒的に安くすみますから。

「Slice of life」の長所は、視聴者がその世界に自分を投影できるところです。
そうそう、ああいうことするよね、とか、わかるわかる、とか、自分が今住んでいる世界と地続きになるのが強み。
そこをベースに置くことで「共感」が獲れるというわけです。
ということなのですが、厳密に言えば、現在流れているドラマ、またCMなど、その全てが「Slice of life」ではありません。
本来の「Slice of life」映像を描くとどうなるか。
これは、登場人物皆がマスクをつけていないとおかしい、ということになります。
もしつけてないとそれは現在のリアルではありませんよね。
架空の世界、あるいはビフォアコロナの世界になります。

じゃあ、皆がマスクつけている日常を描けばいい、という理屈になりますが、それはなかなか難しい。
一つには、そんなシーン観たくない。
皆がマスクつけている日常なんて、まだ受け容れられてないんですよ。
それを露出すると、「受け容れろ」という強制を感じてしまいます。
そこには反発が生まれます。

それよりもっと大きな問題は、マスクしちゃったら「表情が描けない」。
これはかなり致命的です。
「半沢直樹」新シリーズが歌舞伎役者陣の顔芸で話題をさらっていますが、これは現代劇ではないんですよね。
航空会社再生というテーマを知った時、また古い話を持ち出してきたな、と感じたんですけど、時代設定がビフォアコロナのどこかなんですね。
だから違和感がない。
もしウィズコロナを舞台に「半沢直樹」を作ることになったら?
不可能と思います。
マスクして顔芸はできませんから。
第3弾があるとしたら、その舞台はやはりビフォアコロナになるんでしょうか。
この先、ずーっとビフォアコロナ?
いや、マスクのないアフターコロナを描けばいい?

おそらく、映像の世界において、皆がマスクをつけているSlice of lifeは「なかったもの」にしようよ、というのが暗黙の了解になっている気がします。
これは一時的な異常なものだから。
こんなのは日常じゃないよね。
日常として描きたくなんかないよね、と。
すぐアフターコロナの世界が来るから、それまではSlice of lifeもビフォアコロナでいいじゃないか、と。

ではマスクのない世界がやって来るのはいつ頃なんでしょう。
来年ワクチンが開発されたとしても、日本国民全員がサーッと一斉に打てるものとは思えません。
行き渡るにはかなり時間がかかるはず。
それに、一回打てば永久に免疫ができる、というものでもなさそう。
インフルエンザワクチンのように、年に1回、あるいは季節ごとに1回打つ、といったものになる可能性が高いそうです。
全員がつけている、ではないにせよ、マスクをつけてる人がいないという世界はもう訪れないんじゃないでしょうか。
そうすると、だんだん、皆の共通認識が変わってくるはず。
「マスクをつけてる人がいるのが日常シーンだ」と。
マスクをつけてる人がいないと、どこか絵空事に見えて来るということです。
その分岐点を推し量るのがメチャ難しいなあと思っています。
顔と顔を突き合わせて「おしまいDeath!」とかやっても、「普通あんなことしないだろ」という反応が返るタイミングがやがてやって来るわけです。

来年のドラマ、CMはどうなるんだろう。
ノーマスクで撮影すると、ああビフォアコロナの頃の話ね、となってしまう恐れがあります。
「今のリアルをベースにした話なんだ」と伝えるためには、マスク着用が必要となるでしょう。
ところが、マスクをつけると表情が描けない。
このジレンマはけっこう制作者としては頭が痛い。
今はまだ問題として顕在化してませんが、すぐ困ることになります。
でも正直、今のところ解がないです。

2020年8月6日
by kossii
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「そんなもん誰に見せんねん」ノーマル

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僕が子どもの頃、母が丹念に化粧していたり、ちょっと良さげな服を選ぼうとすると、父は必ずこう言いました。
「そんなもん誰に見せんねん」。
自分たちのような庶民が外見にがんばったって、それを披露する立派な場などないではないか、という、自嘲を込めた関西風冗句です。

20年以上前に買ったブルガリペアウォッチの革バンドは劣化が早く、1年ほどですり切れて来るんですが、先日また付け直しました。
革バンドとは言え、安いのでも2万円以上します。
まあ仕方がない…と思いつつ新しい革バンドになった腕時計を眺めていたら、ふと他界した父親の言葉が脳でリフレインしました。
「そんなもん誰に見せんねん」。

結婚記念で買ったものなので、別に見せびらかしたいわけではない。
でも、どこか心の奥底で、「奥さんを大事にしてるんだな」といった周囲の人たちの印象を期待しているのかもしれません。
誰も見ていない状況で身に付けるのは無意味すぎます。
オンライン会議で映るのは首から上ですし…。
ということで、ペアウオッチはデスクの上にずっと置かれたまま。

人間は関係性の生き物です。
どの生物も何らかの関係性の中で生きていますが、自らの意思で関係性を構築したり修正したりしようとするのは人間だけです。
その人の評価は他人との相対的な比較で決まっていきますし、他人からどう見えているかが全てと言って過言ではないでしょう。
そして、その評価に何らかの作用を与えようとして、「見栄え」を気にしているわけですよね。
ところが今は、いわば、人を肉眼で見に行くことが禁じられています。
そうなるとこれまでの見栄え戦略は大きな見直しを迫られます。
きちっとしたスーツを着ることで「あの人きちんとしているな」というイメージ作りはできにくくなります。
在宅でオンライン会議に参加する人はだいたい部屋着です。
「在宅感」のようなものを演出しよう、となるのか、大企業の社長さんでもオンライン会議ではボサボサの髪で無精髭だったりします。
また見栄えには、行動も含まれます。
朝早く出社して「あの新人、やる気あるな」という印象作りはできにくくなります。
飲み会で率先してサラダ取り分けて「あの子、家庭的なんだな」という好感度UPは得にくくなります。

ニューノーマルとは何か?についてずっと考えていたのですが、僕の中で一つ出来上がった結論は、
「ニュー関係性戦略」
です。
これが本質なんじゃないかな。
関係性に作用させるための商品やサービスの全てが、「そんなもん誰に見せんねん」というフィルターを通る時代。
ファッションや美容はもとより、クルマも見栄えで選ぶことが虚しくなっていく。
カラオケだって「そんなもん誰に聴かせんねん」と思うと練習する気は萎えてしまう。

性淘汰に勝ち抜くために、クジャクの雄は立派な羽を生やしていたり、鹿の雄は立派な角を生やしていたりしますが、クジャクに「これから見せていいのは頭だけなので」と言ったら悩むでしょう。
鬱になるかも。
いくら羽を雄々しく広げたところで「そんなもん誰に見せんねん」。
人間界はこのような状況に突入しつつあるということです。
見栄えはその人の「実」ではなく「虚」と言えましょう。
しかし、「実」はそのままでは伝わらないから、「虚」に投影する必要があるわけです。
それをもぎ取られてしまうと、いったい何をもって自分を見せればいいのか?
これはかなりの難問ではないかと思います。

リモートで使える「虚」は極めて限られます。
オンライン会議の背景に凝る人もいますが、それがその人の「実」を投影しているかというと、なんとも心細い。
あとは話し方ぐらいでしょうか。
となると、「虚」に頼らない、中身で勝負、提案性や発言内容をそのまま評価する、ということになりますが、それに耐えられるかどうか。
見栄えによる関係性戦略が本能から来ているものだとすると、それを失った生き方はかなりストレスフルなものとなるでしょう。

見栄えはその人の「実」を投影していると言いましたが、その人の「希望」を投影しているものでもあります。
一見ヤクザ風であったりロッカー風であったりしても、中身は軟弱者ということは往々にしてありますよね。
「こんなふうに見てほしい」ってことで、理想と現実のギャップを埋める役割も果たしているわけです。
「実」だけが評価される状況になると、ただの軟弱者としか見られなくなります。
これはこれで辛いことでしょう。

サイボウズの今年の新入社員はまだ出社していないとのこと。
これは社員思いの文脈で語られることですが、彼らの今の心情を訊いてみたいです。
本当に「ラク」なのか?

見栄えに代わる「虚」の作り方。
これがニューノーマルのテーマになるのではと思っています。
このカテゴリーで新しい商品やサービスができたら、かなりのブルーオーシャンではないでしょうか。

2020年5月28日
by kossii
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コロナは「テーブルの呪縛」を解いた

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先日、「オンライン落語」なるものに招待されまして。
オンライン会議ツールを使って落語を楽しむというものなのですが、400人ほどが参加してました。
落語も楽しかったのですが、僕はそれ以外のことが気になっていました。
演目が終わってからフリーQ&Aの時間になり、参加者と師匠が「なぜ落語家を目指したのか」といった会話を交わしていたのですが、それを眺めながら僕は、「これって400人の会議だよなあ」と思ったんです。
400人がひとつのテーブルに座っているようなものだなと。

その瞬間、僕の頭から「テーブルの呪縛」が解かれました。

今まで、会議と言えば真っ先に脳裏に浮かぶものはテーブルでした。
その会議の規模、膝詰めの2人なのか、10人なのか、40人なのか、を決定づけていたのはテーブルの大きさと数です。
400人の会議が不可能だったのは、400人が同時に座れるテーブルが存在しないからと言えるでしょう。
オンライン会議はそのテーブルのない世界、あるいはそれぞれが自分のテーブルを持ち寄る世界です。
進んでいくと数百人の会議も普通になるかもしれない、と思ったわけです。

これは当たり前のようでいて、ものすごいパラダイム転換ですよ。
僕は、通販が店舗の「棚」という概念をなくしてしまったものに通ずると感じています。
棚の広さに制約がある世界では、店舗はその時その時の売れ筋を揃えられるかが勝負となります。
ちなみにTポイントやPONTAが普及したのはポイント解析による「棚」の最適化を加盟店に提供するビジネスだったから。

Amazonを初めとする通販は、いわばこれを逆手に取る戦略を取りました。
ロングテールです。
棚の広さという制約がないので、年に1つしか売れない商品も在庫に持てるわけです。
それらのチリツモがけっこうデカいと。
そして、ここを足場として、実店舗にはない通販ならではの強みを開拓し、どんどん盛っていきました。

会議からテーブルがなくなると、たとえば1000人相手のプレゼンテーションも可能になります。
企業相手のプレゼンでは聴く人はせいぜい20人以内が通常ですが、できるだけ全従業員に聴かせたい、というケースもあるかもしれません。
これまでそんなプレゼンを依頼されたことはありませんが、おそらくそこには1000人の会議なんて無理に決まってるというテーブルの呪縛もあったのでは。
企業にとって会議室は大きなコストです。
会議はできるだけ小さくやるのがコスパがよく、大人数でやる場合は貸し会議室を借りることになります。
しかし、そのコストはもう必要なく、むしろ、時間的コストを考えると100人などの大人数で一気に会議を開くのが常識化するかもしれません。

テーブルがなくなるということは、当然ながら距離の制約もなくなります。
現在、僕の仕事の中心は広告主とのアドバイザリー契約ですが、これまで地方企業は受けにくかった。
ほんの1時間打合せするだけでも、移動時間を合わせると丸1日かかってしまうので、なかなかペイしづらいからです。
もはやクライアントとの定例会議は一気にオンライン化しましたが、これであれば全国どこのお仕事も引き受けられます。
また、僕が主宰している広告学校も、首都圏に住む人じゃないとほぼ受講できませんでした(過去には地方から深夜バスで通う人も何人かいましたが)。
これもオンライン化すれば全国から応募が可能になります。

会議に臨む際の意識も変わるかもしれません。
テーブルにはそこに着く者の順位を決める作用があります。
上座・下座がありますし、メインの人物は真ん中、外野は端っことか後ろとか。
アーサー王のテーブルは逆に王と騎士との順位を決めない円卓。
これが、テーブルがなくなると、順位付けという意識もなくなります。
社長もワンオブゼムになってしまいます。
順位付けによって塞がれていた意見を吸い上げやすくなるのでは。
オンライン会議に参加していると、ビデオも音声もオフにして自分の気配を隠しながら参加する人いますけど、皆の視線に入らないようテーブルの端っこに座る感覚を引きずっているのでは。
そのあたりの意識変換をしないとオンラインのメリットを活かし切れない気がします。

オンライン会議ならではの強みは他にもいろいろ考えられます。
そのうちAIが実装されるでしょう。
オンライン面接ではすでに実施されていますが、AIが被験者の映像を分析して、知能の高さを測ったりするのです。
ディストピア的ではありますが…。
会議を重ねるごとに、AIが「リストラすべき順番はこの人とこの人」といった提言をするなどは今の技術ですぐできるはずです。
また、会議は情報交換であったりアイデアを出す場だったりしますが、オンライン会議は情報取得やブレーンストーミングをサポートするためのプラットフォームになり得ます。

FacebookがVRのOcculus社を買収したのは、たとえば東京とニューヨークのユーザーがテーブル越しに会話する、そのようなコミュニケーションの世界を実現するためと言われています。
しかしそこにはテーブルの呪縛が存在していました。
Facebookと言えど、会議、会話と言えばテーブル越しにやるもの、と思い込んでいたわけです。
100人の会話にVR空間は必然ではありません。
どうやら、彼らが思いもしなかった方向にコミュニケーションの世界は展開しようとしています。

では、なぜこれまでオンライン会議はさほどの普及を見せてこなかったのか?
これはテクノロジーの成熟度が絡んでいると思います。
Amazonはテクノロジストの会社と言われますが、その歴史はテクノロジー開発によって顧客のストレスをどんどん解消していった歴史でもあります。
瞬時にして読書できる電子書籍も、即日配達も、ストレスフリーを突き詰めた結果ですから。
オンライン会議も、Skypeなどのツールにはまだストレスがありました。
動画がカク付く、音声が途切れるなど。
それなら移動時間がかかろうと対面の方が気持ちよかった。
ところが、コロナ禍で皆が強制的にオンライン会議を立ち上げたところ、そのストレスがかなり解消されていることに気づいたわけです。
そのタイミングが偶然合致したんですね。
マルコム・グラッドウェル言うところの「Tipping point」がいきなり舞い降りた格好です。

テーブルの呪縛からの解放は、経済に大きなインパクトを与えます。
オフィスに会議室が必要なくなると、固定費の考え方が変わり、オフィスに求められる設計が変わり、あらゆる意味で不動産の世界を一変させるポテンシャルを持ちます。
また、商圏という概念にも影響を与えます。
僕がアドバイザリー契約をしている資格学校は、外出自粛への対応でオンライン化を進めたところ、かえって売上が急増しました。
全国の隅々から募集することが可能となり、説明会に参加する敷居も格段に下がるなど、対応のはずが進化になっていたのです。

コロナ禍の緊急事態宣言で、いろんな企業が「対応」を迫られました。
しかし、対応だけでは追いつきません。
これを奇貨とし、対応を超えた進化をしていく必要があります。
そしてそれは、テーブル呪縛に限らず、見渡せば他にも見つかっていくように思います。
新しい進化を見つけた企業が勝ち残っていくことになると思います。

2020年5月26日
by kossii
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罵倒オナニストについて

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木村花さんがSNSの誹謗中傷によって自殺に追い込まれたとされるニュースを観ました。
SNS上で誹謗中傷を繰り返す人たちに批判が集まっています。
「相手がどう感じるか、思いを馳せる想像力が必要だ」とか…。

僕は、SNS上の誹謗中傷が治まることはないと思っています。
それは強い自粛要請下でもパチンコ店の行列が絶えないのと同じです。
彼らが誹謗中傷を繰り返す理由は、罵倒という快楽に勝てない誹謗中傷依存症だからです。

罵倒は何らかの快楽を伴います。
「馬鹿」「クソ」と罵ると、どこか気持ちがスッとします。
子どもは際限なく彼らの語彙内で罵り合いますよね。
大人になるにつれ「節度」を持つようになるのですが、快楽に勝てない人も一定数存在します。

安倍政権を口汚く罵る人たちは「アベガー」と揶揄されますが、その発言内容ではなく、「馬鹿」とか「クソ」とかいった言葉を吐き出してしまう、その節度の無さに周囲が辟易としているわけです。
政権に限らず、彼らの多くは常に罵倒する対象を探しているかのようです。
動機が快楽から来ていると思われるので、その矛先はいつどこに向くかわからず、節度ある人は彼らとは距離を置こうともします。
自分が周囲から狂犬のように見られていることについてご本人たちも薄々気づいているのでしょうけど、やめられない。
これはアルコール中毒やギャンブル中毒と同じ、立派な依存症です。
このような人は著名人にも珍しくありません。
「羽鳥慎一モーニングショー」のコメンテーターである青木理氏は、話の最後に「無能」とか「ポンコツ」とかいった言葉を付けずにいられないようですが、これは精神的に幼児性を引きずっているということでしょう。
ホリエモンも必ずと言っていいほど文章を罵倒で締めくくりますが、狙いでやっている…というよりは、知能の高さと精神的な未熟さがアンバランスなのでは。
ただ、上記お二方は自分たちの行いを「罵倒」であると認識していると思います。
問題は「批判」と称しながら罵倒する人々です。

各種ハラスメント、
いじめ、
児童虐待、
差別、
芸能人の麻薬、
芸能人の不倫、etc.
これらは昨今のTVの情報番組でよく採り上げられるネタですが、共通点としては、どれも節度を失って快楽に負けた行為であり、そこに卑しい自己正当化が存在するところです。

児童虐待で言えば、なぜ虐待するのか。
それは、そこに暴力の快楽が伴うからですよね。
「しつけ」なのか「虐待」なのか。
その一線は、節度を伴うか、快楽が伴うか、とも言えると思います。
「しつけ」は苦いものです。
たとえ子どもをぶったとしても、しつけは自分が痛みを感じるものです。
これは節度が快楽を押さえ込んだと言えます。
だから社会は許容してきたのでしょう。
ところが、痛みを感じるどころか、暴力の快楽に支配されたとしか思えない親が数多く出現するようになって、「しつけ」という言い訳はもう一切許さない、となりました。
本人の節度に任せるわけにはいかないということです。

人間は共同生活で生存してきた動物なので、コミュニティを壊そうとする者、あるいは「ズル」をする者を厳しく監視する本能があります。
(ズルを糾弾する時に人の脳ではドーパミンが分泌されているようで、中野信子氏の「正義中毒」とはいわばこの「ズルを許さん」が肥大化している状態を指すと言えます)
今のムードとしては、快楽に負けたくせに自分を正当化する者に対して、そのズルは許さんぞ、となって来ています。
しつけと称しながら、快楽に負けて虐待をする。
コミュニケーションと称しながら、快楽に負けてハラスメントをする。
甲斐性と称しながら、快楽に負けて不倫をする。
これらはどれも許されない。
では、「批判」と称しながら、快楽に負けて罵倒を浴びせる行為はどうなのか?

批判には生産性があります。
そこから何かアイデアが生まれたり、改善策が生まれる余地があります。
罵倒は何も生みません。
「馬鹿」「クズ」という言葉から何かが生まれるでしょうか?
そもそも彼らはコミュニケーションを取ろうなどとは思ってもいません。
ただひたすら自分が快楽を得るための行為を繰り返しているに過ぎないのです。
罵倒オナニーなんです。

僕が参加しているFaceBookのグループに医療関係者の情報交換会があるのですが、最近は罵倒オナニストがちらほら現れるようになりました。
「PCRをむやみに拡大してはならないのはどういう理由か」というスレッドで、「安倍の馬鹿を許すな!」といった発言をするわけです。
テーブルを囲んで会議している者の中に1人だけシコシコしながら「あーイクーイクー」と白目むいてる人がいるようなことなのですが、頭がイッちゃってますから、なぜ自分がお呼びでないかがなかなか理解できません。
で、誰からもまともに相手にされなくともご満悦のようなのです。

なぜ彼らは一方的な虚しい発言で満足できるのか?
これはいわば疑似コミュニケーションとも言えましょう。
人間は主体性を失う時に恐怖感を抱きます。
クルマよりも飛行機の方が事故に遭うリスクが低くとも恐怖を感じるのは自分で運転できないからです。
何らか関わっている気になることで安心するわけです。
罵倒オナニーは罵倒の快楽と擬似的な主体性による安心感で構成されます。
その言葉が相手に届くわけがなくとも、届けるようなカタチになっていればよいわけです。

SNSで誹謗中傷する人は、「誹謗中傷されるべき相手」ではなく、「誹謗中傷を受け止める相手」を探していると言われます。
これは頷けるものがあります。
木村花さんの件で、「芸能人も人間だ」という言葉がよく見られましたが、すかさず「だからといって政治家は別」というものも見られました。
批判と罵倒の違いが理解できていないということですが、それよりも、政治家も誹謗中傷を受け止めきれない人間であると認めると罵倒オナニーができなくなってしまう、困る、ということでしょう。

つまり、罵倒オナニストは常にオナニーする場所を探し歩いているわけです。
例えば社会活動のスレッドは政権批判につながりやすいので、そこには容易に侵入します。
何かを罵倒しているスレッドにはワーッと群がります。
木村花さんのSNSは罵倒オナニスト仲間が大量に集まっていたので、紛れ込みやすかったわけです。

なので、最善の対処法は「場」を作らないことと思われます。
「割れ窓理論」という言葉がありますが、ニューヨーク市で割れた窓ガラスを全て直したら犯罪が減ったと。
窓ガラスが割れている場所では犯罪を犯していいかも?という気分になるらしいんですね。
同様に、「ここは罵倒オナニー禁止」という空気をその場ごとにどう作るかでしょう。
スレッド主の発言の中に誹謗抽象語があれば「ここは罵倒オナニーしてもいいんだ!」とワーッと群がってくることになります。
それでももし侵入してきたら相手にしないに尽きるんじゃないでしょうか。
それが批判、批評の類であれば無視せず議論すべきと思いますが、そこはこちらも区別する眼を持つべき。
おそらく医療グループも政権批判がウケるだろうと思われたのでしょうが、そこはそうではなかった。
相手にされないとだんだん去って行きました。
木村花さんは罵倒に対して反応してました。
いわばズリネタのグラビアモデルが「やだーやめてー」と反応したようなものなので、さらにコーフンさせて、シコシコを加速させてしまったわけです。

彼らはコミュニケーションを取るつもりがないので、罵倒の根拠について勉強する気も事実確認する気もありませんが、これは昨今の報道の姿勢と寸分違いません。
マクロで見た時の問題は報道であるように思います。
報道はもはや罵倒オナニストの総本山とも言えます。
例えば、どの情報番組を見ても今こそ休業補償のために国債を発行しろと、政府が無能だ何だと居丈高でしたが、国債発行は子ども世代にツケを回すことになるわけで、いわば倒産の危機に陥った店舗が営業を続けるために子ども名義の借用書を書くようなもの。
「子ども世代には申し訳ないが、ここは国債を発行させてもらうしかない」という態度の報道を僕は見たことがありません。
「営業を続けることも大事ですが、お子さん名義でこんなに借金して、後のこと考えてますか?」と慮る銀行員に対して、「今は非常時なんだからいくらでも金貸すべきだろ!もっと貸せよケチ野郎が」と罵り、「あの銀行は無能でポンコツ。皆さんそう思いませんか?」と悪評を垂れ流すようなことを公共の電波でやっているのです。
子どものためにどこまで我慢するのか、それでも国債を発行するのか、今を乗り越えた後で子どもたちへのツケをどう解消するのか、といった「快楽を伴わない」発想はもうできなくなっているのでしょう。
ハラスメントや虐待などの自己正当化については徹底的に断罪しながら、誹謗中傷で視聴率や読者を稼ぐ自らの卑しさについて彼らは何も感じないようです。
心理学用語で「確証バイアス」という言葉がありますけども、人はそもそも自分の考えを裏付けるデータばかりを集める傾向があります。
報道の姿勢はその確証バイアスを乗り越えて中立公平に情報発信をすることのはずですが、テレ朝「グッド!モーニング」の歪曲取材問題で顕かになったように、その意識は一般人よりも低いと言えましょう。

しかし、昨今は報道の姿勢について疑問を持つ人が増えて来ています。
反動のようなものでしょうか。
報道がどれだけ二枚舌で誹謗中傷文化を育てようとしても、実はSNS上で何かを常に誹謗中傷している人は日本全国で数十人程度しかいない、という研究があります。
彼らが大量アカウントを使って大量の人々が誹謗しているように見せかけているだけだと。
もしかすると、コロナのクラスターを早期に潰していったように、木村花さんに対して罵倒を浴びせた者を実名公表するなどして丹念に潰していけば、SNSの誹謗中傷問題もほぼ治まるかも知れません。
個人的にはそのぐらいやってほしいところです。

2020年5月8日
by kossii
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np.無料広告学校に受かるには

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np.無料広告学校13期の応募書類をざっと見させてもらいました。
これから具体的な選抜の打合せを経て受講生を決定することになりますが、これはオンラインではかなり無理があり、自粛要請明けを待つことになります。
なので、連絡は6月頭を予定してます。
応募された方々はヤキモキされるかもしれませんが、ご了解ください。

さて、応募書類を見ていると、「もう3度目の応募になります」といった方がよくいらっしゃいます。
僕も情というものがあってそういう方はやはり優先的に選びたいな…と思うんですけど、どうしても選べなかったりするんです。
そこに、
「選ぶ理由が何もない」
からです。

おそらく、根本的なことで「選ばれ方」がわかってないのだろうなと。
競争社会の中で、「選ばれ方」がわからないとかなりつらいことになります。
広告業界で大きな仕事を獲得するためには競合プレゼンに勝たねばなりません。
社内の打合せですら一種のコンペと言えます。
まずは企画打合せでCDに案がピックアップされる。
それがクライアントに提出され、いくつかの中から選ばれる。
トーナメント戦のようにコンペに勝ち抜いていくことで、自分の案が自分の名前と共に世に出て行くわけです。
僕は新人の頃からネーミング案やコピー案がカタチとなっていきましたが、先輩たちの案を押しのけて自分の案が選ばれるためにはどうすればいいか?そればかりを考えていた結果として、いまの自分があります。

もしもnp.無料広告学校の受講がその人の将来にとって意味のあることならば、ここで選ばれなければ仕事人生のトーナメント戦で早くも脱落ということになります。
なので、僕が応募者の中からどのように受講生を選抜しているのかをここに書いてみます。
選抜の基準はHPに載せていますがそれはどちらかと言えばタテマエ的なところがあって、ここに書くのはあまり表には出さない正味のところです。
応募締め切りの直前ならば、応募者本来の資質に下駄を履かせることになるのでアンフェアになりかねませんが、応募を締め切ってからであれば構わないでしょう。
受講に限らず、人生における他のコンペにも通ずるものが見つかるかもしれません。

まず、目立たなければ始まりません。
履歴書に必要事項を書いて、それだけを送ってくる人は多いですが、なぜそのようなことをするのか全く不可解です。
書式を整えれば誰でも受講できるものなら、それでいいでしょう。
あるいは、宝くじのように当てずっぽうで選ばれるものでも、そういった最小限の労力が無駄がなくていいはずです。
でも、僕らが何らかの基準を持って選ぶわけです。
そこにかなり高い倍率があるのはわかっているはずです。
であれば、そこに選ばれる理由は何もないことになります。
「他の応募者とはちょっと違うぞ」と思わせて初めて、選ばれる俎上に乗ることになります。
そのために、自分の履歴書をオリジナルの秀麗なデザインにする人もいれば、絵本のようにしてくる人もいます。
そうすれば、少なくとも「受かりたい」という気持ちは伝わります。
必要事項だけを送ってくる人から、いったい何が伝わってくるでしょうか?
ものすごく立派な書類を作ればいいということではないし、紙切れ一枚ではダメということではありません。
紙切れ一枚であってもそこに書いてある文章の中に光るものがあれば、それはそれで他とは違う、目立つ存在になり得ます。
要は、自分が他とは違う存在であることをどこでアピールするか、その意識がなければ全く歯牙にもかからないということです。

次に、キャラクター。
1年近く、毎週のように会うことになるのですから、イヤなヤツは選びたくないです。
会っていて気分の良くなる人がいい。
僕らがどうやって高いモチベーションを持ち続けるか、は大きな問題であって、これが切れてしまったら学校じたいが存続できなくなります。
あわよくば、自分にない知見を得られる人ならさらにいい。
なので応募者は、自分がいかに全体の輪を乱さず協力的で、いいムードを作れそうか、そして、他の受講生にない経験、知見を持っているか、というアピールをすべきです。
実務においてもキャラクターは非常に重要です。
競合プレゼンといっても企画書だけを見ているわけではありません。
「彼は仕事しやすそうだ」という印象は決定的なものを与えます。
「仕事しにくそうだ」と思われれば勝ち目はありません。
これまでとは違う新鮮なアイデアを出してくれるんじゃないか、とか、ややこしい事情も乗り越えてくれるんじゃないか、とか、プラスのイメージを醸し出せなければ、いくら実務の能力が高くても引き上げてもらえません。
業界には「イメージばかり」の人も多くて困るのですが…。

最も大事な要素は広告との関係性です。
「プロダクションで唯一のクリエイティブ職だが、何が良いクリエイティブか一人で判断するのが苦しい」。
これはその人と広告との現在の関係性を表しています。
「いまは営業職だがクリエイティブ職に転職したい」「クリエイティブ職に興味はないが営業としてクリエイティブ力は身に付けておきたい」は、似ていますが関係性が全く異なります。
その人と広告との関係は様々なものがあります。
僕らができることは、その関係性に何らかの作用をすることです。
関係性によっては、1年間通っても全く無意味、ということもあり得ます。
ああこの場合は何らか役に立てるかもしれないな、と思った時、じゃあ通ってもらってもいいか、となるわけです。
いくら他より目立つ努力がなされていて、キャラクター的に好感が持てるものであっても、ここがスカスカだと選びようがなくなります。
実務に例えるならば、プレゼンの冒頭で、やれこのCDはどこそこで賞を獲った、このプランナーはどこそこで話題になっている、といった御披露目をするチームは多いですけど、肝心の提案がピント外れだったら「ただのハリボテかよ」で終わる、そのようなものです。

最後に、僕らは受講生全体の多様性を考慮します。
コピーライター志望者だけが固まるよりも、営業職がいたり、広告とは全く関係ない飲食業の人がいたり、学生がいたり、外国籍の人がいたり、など、多様な方が受講生同士でいろんな刺激を与えあえて、それもまた学びになると思うわけです。
これはもうその人の現在地によるので、どうしようもできない要素ではあります。
しかし、自分のポジションを知った上でどのようなアピールをするかを考えることは大事です。
コピーライターの新人、デジタル系の新人が多いのは想像つくと思いますが、その中での競争率は高くなりますので、「その中で」自分が他とはどのように違っているのかを表現しなければいけない、そのように意識すべきということです。

繰り返しになりますが、仕事人生は大小コンペの連続のようなものです。
その一つ一つで自分が、自分のアイデアが、どう選ばれるか。
常日頃からそこに気を遣っていなければ、埋もれてしまいます。
人はバケるものなので、詰まった栓が抜けるようにある思い込みが解かれれば、例えば「履歴書の書式を無視してもいいんだ!」とわかっただけでガッといろんなアイデアが吹き出てくる、といったことがあると思います。
そんなことを期待して、ちょっと書いてみました。

2020年5月5日
by kossii
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アビガンについて僕が報じてみる

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コミック「ブラックジャックによろしく」に「TS-1」という抗がん剤が登場します。
これは胃がんには「承認」されているが、膵がんには「未承認」という設定。
主人公はこの薬を膵がんの患者に使おうとします。
ここで問題が生じるのですが、それは何だと思います?
おそらく多くの方は、「未承認薬を使うのは違法では」と考えるでしょう。
違います。
厚労省の「承認」というのは保険適用の承認であって、保険適用しなければ、つまり10割自己負担するならば、未承認薬でも医師と患者の合意で使えるのです。
このコミックでそれを阻んでいたのは薬価でした。
抗がん剤には非常に高額なものもあり、自己負担だと月に数百万円にもなる、それを問題として採り上げていました。

アビガンの状況はこのTS-1とよく似ています。
インフルエンザについては承認されているが、新型コロナには未承認。
コミックと大きく異なるのは、アビガンの薬価は非常に安いだろうという点です。
まだ定まった薬価はないようですが、新型コロナに有効性が期待される抗HIV薬のカレトラは1錠約300円。
自己負担でも薬代が総額10万円を超えるとは思えません。
万を超えたとしても下の方じゃないでしょうか。
1ヶ月も入院すれば10万円や20万円、ICUに入ったりすればそれ以上の出費になりますから、それに比べてクリティカルな金額とは言えないでしょう。
保険適用承認が遅いとか騒がなくても、一般的な経済力のある人なら今にも使えるのです。

じゃあ承認のための治験とは何をやっているのか。
基本的には重篤な副作用が生じるかを調べるためのものです。
新型コロナの治療はインフルエンザの治療と状況が異なります。
治癒するまでの期間が長いのでそれだけ長期間投与しなければならないかもしれない、など、そういう環境でも副作用に変わりはないかを、いま確認しているわけです。
アビガンの副作用としては催奇形性の可能性が言われています。
妊婦が服用すると奇形児が生まれる恐れがある、ということですが、実際に生まれた事例はありません。
その「可能性がある」から、念のために妊婦には使わないようにしよう、ということです。
よく「催奇形性の副作用がある」と報道されていますが、副作用があるかどうかハッキリ断定はできません。
(下でも述べますが、悲しいことに報道機関の多くは一般人の僕よりも報道についての知見が下回っています)
また尿酸値が高まる傾向があるので、痛風持ちの人には慎重に使うなどの制約もあるものの、メリットデメリットを比べれば圧倒的に使用するメリットが高いと言えます。
感染症の医師が「もしあなたの母親が新型コロナに感染したら?」という質問に「100%、迷いなく投与します」と答えていたのが印象的でした。

ただ、通常であれば病院が製薬会社のMRに連絡して「持って来て」ですむところ、アビガンに関しては製薬会社の手を離れ国の管理に移っています。
そういう意味で、医師と言えども自由には使えないという事情はありました。

しかし、政府は3月に動きます。
アビガン、レムデシビル含む3剤を「観察研究」という枠組みで使って良し、と医療機関に伝達します。
観察研究は臨床検査法の規制に囚われないので、手続きや罰則のハードルが低く、病院がアビガンなどを最速のスピードで使うにはこれしかないということだったのでしょう。
とは言え流石に無理筋だろうと医療界は戸惑ったようです。
↓資料
アビガン投与が「観察研究」??
そして4月頭に安倍さんが「観察研究の仕組みでアビガン使用を拡大していく」と記者発表。
この時報じられたのは、「アビガンを200万人分用意する」でした。
安倍さんが「どんどん使ってほしい」と言ったのを、「承認されて200万人分用意されたらどんどん使って」と受け取ったのですが、これは間違いです。
超法規措置的に使えるようにしたので今すぐ使ってくれ、ということだったのですが、それが伝わることはありませんでした。

その後、この観察研究の手続きを経てアビガンを使用する病院は増えていき、いま現在では1000を越しています。
赤江珠代さんや石田純一さんが早期に投与されたのはその恩恵です。
ところがそのことはほとんど報道されません。
5月4日の「羽鳥慎一モーニングショー」ではレムデシビルが特例承認されアビガンが特例承認されない点について、岡田晴恵先生が「それについて私は以前からずっと言ってます」と発言しています。
早期投与できるようにずっと主張してきた、の意ですが、これは非常に罪の重い発言であると考えます。
政府が全く手をこまねいて無策であり自分はそれをずっと問題視してきた、といった印象を作り出していますが、それは逆で、政府自らが無理筋を冒してまで臨床現場に速やかに治療薬を届けようとしていたのが実際です。
おそらく岡田先生が早期投与を言い始める以前から。
また、アビガンが特例承認されるためには法令を変える必要がありますが、実際に現場でもう使っているのだからそんなことをやる必要もないし、やっている間に承認が下ります。
自分が思うにそれよりも大きな問題は、この番組を観ている視聴者に「アビガンまだ使えないんだ」という誤解を植え付けていることです。

病院にも、医師個人にも、大きなレベル差があります。
観察研究なんてやったことない、何のことかわからない、という病院もたくさんあるはずです。
また公立系や大学病院系は保険適用外の治療を自らはやりたがらない傾向もあります。
「患者が言い出さない限りは黙っておく方が面倒がない」と考える病院は少なくないでしょう、残念ながら。
(クライアントが言い出さない限りは黙っておく…余談ながら病院と広告エージェンシーは非常に共通点多いです)
だから、命を守るためには、患者が知識を持って「こういう治療はできないのか」と問いただすことが大事なのです。
病気の種類は違えども僕はそのような経験をしてきていますから、ここはハッキリ言うことができます。
主治医も「患者の希望」という錦の御旗があれば、病院の方針に反することができます。
その情報を与えるのが報道機関の役割なのに、真逆のことをやっているわけです。

日本での新型コロナによる死者数は現在492人。
かなり乱暴な試算ではありますけど、彼らの全てにアビガンが投与されて来なかったとします。
羽鳥慎一モーニングショーの最近の平均視聴率は約11%。
これはリアル視聴率であって、録画を含むともっと高くなります。
ざっくり、54人が羽鳥慎一モーニングショーを生放送で観ていたことになります。
アビガンを軽症者に使用した場合、重症化を防ぐ率は9割と言われています。
もし彼らがワイドショーから正しい知識を得て、アビガンの早期投与について医師を動かしていたら、48人が救われた計算です。

もちろん、この中には実際に投与された方もいらっしゃるでしょうし、こんな簡単なことでないのはわかっています。
しかし、「羽鳥慎一モーニングショー」を含め全てのワイドショーが正しい情報を与えていたならば、死者が格段に減っていた可能性は否定できないでしょう。
新型コロナのニュースは芸能人の不倫ニュースとは違います。
自分の思ったままペラペラと舌を回せばいいわけではない。
人の命が関わっているんですよ。
その重みについて自覚があるようには全く感じられません。
長嶋一茂氏が「まだまだワクチンが足りませんよね」と発言してましたが、明らかにワクチンと治療薬を混同しています。
ところが専門家も司会者もそれを訂正するどころかご高説頂戴しましたとばかりに「うん、うん」と頷いている始末。
誤解やいい加減な知識を正すどころか、そのまま垂れ流しているのです。

正しい報道がなされないために、国民の寸断も起きています。
アビガンについては「上級国民だけが投与されている」などというデマが拡散されました。
レムデシビルだけが特例承認されることについても、利権や外交圧力、官僚の保身を疑う人ばかりです。

番組の中で青木理氏はPCR検査が拡大されないことについて「政権は無能!」と吐き捨てていましたが、流石にこれは言い過ぎ。
日本感染症学会と日本感染環境学会の2学会が揃って軽症者へのPCR検査は行うべきでないとしています。
どういうことか、ちょっと僕なりの説明を試みます。

非感染者を陰性と判定する「特異度」というものがあります。
新型コロナのPCR検査は感染者を陽性と判断する「感度」が7割程度、とはよく言われますが、特異度についてはハッキリしません。
これを仮に99%として、実際の感染者が多い場合と少ない場合を比べてみましょう。
ここではわかりやすさのために日本の人口を1億人と設定します。
まず、1億人の1割が感染していたら、感染者1千万人の7割、700万人が陽性判定。
そして、感染していない9千万人の1%、90万人が偽陽性となります。
では、1億人の0.1%が感染していたら。
(日本ではこれまで約1万5千人が感染確認されていますが、実際に感染している人を多く見積もって10万人いるとしました)
この場合は、感染している10万人の7割で7万人が陽性判定。
感染していない9千9百90万人の1%、99万9千人が偽陽性となります。
並べて見ると、感染者がとんでもなく増えている場合、陽性:偽陽性の数は700万:90万ですが、感染者が少ない場合は7万:99万9千と、陽性者に対して偽陽性者の比率が膨れ上がるんです。

海外のように感染者が激増している場合は有効であっても、日本のように感染者がさほどでもない場合は、実際の感染者の数倍の労力と資源を非感染者に奪われることになってしまうので、大きなデメリットが生じます。
「PCR検査拡大が医療崩壊につながる」とはこのことです。
実際の特異度が99%より下がるにつれ、また実際の感染者数が少ないほど、この数は倍々で増えることになります。
厚労省はPCR検査を拡大していくと発表しましたが、何でもかんでもではなく「感染者が拡大傾向にある地域は」となっているのはこのような根拠によると思われます。
これを「無能!」と言い切っていいものでしょうか。
ここまで知った上で、日本の現状でもPCR検査を拡大すべしと言うのであれば、その理由を添えるべきでしょう。
知らなければ何の資格があってテレビに出ているのかその動機を疑います。
これではSNSのアベガーと何一つ変わりません。
国が何も考えていない、無策であるという印象を視聴者に与え、ただただ不信を植え付けるだけの発言になっているように自分には感じられます。

「報道の自由」が認められているからといって、何を言ってもいいわけではないでしょう。
地上波テレビは免許事業です。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
放送法第四条はテレビ局の義務を上のように定めていますが、どれ一つとして守られているでしょうか。

日本の報道機関が伝えないことを、僕が代わりに伝えてみました。

2020年5月3日
by kossii
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「公表」ではなく「お墨付き」を

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緊急事態宣言が1ヶ月延長されるとのこと。
さすがに、「まんま」延長するのは無理がありすぎるような。
外食とか観光などがもう持たないでしょう。
それに、たとえあと1ヶ月がんばって耐えて1ヶ月後に宣言解除となったとしても、元通りの売上が戻るのかと言えばそんなわけないでしょう。
海外の観光客はシャットアウトし続けないとあっという間にまた感染が蔓延します。
感染リスクがゼロではない中、外食や観光、ショッピングは以前より避けられるようになるでしょうし。
経済環境も生活者インサイトも、すぐには元に戻らないという想定に立たないといけません。

外食や観光は売上が昨対比で1割ほどに落ち込んでいると言われますが、これが解除後即座に10割戻るわけはない。
よくて5割程度ではないでしょうか。
もともと厳しい業界で、10割でもやっていけるかどうかだったではないですか。
1ヶ月宣言が続くとしたら1ヶ月耐えればいいということではなくて、10割に戻りきるまでの数ヶ月を耐えることになるのです。
だから、1ヶ月後どうするかではなくて、今このタイミングにもどうするか考えるべき。

そして今やるべきことは延長か解除かというオンオフではなく、いわばその中間だと思うのです。
つまり、徐々に解除していく。
営業するかしないかではなく、「どう営業するか」を探っていくってことです。

で、僕が思うのは、国、あるいは自治体が「コロナFREE」シールを作ったらどうかと。
たとえば飲食店なら、衛生管理は徹底しているかとか、座席の配置は向かい合わせになっていないかとか。
僕のマネージャーは必要以上に大声を出すし、ちょっと酔うと「ドエー」とか「ヅアー」とか無意味に奇声を発しますが、こういう客を出入り禁止にする措置を取っているかとか。
石原都政の時に風紀条例が改正され、深夜に隣席に座っての接客は禁止となりました。
それでいろんな店がカウンター式に模様替えしました。
飲食や風俗は社会要請変化への対応力はあるはずです。
そして、対応できていると認めた店にはお墨付きを与えてはということです。
飲食に限らず、観光なら観光、ショッピングならショッピング、それぞれに基準を定めます。
生活者視点で言うと、これには宣言解除後、元通りの生活行動に徐々に戻していくための助走、あるいはリハビリの意味もあります。

もちろん、完全に休業してしまった方が感染リスクは低くなるでしょう。
しかしその完全休業は永久には続けられません。
東京都で言えば、千数百万人の中で、感染者が1日に100人を上回ったとか下回ったとか言ってますが、自分には誤差の範囲にしか見えません。
数十人が1週間続いたからといって、もう大丈夫ってことはないですよね。
いつ宣言解除しようと、ビクビクしながらになります。
感染拡大させないための行動習慣は続けることになります。
だからこれはいずれやらなきゃいけないこと。
どうせやるなら、早めに始める方がメリットが大きいのではないかということです。

また、休業補償すればいいではないかという意見もあるでしょうけど、そんな簡単な話ではないと思いますよ。
外食が休業したら、その間、その店に食材を納品している業者はどうなるのか。
毎週花を納品している花屋はどうなるのか。
面的にも深さ的にもキリのない話になっていくので、補償だけで解決できるものではないです。
補償もある程度必要でしょうけど、業界にただボンヤリと休んでもらうではなくて、自助努力をしてもらう余地を作らないといけません。
その余地を作る、自助努力の目標が「コロナFREE」シールということになります。

「要請」は、ある意味、官が民へ丸投げしている状態です。
なので、守らない店が出て来るのも必然ですし、それに対して自粛警察が出て来るのも必然です。
「公表」は最悪の手段と僕は思っています。
守らない店は晒すから、後は民の間でやってくれ、ってことでリンチの後押しをしているわけなので。
作家の百田氏が「今は非常時だから仕方ない」と発言していましたが、彼が小説のモチーフにした特攻隊は「お国の非常時だから」で生まれたものではないですか。
歴史的な悪行は非常時を言い訳になされてきたわけで、非常時だからこそ正論を死守しなければならないはずです。
今、官は、悪い言葉で言えば、少なくとも営業自粛問題に関しては逃げている状態です。
介入しなければ官の存在意義はありません。
そして、官ができる最善の介入は公表ではなく「お墨付き」であると思うわけです。

2020年4月9日
by kossii
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マスコミを監視しよう

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戦前、「日本」という名の新聞紙がありました。
天皇を現人神とする国粋主義を唱える、極右に偏った新聞です。
発刊された頃はまだ大正デモクラシーの気運が溢れ、議会民主政治の絶頂期であり、国民の多くから無視されるマイナー紙でした。
ところが、ある事件をきっかけに「日本」はメジャー紙に躍り出ます。

当時は世界的な軍縮ムードで、濱口内閣はロンドン海軍軍縮条約に批准したのですが、これに「日本」が「憲法違反だ」と噛みついたのです。
明治憲法が定めるところによれば、軍部に対しては天皇が統帥権を持つと。
軍縮は政府による天皇の統帥権干犯である、というわけです。
現代の感覚からすればとんでもない話ですが、野党がこれを政府への攻撃材料として使うんですね。
あろうことか、主要紙までこれに乗っかって同調します。
濱口総理は国民の人気も非常に高い名総理だったそうなのですが、この政治的混乱の中、テロに遭って殺されてしまいます。
軍部の独走を政府が抑えられなくなっていくのは、このあたりが始まりです。

この後、日本は昭和不況に突入し社会は騒然としていくのですが、いきなりメジャー紙となった「日本」はテロ行為を煽ります。
濱口総理を殺した犯人を救国の英雄と持ち上げます。
テロは、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続き、政府の要人が次々と殺されていきますが、その背後には「日本」のテロ礼賛による影響が少なくなかったと思われます。
そして「日本」は攻撃の矛先を東大美濃部教授に向けます。
美濃部教授は憲法学の権威で、「天皇機関説」を唱えていました。
天皇も国政の一機関であるという考え方で、それによって日本は一党独裁体制に陥らないですむ、というのが美濃部教授の主張。
これに対して「日本」は「美濃部は凶賊である」などと毎日毎日口汚く罵り続けます。
結果、教授もテロに遭い、一命は取り留めるものの引退を余儀なくされました。
この時点で日本の国粋主義による軍部独裁制は完成され、シナ事変へと突き進むこととなります。

現代の日本国民の多くには「大本営発表」のイメージが強く根付いていると思います。
政府・軍部による強権的なマスコミの統制です。
しかし、真実はそれとはかなり異なります。
マスコミが国民を煽り踊らせ、自分たちの意のままに政体をも変容せしめ、戦争へと導いていった、これが真実です。

19世紀末の米国に、ウィリアム・ランドルフ・ハーストという「新聞王」がいました。
このハーストは、フェイクニュースの開祖です。
当時、スペインは植民地の独立運動に手を焼きキューバでも過酷な弾圧をしていたのですが、ハーストの新聞はこれに目を付け、「米国人がスペイン官憲から辱めに遭っている」という記事を捏造します。
裸の米国人女性が身体を調べられているイラストを付けて。
それに米国民が憤慨。
ハーストはさらに捏造記事を乱発して煽り続け、「スペイン討つべし」の機運を醸成し、米西戦争へと駆り立てます。
ちなみにこの当時ハーストの競合新聞社を率いていたのがピューリッツァーでした。
彼はハーストに対抗するために自らもフェイクニュース路線を取るのですが、後に大いに恥じ入り、死ぬ間際に報道の正常化を願ってピューリッツァー賞を設立します。

そして今、コロナ禍中の日本。
マスコミは騒然とした社会の中で人々を煽る性質を持ちますが、やはり歪曲記事や捏造記事が溢れています。
ほんのこの2,3日の報道を見るだけでもいくつもあります。
たとえば4月6日には産経新聞が、
『政府、首都圏で鉄道減便要請を検討 緊急事態宣言後、新幹線も 最大5割、終電繰り上げも』
という記事を掲載し「そんなことをして電車が混雑したらどうする」と国民の怒りに火を注いでいましたが、自民党によればこれは検討の俎上にも上がっていないということで、捏造記事であることが明らかに。
4月7日に緊急事態宣言が発出された日の夜、日刊スポーツが
『「東京脱出」が増加…バスタ新宿は利用客であふれる』
という記事を掲載。
ところがこれは全くの嘘であるとして、人っ子1人いないバスタ新宿の写真がSNSで拡散されました。
この記事が出る日の朝、7時には早くも朝日新聞デジタルが、
『「東京脱出」SNS拡散中 新たなクラスター生むおそれ』
という記事を掲載しています。
しかし有志が調べたところ、Yahoo!リアルタイム検索で「東京脱出」というワードは7時の時点では「0」。
7時半になってようやく「1」。
トレンド入りするのはこのずっと後でした。
じつはこの記事が出る2時間前の5時に、朝日新聞デジタルは、
『#東京脱出、専門家「やめて」 帰省で家族に感染、新たなクラスターも 新型コロナ』
という、ハッシュタグ付きの東京脱出記事を掲載しています。
つまり、新聞社が「東京脱出」を自ら拡散させていた疑いが限りなく濃いということです。

1世帯30万円の現金給付をマスコミは非難していますね。
「海外と比べて遅い、ケチだ、対象を絞りすぎだ」
と。
これは何重にも嘘です。
国民への直接現金給付を行う予定の国は、欧米諸国の中で日本以外には米国だけ。
これも共和党と民主党の折り合いがなかなか付かず、当初想定していた全国民給付ではなくなり、低所得層向けとなりました。
また、手続きも煩雑で9月までずれ込む人も出るなど、日本より遅いんです。
「ドイツではあっという間にお金が振り込まれた」
という報道はありますが、これは事業主向けの経営支援であって、生活補償の現金給付と並べていいものではありません。
またこの経営支援も、一部でしか行われていないのが実態であると現地の人が報告しています。
日本の経済支援策は完全なものではないでしょうが、少なくとも海外に比べて「遅い、ケチ、対象を絞りすぎ」ではないと言えます。
新型コロナによる死者数も欧米各国の数十分の一と、この先の予断は許さないものの、現状で日本の新型コロナ対策は最も成功しており、海外に比して劣後していることの根拠はありません。
それを知って報道するのなら印象操作の意図があることになりますし、知らないのなら報道機関として失格でしょう。

こういったもの以外にもコロナ禍中のマスコミによる歪曲報道・捏造報道はゴマンとありますが、これを加速させたきっかけは「トランプ発言」だったように感じます。
「日本はオリンピックを1年延長するべきだ」
というものです。
これ、トランプさんが発言した原文を読んでみると、「They may」と言ってるんです。
つまり、彼ら(=日本)はオリンピックを1年延期するかもしれないよ、と言ったのを、トランプさんが日本に意見したかのように歪曲させたんです。
おそらくこの時点で日本政府は水面下でIOCと協議し、1年延期の方向で根回ししていたんだと思います。
トランプさんはそれを知って、そうなるんじゃないの、と匂わせたんでしょう。
ところが、歪曲報道で見事に国民は「政府は何をやってるんだ」と憤慨したもので、マスコミは味を占めたんじゃないでしょうか。
これ以降、報道は歪曲・捏造合戦の呈を見せます。

もちろん、政府もいろんな失策を犯しています。
国と自治体で休業要請の折り合いが付かない、などは、宣言する前にきちんとやっといてくれよと思います。
こういった国民を混乱させることは批判されてしかるべきでしょうが、是は是、否は否、ではなく、是は否、否は否、という態度では国民は間違った方向に誘導されてしまいます。
先述したように、それは歴史が語っています。

では、最大の疑問。
そもそも、報道とは事実を偏りなく伝える技術を指すものと僕は認識しています。
どのような事実も素で伝えるとどこかバイアスがかかってしまうもので、むしろ、それを公正に伝えるための努力で是非の判断を読者に委ねるのが報道のあるべき姿では。
「報道の自由」が認められる国には、必ず「報道倫理」があります。
その要素には「正確性」「公平性」が含まれており、歪曲や捏造が許されないのはもちろん、事実に主観的な意見をくっつけるだけでも倫理違反なのです。
いったい何のために、彼らは報道倫理を自ら破り、社会を混乱させるような真似をしたがるのか?

まず考えられるのは、社会が混乱すればするほど報道が「見られる」「売れる」という、浅薄な計算でしょう。
コロナ終息のために批判するのではなく、コロナ拡大を利用しているわけですが、報道者として許される姿勢であるという大きな勘違いが入っていると思われます。
あるいは国民の政権への不信感が拡がる中で、「味方づら」をするために事実を歪曲してしまったり捏造してしまったり。
政権への意趣返しといういやらしい思惑もあるかもしれません。
でも彼らを動かす最大のものは、ハーストの時代から連綿と続く、国民を煽動し焚きつけることで己に恍惚となる「卑しい血」であるように自分には感じられます。
「トム・ソーヤーの冒険」の作者、マーク・トウェインはこんな言葉を残してます。
Advertisements contain the only truths to be relied on in a newspaper.(新聞の中で、信頼できる事実が書かれているのは広告だけ)

もし報道を見て「何だと!政府許せん!」と感じたら、脊髄反射でそれをシェアしたり政府を罵倒する前に、ちょっと時間を取るべきです。
その記事に理屈に合わない歪んだ部分はないだろうか?また、元ネタがあるのなら、それを正しく伝えているか?チェックすべきでしょう。
根も葉もないものは調べようがありませんが、政治家も官僚も馬鹿ではないわけで、「そんな馬鹿なことをするわけがない」と思ったら誤報、あるいは捏造の可能性を疑うべきです。

報道は権力の監視役である、と言われます。
そのイメージが強いゆえに、我々は報道が真実を伝えるものと信じ込んでいます。
少なくとも現在、報道は監視役ではなく讒言者に堕ちています。
もちろん報道機関の全てがそうであるわけではありません。
だからこそ、残念なことではありますが、ピューリッツァーがハーストに駆逐されたような、悪貨が良貨を駆逐する事態を招かないようにも、我々1人1人が自ら監視するしかないと思うのです。

2020年4月7日
by kossii
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ベスト給付案を考えてみた

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ふと思いました。
マネージャーの給料を半額にしたら、給付金の30万円は出ないのか…?
と。

うちの売上はほぼクライアントとの契約金なので、有り難いことにコロナ禍によるダメージはゼロです。
むしろ上がってるぐらい。
何だか申し訳ない気分になります。
そんなこともあって、マネージャーはスケジュール表がシミひとつない驚きの白さでもホヘーとしてます。
「朝昼料理作るの飽きました」
とかメールが来る。
謝れ!風俗嬢とキャバ嬢に謝れ!
てかんじです。
でももしうちの売上が成果物ベースで、ことごとく仕事が立ち消えていたら?
身震いします。
まずはホヘーとしてるマネージャーに、
「もう君の給料は払えん!給付金で何とかせい!」
と言うかも。
まあ、そもそもがけっこうな高給取りだし世帯主でもないし、もらえないでしょうけど。

それでも考えてみるとこの「一世帯30万円」制度、抜け穴は大きそう。
もし僕が反社会勢力だったら一儲けするだろうな。
借金で首が回らない人を100人ぐらい集めて、書類揃えて提出させて、給付金をピンハネするぐらいはすぐできる気が。
この制度、他にもいろいろ問題ありますよね。
本当に生活費で困っている人だけに届けられるのか?
手続きに時間がかかりすぎないか?
金額はじゅうぶんなのか?
完璧には程遠いやり方ではあるなあ…と。

じゃあ、他にもっといいやり方はないか、ちょっと考えてみました。
業種を絞る?
経営者から渡す仕組みにする?
所得が変動する可能性のある人にだけ給付する?
どれもイマイチうまくいかない。
あっちを立てればこっちが立たず。
そうか、いろんなジレンマの中で、最適バランスが「一世帯30万円」なのだなと、いったん納得しました。

しかし、クリエイティブ職を長年やって来たことによる直感が、ここで諦めることを許しません。
どこかに、まだ誰も思いついていない、もっとうまいやり方があるような気がするんです。
それで、あっ、このやり方ならどうだ?…と。

もし僕が総理なら、給付はこのようにします。

給付は、しない。
貸付オンリー。
利息は多少取る。
返済期限も決める。1年後とか。
金額の上限は100万円。
「個人向け緊急小口資金等の特例」などは廃止してこっちに一本化。
民間金融機関の貸付は生活者ではなく事業主対象とする。

政府は「必要な人にしっかり届けたい」を繰り返しますが、いろいろ考えていくと、最も厄介なのは「必要な人(=コロナ禍によって食うや食わずの状態に置かれた人)」をどう選別するかです。
大勢の中から「この人」と見極めるのはかなりの困難が予想されます。
だから逆に、彼らから手を挙げてもらうようにする。
もし貸付オンリーにすれば、お金に余裕のある人は利用する理由がありません。
逆に、本当に明日の生活費に困っている人は1年後に返済するとしても利用するはず。
これで、まず「必要な人」選別はおおまかにできそう。

もちろん、これだけでは本当の救済にはなりません。
いずれ返済しないといけないのだから。
そこで、1年後、「徳政令」を出します。

つまり、現金給付ではなく、
「貸し付けといて後からチャラにする」
これがベストのやり方ではないかと。
もちろん前もって明かすことはできないわけですが。

これによって、
・「必要な人」を浮かび上がらせることができる
・面倒な手続きなく、すぐにお金を渡すことができる
・必要な金額を渡すことができる
・不正チェックを念入りにできる
全ての要件が満たされるわけです。
不正はゼロにはならないでしょう。
「踏み倒し」前提で借りる人、借りさせる反社も存在するはず。
でも、不正チェックはコロナ禍が終息した後、時間をかけてできる。
現金給付は給付するタイミングでチェックしなければいけないから、どうしても粗々になる。
この差は大きいはず。
もし不正が見つかったら当然返済義務は残し、詐欺罪などの刑事罰に問う。

必要なのは、総理の胆力。
それはもう非難の嵐でしょう。
「外国は給付なのになんで日本は貸付なんだ」
「ドケチ」
「無能」
「日本人でいることが恥ずかしい」
「今すぐやめろ」
etc.
いやでもね、何をやったって上のようなことは言われるわけです。
正しいことをやったとしても、ここが政権への意趣返しの絶好機とばかりに、反日マスコミは歪曲報道をし続けます。
自民党議員が言うには「鉄道減便要請」など検討にも上ってないそうですが、そういった根も葉もないことも平気で報道されます。
だから、非難の嵐は気にしない。

問題は官僚です。
僕は官僚との付き合いがいろいろあるのでわかるのですが、彼らはとても真面目で頭がいい。
惜しむらくは、前例主義に過ぎます。
もしこんなアイデアが出たとしても、「前例がない」で一蹴されるでしょう。
なにせ国民を騙すことになるのだから。
しかし思うに、コロナ禍は前例のない災厄。
これに前例主義で立ち向かうところに、いろんな歪み、無理が生じているのだと思います。
そのなんとなくのチグハグさが、国民の不信の元となっているのでは。
このコロナ禍で僕に見えてきたのは、前例主義の限界です。
前例のない柔軟なアイデアを生み出し、カタチにしていくことのできる体制作りが求められているように思う次第です。