1989年 北京・上海の記憶

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僕が初めて中国に行ったのは1989年、天安門事件直後の冬だった。
中国で流す長尺インフォマーシャルをチェックするのが目的だったが、それはどちらかというと名目。当時はご褒美的な意味で海外出張をさせてもらえることがあり、これも仕事半分、物見遊山半分の旅であった。
北京へは運航を始めたばかりのANAで行った。ホテル名は忘れたけども、日本の出張ビジネスマン御用達のホテルに泊まった。北京について最初に抱いた印象は「色がない」だった。街は埃っぽく、薄暗く、夜は真っ暗闇だった。昼間が薄暗いのは、建物がどれも古びて土気色になっているのと、カラフルな服を着ている人がいないからだった。街の人たちの多くは草色の人民服を着ていた。それはまるで分厚い布団にくるまっているようで、あんな物を着てよく動けるものだと感心した。街灯はほとんど点いていなかった。午後7時頃になるとどの店も閉まってしまい、飲む場所、遊ぶ場所はなかった。そのぐらいの時間にホテルのベランダから通りを見下ろすと、真っ暗闇の中をもぞもぞと人の集団がうごめいていた。それが出退勤の光景だった。
路上のフリーマーケットのような場所に買い物に出かけた。すると若い男が声をかけてきて、両替を誘ってきた。当時中国で流通している貨幣は、外国人が持たされる外貨券と人民券の2種類に分かれていた。海外からの輸入品などを専門に扱っている国営デパートのようなものがあって、そこは外国人専用ということで外貨券しか使えなかった。良質な輸入品を手に入れるためには外貨券が必要ということと、ドルなどの外貨に両替できるのも外貨券だけ、という理由から中国人は外貨券を欲しがった。もちろん一般の店舗では人民券で買い物ができるので、僕はヤミの両替をしてもらうことにした。交換レートはちょうど2倍だった。僕はそのマーケットで膝下まで丈のある大きなダウンコートを買った。たしか6千円ぐらいだったと思う。半額で人民券を手に入れているから実質は3千円くらい。真っ黒なコートで、日本で着てもおかしくない代物だった(じっさい、今でも時々着る)。日本で買えば10倍以上はしたんじゃないだろうか。しかし、そういうコートを着ている中国人は一人も見ないのが不思議だった。
街中にエンタテインメント的なものは一切なかった。なにしろ午後7時頃になると全ての店が閉まってしまう。パブも、バーも、何もなかった。日本の駐在員たちはホテルのカラオケ屋に集まっていた。当時僕は「世界中の都市でカラオケを歌う」目標を自らに課していたので、行った(ちなみにアジアはもちろんパリでもNYでも行った)。そんな馬鹿げた目標がなかったとしても、北京では他に遊ぶ場所はなかった。カラオケは日本の第一興商が入っていた。楽曲リストをめくるといくつかの曲がマジックで塗りつぶされていた。透かしてみると「加藤隼戦闘機隊」。日本の軍歌は御法度なのだ。目次に「ムード系」とあったので、この国でそんなのがゆるされるのか?と思ってめくったらそのページは「中国のうた」に差し替えられていた。
タクシーをチャーターして万里の長城へ行った。大きなダウンコートはそのために買ったのだった。タクシーの中では沢田研二の「TOKIO」がかかっていた。現地に着くと観光客もまばらで、閑散としていた。一人で長城の上まで登った。同じような光景が延々と続いているのを見て、すぐに飽きた。なんとなくの寂しさも覚えて、早々に帰ってきてしまった。
仕事で中央電視台のプロデューサーと会った。日本で言うとNHKのプロデューサーのようなもので、ソウルオリンピックの中継もしたというエリートだ。知的で、人間的にも好感を抱いた。彼は さすがメディア人というべきか、さっぱりとした服装で、白っぽいカーディガンを着ていた。3日連続で打合せをしたが、2日目になんとなくの違和感を覚え た。その正体は3日目にわかった。彼は3日続けて同じ服を着ていた。よく見ると、カーディガンはずいぶん黄ばんでいた。
北京の最後の日に博報堂の北京支社に立ち寄った。会議室の壁に黒い穴が連なって開いていた。天安門事件の時に、外から機銃掃射された跡だということだった。
仕事は北京で終わったが、僕は自費で上海に立ち寄ってから帰国することにした。上海へは中国のローカル航空会社で行った。当時、中国の民間パイロットは空軍上がりで操縦が荒いと言われていたが、確かに極端な急上昇急下降で、耳が痛かった。機内食として段ボールの小さい箱を手渡された。空けるとチキンの足のような物とスポンジケーキのような物がごろんと入っていて、それを手でかじった。
当時の上海空港は、小学生の頃の木造バラック校舎を思い出させるほど質素な建物だった。タクシー待ちは長蛇の列。並んでいると、小柄なオッサンが手招きしてきた。僕が持っていた「TOKYO」と大きく印字された観光バッグをめざとく見つけたのだ。逆に僕はそれを狙ってその袋を抱えていた。タクシーの運ちゃんはとにかく愛想が良く、親切だった。だって日本人は外貨券で払ってくれるわけで、これは人民の2倍の料金を払ってあげてるんだから。僕は長蛇の列から外れてそのオッサンの後に着いていった。オッサンのタクシーは、なんと言うべきか、スクラップそのものの軽トラだった。僕は旅先であまり写真を撮らないが、あれを撮らなかったことは今でも少し後悔している。あれを見て動くと信じる人は稀だろう。軽トラは乗り合いで、荷台に中国人が何人か座っていた。僕は助手席に座らされた。走り出すと、寒い。風が吹き込んでいる。窓を閉めようとすると、レバーがとれていた。ヒーターはないのかと思ってインパネを見たら、全てのメーターが動いてなかった。僕はあきらめてコートのボタンを締め直した。当時、中国ではフォルクスワーゲンのサンタナが人気で、タクシーもサンタナをよく見かけた。上海ではヒルトンに宿を取った。中国のホテルはタクシーの車格によって車寄せに入る制限を設けていて、ヒルトンは「サンタナ以上」でないとクルマを直接着けられなかった。僕はホテルのずいぶん前で降ろされて、そこからガラガラと荷物を引いて歩いていった。
ヒルトンに着いて、中のカフェでランチを取ることにした。何かメモを書いていたら、中国人のウェイトレスが2人やって来て、僕が使っているボールペンと自分のとを交換してくれないかと言う。僕のはANAの機内で税関申告書を書く時にもらったプラスチックのボールペンで、「ANA」のロゴが入っていた。それがとてもカッコよくて欲しいらしい。交換してあげたらすごく喜んだ。彼女のは金属製で、そっちの方が少し高そうだった。ノックの部分が少しだけ錆びていた。
上海に着いた日の夜、突然高熱が出て来た。予兆はあった。北京はあまりにも乾燥していて、のどをやられてしまったのだった。それにしても突然ひどい咳が出て来て、高熱で天井がぐるぐる回った。ホテルはまだ建設途中で、薬局はまだできていないと言う。次の日、僕は風邪薬を買うためにタクシーで外国人専門のデパートに行った。外国人専門で外貨券しか使えないというのに、表記はどれも中国語。どれがどれかさっぱりわからない。身振り手振りを交えながら、店員に英語で「I have a high fever. I need a medicine」と言った。店員は完全スルー。向こうの方を見たまま、首を振って中国語で何か言った。中国の公務員からはほぼ例外なく、何のやる気も感じ取れなかった。タクシーとは対照的に。そう、タクシーとは違って、とひらめいた僕は待たせてあったタクシーに戻り、風邪薬を探してくれないかと頼んだ。運ちゃんはまかせとけ!とばかりに店の中に駆け込み、しばらくうろうろしてから、これこれと人差し指でショーケースをつついた。アメリカ製のヴィックス咳止めがあった。運ちゃんは親指を立てて「ヴィックスナンバーワン!」と言った。
その咳止めは劇的に効いた。次の日にはすっかり回復した(その一件以来、僕はアメリカ製の薬をかなり信頼している)。薬を探してくれた運ちゃんと上海を案内してもらう約束をしていて、最初にタクシーで人民券の使えるデパートに行った。デパートと言っても、昔日本でもよくあった、地方の薄暗いスーパーといった風情だ。そこで僕は母親へのみやげとして毛皮のコートを買った。何の毛皮かはわからなかった(後にタヌキだと判明する)が、1万8千円ぐらいだった(実質はその半額)。
昔の英仏の租借地に当時の風情が残っていると聞き、次にそこに行ってみた。残っている、というか、何の手も加えられないまま古びている印象で、美しさや情緒は感じなかった。街を歩いていると突如腹が痛くなってきて、建物の中の便所を借りた。溝を水が流れていて、その中にすると流れていく方式だった。囲いとか、そういうものはなかった。上海ではあまり人民服は見かけなかった。でも北京と同じく人々の服装は皆薄汚れていて、街中が貧しそうに見えた。中国では億万長者のことを「万元戸」と呼んでいたが、一万元は日本円にして30万円程度だった。職業としては外貨券をもらえるタクシーが人気のようでメルセデスのタクシーもいたが、共産党員など特権階級でないとなかなかできない仕事なのだ、と運ちゃんが話していた。
がっかりしたことに上海でもエンタテインメントというものはやはりほとんど存在しなかった。あるホテルで年老いたジャズメンが演奏しているバーがあり、そこに行った。そのジャズメンは戦争中に日本人からジャズを教わった人たちで、上海でジャズを演奏できるのは彼らだけという話だった。そのバーは薄暗く、メンバーの表情はよく見えなかった。照明効果でそうしているのではなく、中国は街中も、店の中も、全てが薄暗かった。文明の尺度は街の明るさに比例するという。ソ連邦時代、トランジットで降りたモスクワ空港も薄暗かった。
僕は上海のどこかにディスコがあるという噂を耳にしていて、そこに行ってみたいと思った。ところが誰に聞いてもそんな場所は知らないと言う。明日帰国する日の夜、ホテルに戻るために拾ったタクシーの運ちゃんにダメ元で聞いてみた。「もしかするとあそこかなあ」と言い出したので、とにかくそこに連れてってくれと頼んだ。その店はホテルの外れにあった。入場料約1500円を払って中に入ると、そこには六本木があった。東京の流行から2,3ヶ月遅れの感はあったものの、そこでは沢田研二でも50年前のジャズでもなく「Pet shop boys」が流れていた。ミラーボールの下で20代ぐらいの中国の若者が大勢踊っていた。それらは中国に着いてから初めて見る人種だった。着ている物がきれいにクリーニングされているのだった。街を歩いている人たちとこの店内の人たちのギャップに少し混乱した。日本人だと思って声をかけてきた女の子がいた。どっちも英語が達者でなかったので、あまり話が続かなかった。
上海空港で外貨券を両替する列に並んだ。列は二列できていたが、僕の並んだ列は一向に進まない。窓口の女性係員は何か黙々と作業している。ふと彼女は列ができていることに気づき、無言で窓をぴしゃっと閉めた。並んでいた外人たちはやれやれといった様子でもう一つの列に並んだ。
成田空港に戻った時、思わず眼がうるんできた。空港全体が真っ白に光り輝いていた。日本という国が「光の国」に思えた。いろんな国に行ったけども、帰国してそんな感情の高まりを感じたのは初めてだった。
税関で毛皮のコートが申告漏れだと指摘された。これは1万8千円だと言ったら、ありえない、そんなわけないだろうと言われた。レシートを見せたら税関吏はうーんとうなって、納得いかないようにずっと首をかしげていた。
あれからまだ、たったの23年だ。中国はすっかり変わってしまった。世界も変わった。人々の「変わろう」というパワーはすさまじい。日本もこれからどんどん変われると思う。