コピーの価値

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「MAXIS」という会社が、100本1万円でコピーライティングをするサービスを始めるらしい(http://news.mynavi.jp/news/2012/03/27/113/index.html )。「キャッチコピーは1本100円の時代に」が宣伝文句で、反発しているコピーライターも多いようだ。Twitter上で「新世代コミュニケーションプランニング」の著者でもある高広さん(@mediologic)からこれについて意見が聞きたいと振られたので、自分の思うところを少し以下に述べてみたい。
ずいぶん前から感じていたことなのだけど、言葉の値段はどんどん下落する一方だ。ネット社会が成熟し、ブログやSNSで一般人が言葉を発し始めたころから言葉の流通量は爆発的に増えた。モノの値段というものは基本的に需要と供給によって決まるわけだから、必然的に言葉は安くなっていく。エディトリアルの世界ではライターはもうやっていけない、という話をよく聞くし、職業作詞家もほとんど絶滅状態だ。秋元康はおニャン子やAKB48などコンテンツありきで作詞をくっつける、というやり方を発明して生き残っている。コピーライターのコピー料もどんどん下がっている。つまり言葉業界は構造不況なのだ。「百円キャッチコピー」はそんな状況を象徴するサービスのように自分には感じられた。
では今後コピーライターは廉価多売に甘んじて、言葉大量生産マシンにならないと生きていけないのだろうか。そうではないと思う。コピーには百円以上の価値がある。というか、コピーをたくさん書きますよ、安く書きますよ、という発想自体に問題がある。残念ながら、コピーの価値についてわかっている人は広告業界の中にも少ない。そこがいい加減だから、百円コピーなどというサービスが出て来るとおたおたしてしまうのだと感じている。
まず僕のような職業コピーライターがどうやって稼いでいるかを解説してみたい。僕はコピー一行納品して、だいたい数十万円、場合によっては数百万円いただいている。百円コピーを書くライターの千倍以上の報酬を得ているわけだが、インスタント麺とフカヒレ麺よりも激しいこの値段差にはどういう根拠があるのか。
ひとことで表現すると、僕が書くコピーとはいわば「作戦が濃縮された言葉」だ。最近の例を一つ挙げる。東海地方に「izumoden」という大手結婚式場チェーンがあるが、昨年の秋からサービス内容も含めた全体を刷新することになり、新ロゴ、新CM、新ブランドスローガンなどを僕の会社でお引き受けした。採用されたスローガンは、「結婚っていいものですよ。」だ。これを見た人からは、なんでこれがブランドスローガンなのかわからない、と言われることがある。しかしターゲット層を対象とした好感度調査をするとかなり高いポイントが出てくる。なぜか。izumodenのターゲット層は結婚を間近に控えた人たちだ。マリッジブルーという言葉があるが、彼らはただハッピーなばかりでもない。結婚という人生の大きな選択に対して不安いっぱい。そんな彼らに対してどういう言葉をかけてあげると一番うれしいだろうか、と考えて導き出したわけだ。結婚前じゃない人たちに響かなくても、全く構わない。広告はターゲットにだけ伝わればよい。また、ブランドリニューアルにおいて非常に重要なのは、従業員が気持ちを一つにして進むべき同じ方向を見、その方向に自信を持つことだ。izumodenはグループとして葬祭も行っている。人生の冠婚葬祭全てを引き受けますよというスタンスが、ホテルやハウスウェディングなどとの大きな違いだ。ならば、人生全体の中での結婚、という俯瞰した視点を持ち、独自の魅力的なサービスにつなげていく。そこを自分たちのアイデンティティにしようよと。そういう志をコピーの中に含めている。アイデンティティがしっかり確保できれば、じゃあ新しいサービスや施策はこうあるべき、という、あらゆることが生まれてくる礎ができる。そこに大きな価値があるわけだ。他に最近書いたコピーではReebokの「反則?」などもあるが、これはキャッチーさを追い求めただけでなく、今後のブランドの進むべき方法としてナイキやアディダスなどとはっきりポジションを変えていこうという大きな狙いを含んでいる。コピーが「作戦が濃縮された言葉」であると言った意味が少しわかっていただけただろうか。
こういったコピーを書くには時間が必要だ。エージェンシーの営業さんの中にはまるで自動販売機のボタンを押せばコピーがごろんと出てくるかのように思っている人もいるが、そういうわけにはいかない。まずクライアントの意識や状況をしっかり把握して、感覚的に言えば脳ではなく身体の中にいったん収める。課題を自分の肉体化する。そして、考えてみたり、忘れたり、ということを何週間かやると、潜在意識下でいろんなアイデアがどろどろと煮えたぎる。そしてあるタイミングで、その中から「これ」というものが飛び出してくる。いいアイデアを生み出すには潜在意識下のカオスを醸成することが必要なのだ。
「作戦が濃縮された言葉」としてのコピーは全ての指針、土台となるわけだから、クライアントは高い値段をつけてくれる。しかしほとんどのコピーライターがコピーをそういうものとして捉えておらず、書き方も知らない。30年ぐらい前に糸井さんが週刊文春で「萬流コピー塾」というページを連載していた。これはまあ広告コピー「的」な言葉をいろんなものにくっつけてみようよというお遊びだ。たとえば「現代」というお題に「戦争や平和。」とか、「草履」というお題に「我が家に代々伝わる短足を乗せてみた。」とか。物事をいろんな角度から見る訓練としてはおもしろい。でも当然ながらそこに販売戦略やブランド戦略などはない。とても広告コピーの体をなしてはいないわけだが、驚くべきことに巷のコピー学校ではいまだにこれと同じことをやっている。何かお題を出して、生徒にコピーを考えさせ、おもしろいとかおもしろくないとか。そういうところで学び「広告コピーってこういうものなんだ」と思い込んだコピーライター志願者は、実務で使い物にならないことが多い。ターゲット視点について説明しても理解できない。自分視点でちょろっと面白おかしな言い回しを考えるまではできても、いったい誰がどうしてその言葉に数十万円を支払うのか、というところの想像までできないのだ。家族が「おいしいね」と言って食べてくれたからといって、そのラーメンで商売を始めようと思う人は少ないだろう。ビジネス感覚が異常なことになっているわけだ。
コピーと言えばキャッチコピーだ、という一般的な認識にも問題がある。TVCMであれグラフィック広告であれ、広告の基本構造は「キャッチ+結論」だ。CMなら気になるビジュアルやストーリーがまずあって、グラフィックならキャッチコピーやキャッチビジュアルがあって、最後に結論として「この商品を買うとあなたにとってこんなにいいことがあるよ」といった内容のコピーが来る。どちらが重要かというと、結論コピーの方が圧倒的に重要だ。ここがその商品の広告戦略の土台となり、ターゲットの心理変容、態度変容を生み出す。キャッチは文字通り興味をキャッチするためのものであって、言葉でなくたって構わない。キャッチがキャッチとして力を失わないためには、常に変えて行かざるを得ないという矛盾がある。結論コピーはコミュニケーション戦略が変わらない限り何年も変わらない。「名作コピー」といってキャッチコピーを集めた書籍などもあるが、広告クリエイティブ業界のキャッチ礼賛主義は間違っているし、キャッチの書き方しか知らないコピーライターは広告の仕事を知らないと言っても過言じゃないと思う。
百円キャッチコピーがビジネスモデルとしてうまくいくかどうかはわからない。たぶん難しいんじゃないかと思う。これが役に立つのはクライアントにしっかりとした作戦が確立されていて、他の言い回しがほしいとか、そんな場合に限られると思う。でもそれなら社内や知人からアイデアを募集してもさほど結果は変わらないだろう。コピーライターが発想を広げたり思いがけないキーワードを見つけたりするためのアシストとしてなら使えるかもしれない。
僕が嫌だなあと思うのは、こういったサービスが登場することでコピーの価値についての誤認識がますます広まること。「なんであなたのコピーはそんな値段なの?」と聞かれてコピーとは、をゼロから説明するのはかなり煩わしい。