俺の教育

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もともとこのブログは酔っ払ったイキオイでくだらないことを書く、という主旨で始めたものなんだけど、どうもまともで難しいことばかりを言っている。がっかりした人も多いだろうな。が、平林さんの感想→ココ に触発されて、もうちょっとだけめんどくさい話をしてみたい。今度は教育について。
「教育」は他動詞だ。どうしても「教え育てる」側の視点に立って思考してしまう。そこにそもそもの問題があると僕は思っている。教育しなくたって、人はほっといても何かを学ぶ。こないだドラクエ型RPGが子供に与える影響について書いたけども、子供は遊ぶだけじゃなく、同時にそこから何かを学びとっているはずで、それが「世の中に矛盾はない」「人は自分の敵か仲間かどっちかだ」「歩き回ってれば何者かになれる」といったことだと危ないと言った。もちろんTVからも何かを学んでいるし、漫画からも、友達との会話や街の風景、猫の鳴き声からも学んでいるだろう。暴力とエロはいけないといった短絡的な話だけじゃない、もう一段広く深いところで「学び」というものを見ていくべきではないだろうか。「ゆとり世代」についても「ゆとり教育」が問題だと言うのは学校教育を過大評価しすぎじゃないのかな。もっともっといろいろなものが影響を与えてきたはずだ。教育をどうこうと考える前に、学びの環境がどうあるべきか、という思考が必要だと思う。僕はいろんな事情で渋谷に住んでるけども、ほんとうは子供を育てるには自然のある田舎がいいと思ってる。
そして、いわゆる「学校教育」についてだけど、子供達に「そもそもの学校教育の意義」を誰も教えようとしないのが僕は気になる。たとえば微積分。こんなもの、一般人が実社会で使用することなんてありえない。なぜ学ぶ必要があるのか。普通は「受験のため」と受け止めているのだろうが、僕は子供達に、数学を学ぶことの意義を「問題解決の快感を覚える」ところにあるのだと言ってる。課題があって、どういう公式を応用すればいいのか頭を悩ませる。そして解をはじき出した時の快感。これはビジネス上での課題解決の快感につながっていく。僕は数学が得意で満点以外を取るのが珍しいぐらいだった。プログラミングも趣味でやっていた。アルゴリズムが思い通りに決まってアプリケーションが走る時の気持ちよさは何とも言えない。ベーシック、デルファイと来てC言語で挫折してしまったヘタレではあるけども。今でもクライアントからオリエンをいただくと、さてこれをどうやって解こうかとぞくぞくする。そしてこれだという解が出た時の快感はたまらないものがある。そのために仕事しているようなものだ。若い人の中には課題を与えると苦渋に満ちた顔をする人がいるが、数学が不得意だったんじゃないだろうか。だから僕は子供達にとにかく数学をやれと。大量に問題を解けと。そう言っている。そうしたら子供達は納得して勉強している。
科目で言うと数学の次に重要なのは「作文」だと思っている。これはつまりプレゼンテーション能力だ。自分のアイデアや感じていることをどう表現するか、人に伝えるか。社会人にとって、この力のあるなしはめちゃめちゃデカい。国語の読解は、「普通の人の感じ方」を学ぶもの。人って普通はこう考えるんだよ、というところでマルバツをつける。そこを知っておくことはもちろん重要だ。しかし、その上で「君はどう考える?」という部分がないといけない。そこを学校はおざなりにしている。だから国語は「普通の人大量養成科目」になってしまっている。作文については自分で教えるしかない。感想文とか、自由作文とか、そういうのを僕はできるだけ細かくチェックして、出だしがどうのとか、なんでこの単語を使ったんだとか、そんなことをやっている。家庭でこれをやらないと、将来打合せで発言できない大人になってしまう気がする。
最近息子に家庭教師を付けた。僕が学校に不満があるのは、子供の「なぜ」にきちんと対応できないところだ。家庭教師には「なぜ」にきっちり答えるよう頼んである。学校と同様、これは塾にもできない。だから僕は子供達を塾に行かせてない。 理科社会で言えば、このユビキタス社会で知識の暗記なんて無意味だ。理科社会とは、世の中の「道理」を知る学問だと子供達に言っている。たとえば歴史とは人間の欲がぶつかり合った結果のことだろう。そこを教えたり、いっしょに考えたりすることが大事だと思っている。こないだ「荘園」がテストに出ていて、マルをもらっていたのだけど、子供に荘園について説明させたらやはり全く理解していなかった。名前を覚えているだけだ。「地方の領主に税を納めたら高いんだよ。だから自分の土地をその上の、京の貴族の別荘だということにして税を払わない。実は裏でこっそりその貴族に安い税を払う。つるんでズルをやるのが荘園だ」って言うとおおーと納得する。学校でも塾でもそういうふうには教えない。
僕は貧乏性なところがあって、何でももったいないと思ってしまう。受験だけのために勉強するなんて時間の使い方はあまりにもったいない。受験は通過点だ。それまでの勉強が、社会に出てから活きなければいけない。学校教育にも、そういう視点をもっと採り入れてほしいものだ。そしたら日本ももっと優れた人材を輩出できるようになるんじゃないだろうか?