宮崎駿と人工知能

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NHKスペシャルで宮崎駿さんが人工知能の作り出すCGアニメに怒ってました。
その怒りっぷりが話題になってます。
僕が番組を観て感じたのは、宮崎駿さんもドワンゴの川上量生さんも、人工知能というものの捉え方を間違えられてるんじゃないかな、ということでした。

人工知能は間違いなく僕たちの未来を変えていくでしょう。
そこに希望を見出す人もいれば、不安を感じる人もいるでしょう。
多くの人たちはこう思っているはずです。
「人工知能は人間に取って代わるもの」
だと。
その象徴が、宮崎さんの人工知能アニメへの怒りだったように僕には見えました。
アニメとは生命を吹き込む実に人間的な作業であり、人間への敬意や愛がなければできるものではない、こんなものに取って代わることができるものか、もしそうなれば非人間時代の始まりだ、彼のそんな気持ちが「世界の終わりだ」という一言に込められていたように感じました。

で、僕はその様子を見て、改めて人工知能というものの存在価値について世の中に大きな誤解があることを再確認した気がしました。
人工知能について僕の捉え方はちょっと違います。
それは、
「人間に代わって、非人間的な作業を代行するもの」
です。

わかりやすい例が、自動運転。
自動運転が普及すると、どういうベネフィットがあるのか。
まず、安全、ということがありますね。
高齢者の起こす事故が社会問題化していることもあって、自動運転への期待は膨らみます。
では、自動運転はドライバーを一掃してしまうのか。
「否」でしょう。
車の運転には、人間的なものと、非人間的なものがあります。
オープンのスポーツカーで風を感じながら疾走する、そういう運転は人間的な作業と言えます。
でも、単にA地点からB地点まで移動するだけの作業なら、非人間的と言えるでしょう。
そういう作業を代行するのが人工知能だと思うんです。

そういった考え方で先頭を走っているのがGoogleです。
彼らはなぜ自動運転を研究・実験しているのか。
それは、運転に対して非人間的な作業と感じる人がいたら、人工知能が代行するので、その時間を人間的な作業に使ってくれ、ということと思うんですね。
彼らの理念はGoogle Glassの開発精神からよく見て取れます。
それは、情報を取得したり、送ったり、あらゆる煩雑な作業を極力省いて、その分、それまで気づかなかった街の美しさに気づくとか、見過ごしてきたふとしたものを発見するとか、そんな人間的な作業に意識を向けよう、というものでした(残念ながら様々な理由から普及には至りませんでしたが)。
宮崎さんは「若いアニメーターはアニメの空じゃなく本物の空を見ろ」とおっしゃったそうですが、この世界や人への畏敬から全てが始まるのだ、という思想においてどこか共通するものを感じます。

電通で過労死事件がありました。
僕には「過労死」という言葉に違和感があります。
若い頃、自分は二徹、三徹などやってましたが、そこに充足感、成長感があったから、人間的な作業だったから、たとえ過労を感じていても進んでやっていたのだと思います。
現在のネット広告は、メディアへの出稿を「運用」し、日々出て来るデータを「分析」する、という作業を繰り返します。
分析したり解釈したりして次の打ち手を考えるのは人間的な作業と言えるでしょう。
でも1ダウンロードあたりの獲得コストを押さえるためのメディア配分、予算配分をひたすらやり続けるといった作業はどこか非人間的な感があります。
そこには成果がごまかしなく目に見えるという素晴らしい点もありますが、そのシステムはまだまだ労働集約的なもので支えられており、ヒューマンエラーも多発しているのが現状です。
あれはそういった作業に追い込まれた結果の悲劇だったのではないかと自分は見ているのです。

今後、広告業界にも人工知能が導入されると言われています。
そこで運用の巧みさの差がつかなくなるなどといった各論的問題はあるにせよ、業界全体的には良いことでしょう。
非人間的な作業を代行してくれたなら、広告業界人はその分、人間的な作業に没頭することができるわけですから。

ドワンゴの人工知能アニメも、アニメーターがより人間的な作業にのめり込むようサポートするものという位置づけだったら、宮崎さんは怒らなかったかもしれないなあ、と思いました。