2016年11月16日
by kossii
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広告は課題設定が9割

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僕は無料広告学校というものを主宰しています。
月曜日の夜19~21時で十数名を相手に広告の基本的なストラテジーの考え方とクリエイティブについて教えてます。
今期は自宅の近所にある町会の集会所をお借りしてます。
その分、受講生たちに神輿のポスターを作らせたり、実際に参加させたりなど町会の手伝いをするということで。
これまでは講義が終わった後はケータリングで軽く飲んだり食べたりしていたのですが、集会所をあまり長く借りたり汚したりもできないので、今期からは2人ずつぐらいの少人数で、近所の料理屋で彼らの個人的な悩みを聞いたり質問に答えたりしています。

昨晩はあるコピーライター志望者から宣伝会議賞について聞かれました。
「防災意識を高めるコピー」というお題があったそうなのですが、何やらモヤモヤしたものがあったようで、それについてどう思うかと。
僕は、
「プロならそういうお題は出さない」
と答えました。
そのコピーから、いったい何が課題なのか読み取れない。
だから成功したかどうか評価する基準も生まれない。
と。

日本は定期的な震災に見舞われる国です。
その被害を最小限に留めるために、やらなければいけない課題は何なのか。
たとえば防災グッズ一式が一家に一つあるだけでずいぶんと違う、ということなら、防災グッズの普及率の低さが課題だ、ということになりますね。
ならば「防災グッズを普及させよう」というのがお題であるべきです。
そうすれば評価の基準もハッキリします。
極端な話、そのために「防災意識」というのは不要かもしれません。
防災グッズは普段の生活でこんな役に立つよ、といった価値観の作り方でもかまわないわけです。
いざという時にその家に防災グッズがあればよいのですから。

仮に、「成人病の怖さについて意識を高めよう」というキャンペーンがあったとします。
そのキャンペーンが功を奏して、成人病とは何と恐ろしいものかという意識が根付いたとしても、それだけでは誰の何の利益にもなりません。
人々が動いてナンボなんです。
そのためにまずやるべきことは、やはり課題探しです。
もし健康診断の受診率が低すぎる、という課題が見つかったとしたら、お題を「健康診断の受診率を高めよう」と言い換えるべきでしょう。
そこに向けて人々を動かすための手法はいろいろあるはずです。
インセンティブを与える、でもいいし、わざわざ行くのが面倒だと考える人が多いのなら、生活動線の中に置けないかという発想でもいい。
いまパチンコホールで健康診断を実施していたりします。
受診する人は無料で、実施する会社はホールからお金をもらいます。
パチンコホールは暇をもてあます高齢者が集う場所となりつつあるので、どうせ無料ならと、彼らは健診を受けるんですね。
それが集客にもつながるので、ホールも潤うという仕組みです。
そういうやり方でも結果オーライなら全然かまわないし、人々を動かすためには広告人にもそのぐらい柔軟な視点が必要な気がします。

僕はいろんな企業からコミュニケーションのご依頼を受けますが、課題のはっきりしないオリエンが多いです。
ふわっとしてるんですね。
少子高齢化の影響は散々言われていることですが、ここ数年の内需の落ち込みは肌感としてかなりキツいものがあります。
生活者の経済格差も激しく、僕らがターゲットとする層は財布の紐を締める一方。
政府の思惑を余所に売りの現場でデフレは進行し続けています。
なので企業も「どうしたらいいんだ」と焦るばかりで、その焦りやこうありたいという願望が戦略とごっちゃになったまま提示されるのです。
こちらからすれば、ふわっとした状態からご相談されてもいいんです。
課題探しからご一緒できれば。
ただ、ふわっとしたままコンペとかになると、何となくインパクトありそう、とか、何となくターゲットにウケそう、といった表層的なところで決まっていって、結局成果が出ない、ということが多いです。
広告はオリエンの良し悪しで9割決まるとも言われます。
それはすなわち、課題設定がしっかりなされているか、ということに他なりません。

冒頭の話に戻りますが、公募賞の多くは課題設定がふわっとしていて、審査の基準もふわっとしています。
そこで選ばれたものには当然課題解決力はないから、企業がそれを実際の広告に採用することは稀、ということになります。
僕は公募賞そのものについて否定的ではありません。
言葉はよくないかもしれませんが、お遊び、お祭り、として楽しめばよいのだと思います。
ただ、課題解決力なきクリエイティブが現場で通用するクリエイティブなのだ、と若い人たちが誤解しないようにしといてほしい、とは思います。

2016年11月15日
by kossii
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宮崎駿と人工知能

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NHKスペシャルで宮崎駿さんが人工知能の作り出すCGアニメに怒ってました。
その怒りっぷりが話題になってます。
僕が番組を観て感じたのは、宮崎駿さんもドワンゴの川上量生さんも、人工知能というものの捉え方を間違えられてるんじゃないかな、ということでした。

人工知能は間違いなく僕たちの未来を変えていくでしょう。
そこに希望を見出す人もいれば、不安を感じる人もいるでしょう。
多くの人たちはこう思っているはずです。
「人工知能は人間に取って代わるもの」
だと。
その象徴が、宮崎さんの人工知能アニメへの怒りだったように僕には見えました。
アニメとは生命を吹き込む実に人間的な作業であり、人間への敬意や愛がなければできるものではない、こんなものに取って代わることができるものか、もしそうなれば非人間時代の始まりだ、彼のそんな気持ちが「世界の終わりだ」という一言に込められていたように感じました。

で、僕はその様子を見て、改めて人工知能というものの存在価値について世の中に大きな誤解があることを再確認した気がしました。
人工知能について僕の捉え方はちょっと違います。
それは、
「人間に代わって、非人間的な作業を代行するもの」
です。

わかりやすい例が、自動運転。
自動運転が普及すると、どういうベネフィットがあるのか。
まず、安全、ということがありますね。
高齢者の起こす事故が社会問題化していることもあって、自動運転への期待は膨らみます。
では、自動運転はドライバーを一掃してしまうのか。
「否」でしょう。
車の運転には、人間的なものと、非人間的なものがあります。
オープンのスポーツカーで風を感じながら疾走する、そういう運転は人間的な作業と言えます。
でも、単にA地点からB地点まで移動するだけの作業なら、非人間的と言えるでしょう。
そういう作業を代行するのが人工知能だと思うんです。

そういった考え方で先頭を走っているのがGoogleです。
彼らはなぜ自動運転を研究・実験しているのか。
それは、運転に対して非人間的な作業と感じる人がいたら、人工知能が代行するので、その時間を人間的な作業に使ってくれ、ということと思うんですね。
彼らの理念はGoogle Glassの開発精神からよく見て取れます。
それは、情報を取得したり、送ったり、あらゆる煩雑な作業を極力省いて、その分、それまで気づかなかった街の美しさに気づくとか、見過ごしてきたふとしたものを発見するとか、そんな人間的な作業に意識を向けよう、というものでした(残念ながら様々な理由から普及には至りませんでしたが)。
宮崎さんは「若いアニメーターはアニメの空じゃなく本物の空を見ろ」とおっしゃったそうですが、この世界や人への畏敬から全てが始まるのだ、という思想においてどこか共通するものを感じます。

電通で過労死事件がありました。
僕には「過労死」という言葉に違和感があります。
若い頃、自分は二徹、三徹などやってましたが、そこに充足感、成長感があったから、人間的な作業だったから、たとえ過労を感じていても進んでやっていたのだと思います。
現在のネット広告は、メディアへの出稿を「運用」し、日々出て来るデータを「分析」する、という作業を繰り返します。
分析したり解釈したりして次の打ち手を考えるのは人間的な作業と言えるでしょう。
でも1ダウンロードあたりの獲得コストを押さえるためのメディア配分、予算配分をひたすらやり続けるといった作業はどこか非人間的な感があります。
そこには成果がごまかしなく目に見えるという素晴らしい点もありますが、そのシステムはまだまだ労働集約的なもので支えられており、ヒューマンエラーも多発しているのが現状です。
あれはそういった作業に追い込まれた結果の悲劇だったのではないかと自分は見ているのです。

今後、広告業界にも人工知能が導入されると言われています。
そこで運用の巧みさの差がつかなくなるなどといった各論的問題はあるにせよ、業界全体的には良いことでしょう。
非人間的な作業を代行してくれたなら、広告業界人はその分、人間的な作業に没頭することができるわけですから。

ドワンゴの人工知能アニメも、アニメーターがより人間的な作業にのめり込むようサポートするものという位置づけだったら、宮崎さんは怒らなかったかもしれないなあ、と思いました。

2016年11月11日
by kossii
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USAという実験は失敗したのか

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実はずっと以前からしっくり来ない、というか、何となくの違和感を抱いていました。
アメリカが「国」である、ということについてです。

僕が持っている「国」という感覚は、同じ血脈の、同じ歴史と同じ文化を有する人たちが、同じ地域に集まって、同じ未来へ進んでいく共同体、といったものです。
誤解なきよう言っておきますが、日本において少数民族は日本国民ではないなどと主張したいわけではありません。
「国」を形成するもの、国民の一体感を生み出すものは何なのか、ここらでちょっと考えてみたくなった、ということです。

こういった感覚はもしかすると日本人特有のものかもしれないなあ、と思ったりもします。
島国的?な発想なのかなあ、他民族や多文化が入り乱れるのが世界的には国として普通のことなのかなあ、と。
しかし、世界では今でも民族の独立紛争が絶えない。
それは経済の損得を超えてでも、という観があります。
やはり人間は本能に近い部分で、まず「血脈」を同じくする者同士でまとまりたい、という原初的な欲求があるんじゃないかと思います。
そこには進化心理学上の合理性もあります。

そう考えると、たとえば日本のような人々の集合体と、米国のような人々の集合体を、「国」という同列で見ていいんだろうか?
何となく僕には、米国って人類史における壮大な実験場のような感覚があるのです。
果たして、全く血脈も歴史も文化も異にする人たちが、一つになることができるのか、という。
それをまとめてきたのは「理念」だったと思います。
ハリウッドの映画やドラマでは「FREEDOM!」って一回は誰かが叫びますよね。
古代とか中世の話でも「FREEDOM!」。
そんな時代や世界にそんな概念あったのかよ、という考証はすっ飛びます。
「Vikings」というドラマはハラハラするぐらいキリスト教を貶めていたけど、「FREEDOM!」はやっぱり何度か言ってました。w
米国ではこういった理念こそが、それこそ宗教以上のアンタッチャブルな最高位に置かれているのでしょう。
それは、理前を叫び続けなければ米国という共同体が根底から揺らいでしまう、ということを知っているからではないでしょうか。
自由主義、民主主義の旗の下に皆一つになるんだ、という共通の強い意思の下に国民はまとまってきたのだと思います。
そして、様々な問題を孕みつつ乗り越えつつ、血脈に頼らず人々は理念で同じ方向へ進むことができるんだ、それを証明してみせる、という奮闘に対して世界は一目上の存在と見做してきた気がします。
強力な経済力、軍事力もあるでしょうが、米国に対する畏敬の根源はそこではないでしょうか。

また、米国は世界の実力者が集まる偉大な研究所、あるいはアリーナ、という面もあったでしょう。
ナチスの迫害から逃れたユダヤの学者が目指したのはアメリカでした。
その中のユダヤ系イタリア人が開発したのが原爆。
また、ナチスV2号の開発者も米国は受け容れます。
彼が飛ばしたのがアポロ。
どんな出自であっても歓迎、という器の大きさが国力の基にもなっていたわけで、米国民自身、そこに誇りと希望を感じていたはずです。
米国で成功する人には桁違いの報償が与えられ、それは「アメリカン・ドリーム」と呼ばれました。
あらゆる業界で秀でた人物は自分の実力を試すためにこぞって米国に渡ります。

しかし今回の大統領選で、僕らには「米国の何もわかっていなかった」という痛感がありました。
アメリカのプア・ホワイトと呼ばれる人たちはアメリカン・ドリームに疲れ果てていました。
自由競争はもう勘弁だと。
アメリカのドアというドアを全て閉めてくれと。
米国の知人がSNSで”States is not United”と嘆いていました。
トランプ氏の唱えているものは、これまで米国民を一つにまとめてきた理念の逆です。
国民の過半数が、保護主義への逆行を支持し、非グローバリズムを支持し、分裂を支持したわけです。
日経新聞のコラムにも書かれていましたが、これらはかつてケネディ大統領が訴え、国民を熱狂させたものの真反対です。

米国民は今後、どうやって一体化を守っていくのだろう?
どういう「国」になるのだろう。
そして、敬意を失った世界とどのようなパートナーシップを結んでいけるのだろう?
自分には想像がつきません。
USAという壮大な実験は失敗していくのでしょうか。

2016年10月10日
by kossii
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先ほどの投稿への補足

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先ほど、過労死事件について僕の思うところをこのブログに上げたところ、たちまちいろんな反響がありました。
何でそこまで知ってるんですか、とか・・・。
憶測で書いただけなんですが。
マス系のCDからこういう指摘されるとネット系の人間としては悲しい、あるいは、ネット広告はマスよりやりがいある部分もある、といったものも。
おそらくネット広告に従事されている方々からすると、僕の投稿を読んだ人が「ネット広告ブラック」というイメージを持ちすぎるのではと危惧されているのでしょう。

誤解なきように補足しますと、僕はもはやマス系のCDとは言い切れません。
仕事の大部分はネットに移行してます。
おそらく今年だけでWEBCMは10件近く、本数ですと数十タイプ作ると思います。
それはネット広告に今後の可能性を見ているからに他なりません。
また、僕はクリエイティブとメディアプランニングを切り離して考えることはしません。
ターゲットにどうアプローチするか、常に運用ありきでコンテンツを企画します。
なので、先ほどの投稿は第三者的に語っているのではなく、自分に関わる問題として憂えているわけです。

ネット広告はマス広告と違って、勝ち負けがハッキリと数字で現れます。
その言い訳無用のスパッとしたところが魅力でもあり、残酷なところでもあります。
僕は以前から、結果にこだわるCDでした。
CMが話題になるより、業界誌で褒められるより、売上げ向上などの初期目標を達成してはじめて達成感を得るタイプです。
なので、個人的にはどちらかと言えばネット広告の風土が肌に合うと言えます。

当然ながらハッキリと良いスコアを出せばクライアントからは喜んでもらえますし、そこで達成感を得る方はたくさんいるでしょう。
ネット系にもスタープレイヤーがたくさんいらっしゃいます。
ただ、今のネット広告を支えているのは黙々とエクセルに向かい続ける、労働集約型作業をする若い人たちであると思います。
彼らが報われる仕組みがないと、土台が揺らぐ気がするのです。
そして、なんだか最近揺らいで来てないか?と感じているのは、今回の悲しい事件が何らかそこにつながっているんじゃないか?と感じているのは、おそらく僕だけではないでしょう。
ネット広告が正常に進化していくためには、様々な歪みを取り除いていく必要があると思いますが、それは、誰の役割、ということではなくて、皆の役割、と認識すべきかと。
クライアントにも責任はあると思います。
運用に知らんぷりしてきたフロント営業さんにもあるでしょう。
コンテンツ担当の僕にもあるかもしれません。
そういう共通意識を皆で持てば、ネット広告はさらに有意義でやりがいのあるものになると思う次第です。

2016年10月10日
by kossii
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過労死事件について思うこと

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電通の過労死事件が大きな問題、話題を生んでいます。
いろんな方がこの件についてSNSやブログで怒りや私見を表しています。
が、僕はそのどれにも違和感を覚えます。
その話をしてみたいと思います。

初めて会う人に広告の仕事をしていると言うと、「じゃあ生活は不規則ですよね」と返されることが多いです。
その通り。
広告業はクライアントビジネスだから、クライアントの都合に合わせて作業しないといけません。
僕はクリエイティブをずっとやって来ましたが、プレゼン作業や編集で午前様になることは珍しくないです。
休日返上、GW返上、などしょっちゅうです。
おそらく過去30年、自分は盆休みというものを取ったことがありません。
休日出勤すれば代休を取ったり、朝までの作業になれば次の日は昼から出勤できたりという制度は広告代理店にありますが、ただ、それがきちんと機能しているかというと疑問はあります。
大手広告代理店の中に入ると「ちゃんと有休を取ろう」といったポスターがベタベタ貼ってますし、たとえば電通では19時ぐらいになると強制的に明かりが消えて真っ暗になります。
裏を返すとそれぐらい皆働いちゃうんですね。
常に締め切りに追われるので、自分のペースで仕事を終わらせるのが難しいんです。
顧客の都合に合わせて働く業種は他にもたくさんあるわけで、デパートだって土日に営業しているわけですが、広告人の生活は他業種と比べて比較的不規則とは言えるでしょう。

でもそんな仕事環境の中でも、僕はこれまで心を病む人を見たことがほとんどありません。
それはたぶん、キツい作業をしても、その後に何らかの達成感があるからでしょう。
プレゼンが終わったりCMを納品したりすれば、「やり切った」感があります。
ひと息つけるんです。
しかもプレゼンが好評だったり、CMがウケたり、売上げが伸びてクライアントに喜ばれたりすると、またがんばるかという気になれるものです。
スタッフ皆で打ち上げとかやって、ねぎらったりします。

では、今回の過労死が起きた要因は何か。
ここからは僕の推察に過ぎませんが、彼女はデジタルマーケティング・ビジネス局配属でした。
ネット広告の運用に携わっていたのではないかなと想像しています。
大企業の宣伝部でもわかってない方が多いのですが、広告の「出稿」と「運用」は全く異なるものです。
出稿は、TVや新聞、ネットなどに広告を出して終わりです。
運用は、出してからが始まり。
数字数字の世界で、リスキーで、終わりの見えない作業とも言えるでしょう。
たとえばCPA(一つの製品が購入されるための広告コスト)は低ければ低いほどいいわけですが、広告代理店がそれを保証させられるケースもあります。
もし到達しなければ、自腹を切る契約です。
誠実な代理店なら、できるかできないか見極めてから受注し、万一できなければ素直に損を引き受けますが、不誠実な代理店は数字を書き換えることもあるでしょう。
スマホアプリなどのIT系企業じゃない一般のクライアントはそれを見抜く知見のない場合が多いので、不誠実な代理店を力があると誤解したりします。
(ちなみに電通はネット広告の超過請求も問題になっていますが、僕は彼らが組織的にそういった不正をしたとは考えていません)
担当者は毎日毎日数字と向き合いレポートを作成し出稿メディアの選定や配分を提案し続けますが、まじめな人ほど苦しい、カオスの世界になりつつあるというのが自分の肌感です。

クライアントに対峙するフロント営業からすると、複雑で勉強が必要で、しかもリスクを抱えるようなネット運用はできれば関わりたくないものです。
でも広告の趨勢がそうである以上、代理店としてそこをやらないわけにはいかない。
なのでデジタル部門がその大変さとリスクを引き受けざるを得ず、しわ寄せがそこに集中する構造になっているわけです。
運用担当の中には、心を病んで働けなくなる人が多いと聞きます。
だから常に人手不足で、他の担当者にさらに負荷がかかる、ということになります。
そして、ここがポイントですが、その作業は誰にも褒められることがありません。
どれだけ日々がんばって良いスコアを出しても、クライアントからはもっともっとと要求されます。
僕らのようなクリエイティブは自分たちの仕事が褒められる仕組みがあります。
でも、運用にはそれがないのです。
まじめな人の苦しさを引き取る仕組みがないんです。

ネット広告、デジタル広告というと、一般の人はコンピュータが自動でいろいろやってくれるイメージを持っているかもしれません。
確かに今後はAI的なものが導入され、オートメーション化が進んでいくでしょう。
でも現状は非常に労働集約型なのです。
ヒューマンエラーもしょっちゅう起きる、常に気を張っていないといけない仕事なので、その分手数料はマス広告より高いですが、それでも労力に見合っているとは言い難い上、手数料の値下げ競争も起き始めるなど、業界全体としてやや限界に来てる感があります。
今回の不幸な事件について僕は本当のところを知りません。
原因はやはり長時間労働やハラスメントだったのかもしれません。
でも上記のような根深いものも根底に横たわっているような気がします。
単純に「電通の体質」みたいなことで批判するだけでは、真の問題を見失うことになるように思えるのです。

2016年9月18日
by kossii
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パラリンピックについて思うこと

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オリンピックとパラリンピックを区別しないでいっしょにすればいいじゃないか、という意見があります。
「あります」と他人ごとのような言い方しましたが、僕自身、率先してこのブログやSNSでそういう主張をしてました。

が、ここになって、オリンピックとパラリンピックは全く別のものなのでは、同一に見ることに無理があるんじゃ、と思い始めました。
ざっくり言うと、「国」を応援するか、「個人」を応援するか。
そういう点で違うものなのだ、とハッキリさせた方がいいのではということです。

パラリンピックは地上波でも放送されない。
なかなか盛り上がらない。
その理由としてオリンピックの閉会式が派手すぎて、世の人に「宴の終わり」感を植え付けていることが一つあると感じています。
だから、順番を逆にしてパラリンピックを先にやれば、オリンピックの露払い的な位置づけではあってもまだ注目される気がします。
そんなことを先日SNSに書き込みました。
でもそういうテクニカルな話でなく、本質的な部分でもパラリンピックには盛り上がらない理由があると思っています。
そこに踏み入る前に、なぜオリンピックが盛り上がるかを先に考えてみましょう。

人は誰かを応援します。
応援する相手は、自分の「代表」と感じられる人、あるいは人々です。
自分に最も近い代表は自分の子どもです。
子どもは自分の遺伝子を半分も受け継いでいるからです。
半分が自分ですから、自分の代表として世界で最も相応しいことになります。
人は、というか今存在している生物は自分の遺伝子を残そうという本能がありますから、自分の遺伝子の濃い者から優先的にその生存を応援します(全員がそうではありませんが)。
僕で言えば子どもたちが大学を出るまでメシを食わせ、スマホや玩具を買い与え、学資を出し、ということをやり、もしかしたら社会人になってから援助することもあるかもしれません。
独身だったら何千万円も自分のために使えたはずなのに。
理屈を超えた、本能のなせる技としか言えません。
もし孫、ひ孫ができたら遺伝子の薄さにつれて応援モチベーションも薄れていくでしょうが、赤の他人よりは強いんじゃないでしょうか。
そして、同じ民族も、薄くとも同じ遺伝子を共有してますから、他の民族より応援したくなります。
人にはそういう心理的機序が備わっているということです。

また、遺伝子によらず、後天的な要因で応援したくなる心理も人にはあります。
「人」を作るのは先天的要因だけでなく、後天的な育つ環境などもありますから。
僕が大阪に住んでいた子ども時代、周囲のほとんどは阪神ファンでした。
地元の同じ環境に住んでいる人たちだから、自分に近いものがあるわけで、これまた自分の「代表」と感じるわけですね。
阪神が勝つと自分が勝った気になるし、「ダメ虎」と言われると自分までダメの烙印を押された気になります。
カープを応援する人たちの中には地元民だけじゃなくカープ女子などもいますが、その動機はまた異なるものでしょうけど。

それを拡げていくと、「国」になります。
日本選手が勝てば自分が勝った気になるし、負ければ自分が負けた気になります。
だから、オリンピック始め、国際試合は盛り上がるわけです。
先天的な要因、後天的な要因が入り混ざってフィーバーするんですね。
スポーツ嫌いの人も国際試合となるとTVにかぶりついたりします(僕もその一人です)。

翻って、パラリンピックはどうか。
僕の仮説ですが、おそらく、同じ民族として、同じ国の中で暮らしている人であっても、健常者は障害者を自分の代表と感じない。
自分とつながらないんでしょう。
だから盛り上がらないのだと思います。

では、そこに感動はあるか。
あります。
泣きそうになります。
ただそれは、オリンピックの感動とちょっと違うものである気がします。
オリンピックも個人の頑張りについて泣ける、という部分はあるけど、そこはどの国の選手も同じはずなのにやはり日本選手が勝ったときにこみ上げてくるものがある。
でもパラリンピックは、純粋な個人の頑張りについて感激するんです。
もしかすると僕だけかもしれないけど、国とかすっ飛んじゃう。
普段は顕在化しない、自分の心の中に眠っていたものが叩き起こされる、その感動を喩えるならそんなかんじでしょうか。
いろんなしがらみを超えている意味で、よりピュアな感動である気もします。

すごく極論だけど、パラリンピックは国別対抗にしない方がいいんじゃないでしょうか。
個人戦に徹したらどうだろうと。
パラリンピックが国別対抗であることが、政治的利用につながる懸念もあります。
日本人にはパラリンピックに出場する障害者は、先天的な病気や事故によるものという感覚が一般的でしょうが、外国人選手の多くは戦傷兵です。
先日NHKの番組で見た記憶がありますが、ブッシュ元大統領を招いて「戦争に行って負傷してもスターになれるんだ」的行事をやったとか。
そもそもは平和の祭典なはずのものを戦意高揚に利用するってどうなんでしょう。
リオでは陸上でオリンピックより高いスコアが出たといったニュースが飛び込んできてますが、それはテクノロジーによるところが大きいですよね。
パラリンピックのテクノロジーが一般の障害者に有益なものとして降りてくるのは素晴らしいことと思います。
でもこれも妙な方向に行かないかやや心配です。
あらゆる視点から、オリンピックとパラリンピックの違い、パラリンピックはどのように再定義するのが正しいのか、そういったことを考えてもいいタイミングなのでは。

2016年7月13日
by kossii
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どうやれば民進党は勝てたか

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広告業界では、広告の扱いを受注するためにしばしばコンペ(競合プレゼン)が行われます。
各エージェンシーの提案を見て、最も優れた企画を出したところに仕事を発注しようということですね。
ただ、その「優れた」というのがくせ者で、いったいクライアントが何を基準に優劣を決めるのかはとても曖昧。
多くの場合は、自分たちのイメージ通りのものかどうかです。
なのでコンペとは言っても、純粋なフリーハンドの提案を見るというよりも、自分たちの考え方通りにやってくれるか確認するという意味合いが大きく、「全く想定外の提案だがこれがいいと思った」となるケースは稀少と言えるでしょう。

そんな中、エージェンシーの営業さんがよく口にする言葉は、
「獲らなきゃ始まらない」
です。
クライアントのオリエンテーション(ブリーフィングとも言います)自体に疑問を持つことはよくあります。
そこから疑い自分たちの信念に基づいて、こういうコミュニケーション設計の方がいいんじゃないですか、と率直な提案をする方がクライアントのためになると思うのですが、上記のようにそれだとコンペを獲る確率は下がります。
それよりもクライアントの顔色を伺って、何を望んでいるのかを突き止め、それを「提案」として出してほしいと営業さんは僕のようなクリエイティブディレクターに要望するわけです。
それは100%正しいこととは思わないけども、半分以上は頷けます。
獲らないとゼロ。
参加すらできませんから。
だから僕はバランスを考えて、クライアントが許容できるギリを攻めたりするわけですが、選挙戦もこれに似たところがあるように感じます。
いくら正論をかざしたところで有権者の心を動かし自分たちの議席を増やすことができなければ、結局政治に参加することはできません。
ゼロです。
できもしないいい加減な公約を言ったり嘘をつくわけにはいきませんので、党の理念と有権者の要求のグッドバランスを見つけること以外に勝ち筋は存在しません。

ここからはある種の思考ゲームになりますが、では、たとえば民進党の場合はどうやれば議席数を伸ばせたのか、自分なりにシミュレーションしてみました。

まず根本的なポイント。
民進党に限らずですが、負けた政党は「争点」を作るのがヘタだった。
てか、争点を作ることすらしなかった。
小泉政権時代、「改革を止めるな。」というスローガンがありましたね。
あれはコピーライティングとしてはものすごく秀逸です。
自民党の改革を進めるのか、止めるのか、そこが選挙の争点だ、と言っているのです。
そうすると郵政改革の中身がどうの、とは違う次元で戦えることになります。
また、「抵抗勢力」という言葉もうまかった。
小泉派が時代のメインストリームで、それ以外は時代の流れを邪魔する人たちということにされてしまいました。
今回の参院選で、各党は総花的に公約を羅列するだけでしたが、それは戦略的に褒められたものではありません。
弱者の戦略と呼ばれるランチェスター戦略でも弱者は一点突破するしかない、となっており、そのセオリーは企業の戦いにも政党の戦いにも通用します。

ではどこを争点化するのか。
経済政策か。
それは違う気がします。
まず、有権者の多くは経済のメカニズムを理解できません。
アベノミクスが正しいかどうかなど、経済学者でも論が分かれるところで、自分たちの政策が正しいのだといくら叫んでも納得感に至らせるのは困難でしょう。
それに、日本の経済が弱くなった根本的要因は少子高齢化などの構造的なところにあると思っている人は多いでしょう。
また、原油安やBRICSの成長減速、ヨーロッパの不安定など外部要因に揺さぶられる部分も大きいわけで、
「この乱気流の中を安倍政権はよく持ちこたえている」
と評価する人も少なくないはずです。

経済政策じゃなければ、憲法改正ということになります。
が、民進党はそもそも党論が護憲か改憲かハッキリしていません。
また共産党と手を結ぶことでさらにポジションをややこしくしています。
そうなると、普通に考えるのは、
「ここは触れないでおこう」。
でもそれが最大の過ちなのです。
ネガをポジ化できるように整理した上で、そこをバーンと掲げて勝負に出るところに一筋の光明があるのです。

じゃあ、憲法9条の改正を争点化するのか。
そこも僕は違う気がします。
戦争したくない、は国民の望みです。
でも、それと9条改正とは別、と考える国民も多いはずです。
尖閣諸島について、日本が侵略したのか、中国が侵略してきてるのか、を問うた時、ほとんどの日本人が後者と答えるでしょう。
トランプ氏の躍進で日米同盟の未来も不確かになっている中、これ以上中国や北朝鮮、韓国など周辺諸国になめられないためにも少しマッチョな姿勢を見せた方がかえって戦争にならない、という理屈はたやすく反論できるものではありません。

僕なら、自民党の痛点を探します。
「そこを突かれると痛いんだー!」
ってツボですね。
それはおそらく、憲法改正案の11条~13条、とりわけ13条かなと。
自民党改正案では、国民の基本的人権よりも国益優先となっているんですね。
まるで全体主義国家の憲法のようですが、ここ、気づいている国民は少ないと思いますよ。
極端に言えば、
「ここに道路通すから、あんたの家立ち退きね」
と言われても反対できないってこと。
国益優先を憲法が保障しちゃってるんですから。
これは、ほぼどんな人も「それはイヤだ」と感じるはず。
だから僕ならここを争点化します。
「あなたの権利を奪わせるな。」
といったスローガンを作るかもしれません。
もっと扇情的にするなら、
「中国化憲法」
といった言葉を作るかも。
シニア世代になるほど中国への嫌悪感は強いはずなので。
「中国化憲法に、断固反対する!」
と言えば多くの有権者の心をグラグラ揺らすことはできます。
「戦争法案」といった言葉よりよほど強いでしょう。

誤解のないように言いますが、僕は民進党支持者でも自民党支持者でもありません。
その時々によって、納得できる政策を示してくれる党に票を投じるだけです。
ただあまりにもコミュニケーションが稚拙だと、きっと政策実務も稚拙なんだろうなと思ってしまいます。
おそらく他の有権者も少なからず同じではないかと。
信じることをそのままぶつける、有権者に問う、という姿勢も素晴らしいですが、その一方、
「獲らなきゃ始まらない」
という厳然とした事実もあります。
ビジネスはしたたかさが評価される世界でもありますから、とりわけビジネスマンたちには「うまいことやったな」という知能を評価するところもあるでしょうし。

まあとにかく、昨今の選挙戦はコミュニケーションのプロ的には「見ちゃいられない」レベルなので、もうちょっと感心させてほしいです。
知と知がぶつかりあってるな、という様相だと、どちらに任せても安心感ありますので。

2016年7月11日
by kossii
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若者投票行動についての誤解ないですか

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選挙になると、家族が僕に聞いて来ます。
「どこに入れるの?」。

僕は決して家族に、
「この党に入れろ」
とか、
「この党に入れちゃダメだ」
などとは言いません。
でも、家族は僕の投票行動を気にするし、影響を受けます。

その理由の一つは、家族の中で僕が最も社会を知っていると思っているからです。

若者の投票率が低いと嘆く人は多い。
その要因には、高齢層より相対的に忙しいとか、複合的なものがあるでしょう。
でも大なるものは、自分たちは世間知らずなのだという若者たちの謙虚に過ぎる自覚だろうと思います。
彼らは怠け者なのではなく、上の世代を信じる「いい子」たちなのであって、親・祖父母世代の方が自分より「わかってる」のだから、信託しますよ、という無垢な心情を持っているのではないでしょうか。

もし若者が投票について相談するとしたら、親以外の誰がいます?
学校で政治の話はタブーとなりました。
メディアも中立報道の監視をされてますよね。

また普通、親は子どもにお金を遺そうとします。
僕も、働くモチベーションの半分ぐらいはどれだけ子どもたちに財産を残して死ねるかですもん。
もちろん遺産はお金だけじゃなく、有形無形のものがあります。
投票行動も子どもたちのことを思ってしてくれるだろうと若者たちは信じているんじゃないでしょうか。

シルバー民主主義は多数決をだんだん無意味化していってますけども、子どものいない年配層は今や多く存在しても、親や祖父母のいない若者は少ない。
そこに気づかない若者たちはシルバーを信じるわけで、シルバー民主主義はこの非対称性で成り立っている、というのが自分の仮説です。
そうでなければ、10代の有権者が加わる中で、若者に負担を強いる傾向のある与党がさらに躍進する理屈がわかりません。

とりわけリベラル支持者は、
「選挙に行け」
と若者たちを駆り立てようとする傾向がありますね。
そして選挙後に期待せぬ結果が出ると、ほぼ必ず、
「若者が選挙に行かないからだ」
と嘆きます。
シルバーは保守支持、若者はリベラル支持という構図を信じ込んでいるかのようです。
でも、高い意識で「〇〇党に入れよう」「〇〇党に入れてはいけない」と自己判断できる人たちが、同世代が投票所に行けば同意識を持つ、と信じていたらそこには誤解がある気がします。
選挙前の調査で10代有権者の6割が与党支持、というデータがあったように記憶していますが、彼らは親・祖父母世代の投票行動に倣おうとしたんじゃないでしょうか。

では、どうやれば、どうなれば、若者は自分自身の判断で投票行動をするようになるのか。
それは、
「もう親・祖父母世代が信じられない」
と強く確信した時でしょう。

そういう意味で、英国の投票率は、上がっていくと予測します。
が、日本では参院選の結果がとんでもないものと顕かにならない限り、若者たちはモラトリアムを守り続けるような気がします。
そして次は憲法改正の投票が待っているかもしれません。
今後、ますます僕ら親世代こそが若者層の視線を意識しながら、子どもたちへの遺産形成と捉えて投票行動をしていくしかないと思っています。

2016年6月30日
by kossii
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経営者は経営学の原点を学び直してほしい

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僕のクライアントでとても頼りにしていた方が、急に退職された。
おそらく鬱病。
彼の異変に周囲の誰も気づかなかったらしいですが、突然電話で「もうこれ以上働けない」とだけ言って来なくなったと。
ショックなことでもあり、悲しいことでもあり。
すごく仕事ができて、温厚なのにブレず、上下のつなぎ役として信頼されていた、そんな方が戦線離脱です。

以前から感じていたこと。
なぜ皆、壊れるまで働かないといけないのだろう?

その会社だけの話ではありません。
あちこちの企業で、過度のプレッシャーによって心を病む人が激増している実感があります。

昨今の世情不穏を、「まるで戦前に似た空気だ」と言う人は多いです。
でも僕からすると日本企業はどこも、何だかチャップリンの「モダン・タイムス」の頃に戻ってしまったみたいです。

ヘンリー・フォードが「流れ作業」を発明したことで、工場の生産効率が高まり、自動車が庶民に手が届くようになったのは有名な話。
フォードは従業員の賃金引き上げも積極的に行った、知恵も心もある経営者でした。
しかし、その機械的、非人間的な働き方に耐えられなくなる工員が続出。
それ以降しばらく、全米の工場は離職率の高さに悩まされることになります。

現在、日本の多くの企業は若者の離職の多さに悩んでいます。
そして会社を支えるミドル層は心を病んで離脱したりしています。
「非人間的な効率主義に耐えられない」のが、モダン・タイムスの頃と共通しているように感じられるのです。

さて、流れ作業工場の離職問題を解決したのはエルトン・メイヨーという学者です。
彼はまず課題を発見するために、工場の従業員たちから現状を聴き取ることにしました。
すると、解決策を講ずるまでもなく、聴き取るだけで離職する者がほとんどいなくなり、労働効率も上がったのです。
つまり「不満を聞いてくれる」、それが処方箋だったんですね。
彼は、賃金などの労働条件よりも、職場の人間関係や対話機会のあるなしが生産性を引き上げると結論づけました。

この思想は後のピーター・ドラッカーにも受け継がれます。
ドラッカーは企業をこのように定義しています。
・人々に新しい価値を与え、顧客を創造するもの
・「人間的」機関
・公益をなす社会的機関
企業の本質が顧客創造にある、というのはマーケティングにつながる話なので、僕もセミナーなどでよく引用します。
が、企業は従業員にとって「人間的」機関でなければいけないという彼の考えは一般に見落とされがちであるように感じます。

メイヨーが「人間関係論」を発表していた頃、アメリカでは金融恐慌が起こりました。
そこで登場したのがチェスター・バーナード。
彼の主張はこうです。
企業は外部環境によって左右される。
それを乗り切るためには、組織が上下一体となって志を一つにし、皆が一体感をもって同じ目標に進むことが必要だ。
そのまとめ役が経営者なのであって、そういう点で経営者の役割は重いものなのだ。
「バーナード革命」と呼ばたりしますが、これによって企業は外部環境を分析しながら経営戦略を立てるようになりました。
そしてここでも、そのために重要なのは従業員たちのモラルだと説かれています。

戦後、グローバルな経済成長の波に乗って企業の多角化経営戦略を唱えたのがイゴール・アンゾフ。
そして成長企業の戦略と組織を分析し、企業戦略論を完成させたのがアルフレッド・チャンドラー。
彼は「Strategy and Structure」という本を上梓しベストセラーとなりますが、ここで悲劇が起こります。
この本の主旨は、戦略と組織に優位はなく、互いを大事にしながら成長すべきだ、ということでした。
たとえば世界で初めて多角化経営を始めたのはデュポン社と言われてますが、彼らはもともと火薬を扱っていたので第一次世界大戦で大成長したところ、戦後余剰従業員が大量に出たんですね。
その対策として火薬以外もやろうということになり化学の総合企業として成長したわけで、組織の実状ありきで多角化という戦略が生まれたのだと。
ところが、なぜかこの本は「組織は戦略に従う」と言っているのだとビジネス界は誤解をしたんです。
著者の意図と真逆ですが、日本語の訳書でも邦題は「組織は戦略に従う」となっています。
この誤解から生まれたビジネスが「経営コンサルティング」です。
まず経営戦略を決めましょう、それに従う組織変革をお手伝いします、といって顧客を獲得したわけです。

今の日本企業も、まず「中期経営計画」をどうするとか、「年次目標」をどうするとか、目標ありき、数字ありき、ノルマありき。
組織も従業員もそれに従わねばならない、それが当たり前なのだ、と思い込んでいるかのようです。
でもそれは誤解からの流れなんです。
従業員の人間性を大事にしなければ生産性は上がらない。
日本企業の生産性が落ち込み続けている根っこの要因はそこにあるような気がします。
組織や従業員の実状から新しい経営戦略やイノベーションが生まれることもあるのです。

チャンドラー以降の経営学のスターはマイケル・ポーター。
彼の主張はとにかく「企業は儲けるためにある」。
そのために重要なのがポジショニング戦略、つまり競合他社との差別化。
「競争優位」という概念を経営層に植え付けます。
マーケティングを構成する基本となる差別性「Competitive」もここから来ています。
これはある意味、エルトン・メイヨーの「人間関係論」以前に戻ろうという動きでもありました。
オイルショックなどで大打撃を受けていた米企業は生き残りのためなら競合他社を出し抜くのだと、この理論を大歓迎したわけです。
このあたりから企業活動は殺伐とし始めます。

しかし、これをひっくり返したのが日本企業。
当時日本企業は米でシェアを伸ばし続けていましたが、その理由をポーターの理論で説明することは誰もできなかったのです。
リチャード・パスカルという人がホンダを取材した結果、「日本企業に戦略はなかった」という結論を書籍化しています。
そこにあったのは挑戦心と、従業員を大切にしようという心でした。
日本企業は米の工場で、工員を「Worker」ではなく「Associate」と呼んでいました。
経営学の原点とも言える「人間関係論」を直感でやって、勝っていたわけです。

米企業は、日本企業の持つ力を徹底的に調べ、そこから学び始めます。
そして、組織の力(ケイパビリティ)と競争優位(ポジショニング)のバランスを取ることの重要性を認識し、ついに復活したのです。
ところがその日本企業が、グローバルの意味を取り違え、過去に米企業が間違えたことをわざわざやろうとしているように僕には見えます。
経営者はここでもう一度経営学の原点に戻ってみてもいいんじゃないでしょうか。
経営学の巨人たちはいろんな理論を打ち立ててきましたが、「従業員の心を大事にしなければ何も始まらない」というところはそのほとんどが一致しています。

僕の仕事はマーケティング、クリエイティブで企業を勝たせることです。
その成果を出すことを信条としています。
それで笑い合えると楽しくなれるから。
が、その僕ですらちょっと気持ちがキツくなってきています。
勝たせてあげても満足されることはなく、僕も、お得意先の社員さんたちも、ゴールの見えない要求をされます。
肌感ではこの10年ぐらいで、どの企業もギスギスする一方。
数字のためには、不義理も裏切りもお構いなし、プレッシャーを限界まで与え続け、壊れるまで働かせる。
笑いの種類も、ほぼ苦笑。
でもそれがかえって数字を落とすことになってるんじゃないかと、疑ってみてもいい頃だと思うのです。

2016年5月21日
by kossii
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少子化は止まるのではないか

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こんなブログを見つけました。
「もしかして少子化問題って10年後には解決してるんじゃないの?非婚が進む30代と早婚志向な20代の溝」
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/05/19/170000
30代に比べ、今の20代女性は早婚傾向にあり、それによって少子化が止まるのではという内容。
もしそうであれば非常にうれしい話ですが、これには科学的にも合致する部分があります。
(ちなみにこのブログ内で紹介されている「東京タラレバ娘」はもう好きを通り越して愛してるぐらい面白いです)

生物にとって身体とは遺伝子の乗り物に過ぎず、全ての生物の目的は自分の遺伝子を残すこと、と喝破したのはドーキンスの「利己的な遺伝子」ですが、人口動態や社会問題は人間ならではの「遺伝子の残し方」に影響を受けていると言えます。
なぜ先進国が少子化傾向にあり、途上国が人口爆発するかというと、乳幼児死亡率が大きく関わっていると考えられます。
原始時代、女性は常に妊娠中でした。
産んでは妊娠、産んでは妊娠を繰り返していました。
その理由は、大多数の子が乳幼児期に死んでしまうからです。
しかし医療の技術が進み環境が整ってくると、子どもがどんどん増えていくことになります。
先進国では「これは増え過ぎだ」ということで次第に産まない方向に逆振れしていきます。
これが少子化のベーシックな要因と言えるでしょう。

先進国では自殺が大きな社会問題となっています。
実はデータを見ると、兄弟のいる人ほど自殺する傾向があるのです。
つまり、「自分が死んでも兄弟が自分の遺伝子を残してくれるだろう」という無意識が安心(?)させてこの世を去らせる動機になっているという仮説が立てられるわけです。
逆に独りっ子は自殺しない傾向にあります。
僕は独りっ子ですが、子どもは3人持とうと決めていました。
今の家を建てた時にはまだ2人しかいませんでしたが、それでも子ども部屋は最初から3部屋用意しました。
幼少の頃から感じていた兄弟のいない寂しさを自分の子どもたちには感じさせたくない、と思っていたのですけど、もしかするとそういうことよりも、自分の遺伝子が途絶える可能性を減らすために子どもを多く作っておこうという本能が働いているのかもしれません。
ちなみに仕事でキャパオーバーになった時などに「死にてえ!」と思うことはよくありますが真剣に自殺を考えたことはないです。

そういった個々人の本能は、大きなトレンドになったりもします。
先進国でも大きな戦争や重大な伝染病などで人口減少が起きるとベビーブームがそれに続きます。
兄弟や近親者の死に直面することによって生じる、「自分ががんばらなければ」的動機が社会全体のトレンドとなるのでしょう。
日本で最大ボリュームの団塊層は戦争直後生まれの人たちです。
増えすぎると減らす方向に、減りすぎると増える方向に、を繰り返しながら人間は自分たちの遺伝子を残そうとするわけですね。
そして少子化は、ある意味では戦争や伝染病などの災禍のように、兄弟がいなくなる、近親者がいなくなる状況に多くの人たちを直面させます。
そういう状況下の人たちは、生物としての本能仮説に従えば、1人でも多く子どもを作ろうという欲求を持つことになります(僕もそうかもしれません)。
日本の自殺者が年々減少しているデータを見ても、少子化の逆ブレ、「遺伝子残そう」トレンドにまた戻り始めている兆しが見えます。
残念なのは、団塊ジュニアという第二の人口ボリューム層が出産適齢期を過ぎつつあることです。
彼女たちがアナトミックな理由で出産できなくなる前に国は何らかの対策をしておくべきでした。

日本はもはや若い女性陣のがんばりに期待するしかないわけですが、NHKのアンケートによれば少子化対策のためなら税負担を受け容れるという人が多数派でした。
彼女たちと社会がすでに合意形成できているとも言えるわけですから、若いママたちの負担を皆で減らし、ブレーキを解除する仕組み作りがまさに喫緊の課題であると思います。