「絆」でいいじゃないか

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今年の漢字が「絆」に決まったことで、ネットでいろんな人が不平を言っている。みんな東北のことなど忘れてるくせに絆など偽善だ、とか、「喪」がふさわしいとか「白紙」がふさわしいとか何とか。
そうだそうだという声が多い理由はわからないでもない。しかし、僕は個人的に、大いに不愉快だ。
震災後、いろんな業務がなくなったり延期になったりして、僕は暇になった。で、被災地のために何かをしなければいけないと思った僕が最初にしたことは、渋谷、五反田、新宿の薬局を一件ずつ回って、ひとつずつ紙おむつを買い集めることだった。被災地では生理用品、特に紙おむつが不足して衛生面で困っていると聞いたので、とにかくそれを集めて送ろうと思ったのだ。しかし、どこに行っても品切れ状態であまり集まらなかった。その次の日に妻を誘って出直すことにした。主婦の直感で、あそこならあるかもしれない、というのが役に立ち、二日目はかなり集まった。また、主婦の知恵で、買うならこういうタイプが役に立つはず、というのも参考になって、SUVのリアシートから荷台までパンパンにして、都庁にどっさり持ち込んだ。
疲れ切って、やれやれと休んでいると、妻が、明日もう一回行きたいという。長女の音楽の先生が茨城県潮来の出身なのだが、そこに支援物資を積んで車で送り届けてほしいと。潮来は地震の被害が酷く、液状化で数百軒の家が沈み、混乱状態であると。まだガソリンはどこにも売っていなかったが、距離を計算したらギリギリ往復できそうだ。正直、もう勘弁してくれと悲鳴を上げそうだったが、また都内を回って支援物資を積み込み、先生を送っていった。潮来はまだ道がガタガタしていたが、選べば何とか走行できた。あちこちで道路が陥没したり家や電信柱が不自然に傾いていた。それが被災地を見た最初だった。物資は市役所に届けようと思ったが、みんな出払っていて受け取る人がいない。先生の実家に預けることにしたが、とても喜んでもらえた。せめてもと言うことで、お返しに米をもらった。僕はその時「絆」を感じた。
東京に戻ってから僕が思ったのは、潮来であれなら福島や東北はどうなっているのだろう、と言うことだった。NPOが東北へ輸送する物資を募集していたので、僕はネットをつぶさに調べ、九州の倉庫にカロリーメイトが大量に在庫されているのを見つけ、すぐに押さえて送ってもらったりした。
そして、いわきに「ケータリング」に行こうと思った。僕らはCMなどのロケをする時、軽トラックの調理車で食事を作ってもらったりする。ケータリングと言う。それなりに凝っていて、なかなかうまい。被災地では自衛隊がカレーや豚汁の炊き出しをしているのは知っていたが、避難所の人たちはうまいものは食っていないだろうと思った。当時、いわきは原発を恐れてトラックが入ってこないと言われていたので、そこに行こうと思った。マネージャーを通じてケータリングの業者といわきの市会議員に連絡を取って、行けないか交渉させた。
ケータリング業者の1社がそのアイデアに乗り、最初は自分たちの費用で行きたいと言い出したので、まずはそれに着いていって、手伝いながら現状視察をしようと思った。現地の惨状を見、現地の人たちや避難所の子供たちの話を聞くと、何が必要なのかがわかって来た。彼らが食べたいものは、凝った洋食ではなく「和食」であること、物資は足りているが本や漫画などの娯楽に飢えていること、などなど。そういったことを把握して、万全の体制でもう一度ケータリングに行こうと計画した。
その話をツイッターでしていたら、小学館の編集者から自分たちの絵本や漫画の需要はないだろうかと問い合わせがあった。もしあるのなら届けてくれないかと。届けると言うよりも、いっしょに行きましょうと誘うと、段ボール10箱以上を持ってやって来た。全ての箱に一冊ずつドラえもんとポケモンが入っていた。僕は予想外の大荷物に自分の車を出すことにして、ケータリングを社員たちにまかせ、現地のボランティアの兄ちゃんの案内で、編集者たちといっしょにいわきの避難所を10カ所ほど回って本を届けた。「ドラえもんあるよ-」と言うと子供たちがワーッと集まってくる。編集者たちも思いがけない経験に喜んでいた。 彼女たちはその後も、活動を東北まで広げている。
これを「絆」と呼ぶのはヘンテコなことなのだろうか。
僕は毎年、児童養護施設に援助をしている。今年は資格を取るために短大に行きたい、という孤児の学資を出している。その子は孤児のケアをする仕事に就きたいらしい。そのためには短大で心理学を学ぶ必要があるのだ。名前は知らないし、向こうにも僕の名前は教えていない。この震災で両親を失った子供は240人いるらしい。僕はあと20年は働くつもりでいる。その子たちも含め、引退するまでにあと10人の孤児の学資を面倒見るつもりだ。それ以外の子たちは誰かにおまかせしたい。
何かになりたい、何かをやりたい、そういう気概がありながら、不幸な環境で実現できない子供たちがいる。それを放置しておくのは、世の中のためにならない。そういう子たちに活躍の機会を与えれば、その子が、あるいはその子の影響を受けた誰かが、世の中のためになることをしてくれるかもしれない。それが「援助」だと僕は思っている。それを「絆」と言っては僭越だろうか。情けないが自分の子供たちは世の中をなめていて、受験をやると言いながらゲームばかりしている。我が子とは言え、やる気のない人間を援助するぐらいなら僕はその金を孤児の学資に当てる。
以上は、被災地のために少し援助した、ほんの一人の僕の話だ。今年は僕以上に、被災地に貢献した人がたくさんいた。なけなしのお金を寄付した人もいただろうし、とにかく現地で働いた人もいたし、震災後すぐに物資をトラックで運び込んだ人もいた。死ぬ思いで働いた自衛隊、警察、消防、役所の人たちもいる。僕のすぐ周囲でも、自分の仕事も顧みず、大勢の人を引き連れて、滅私の精神で働いた人たちもいる。今年は確かに原発問題を中心に、日本の膿が出てきた年だった。悪人らしき人たちもいた。でもみんながんばったじゃないか、よくやったじゃん、と僕は言いたい。彼らに、日本に絆なんてないよねと、どういう根性で言えるのか。
今年の日本は「喪」だよね「白紙」だよねと言うヤツらは、もしかして自分たちが「喪」であり「白紙」なんじゃないのか。