必死を恐れる人のアイドル

Share Button

「俺はまだ本気出してないだけ」というタイトルのコミックがある。なんとなく不満で会社を辞め、なんとなく漫画家を目指すがダラダラとしか生きられないダメ男の日常を描いたものだが、このタイトルはとても秀逸だと感じている。いまの世代の心情、必死になることができない精神構造をひとことで言い当てている気がするからだ。
若いコピーライターたちを見ていて不思議に思うのは、「なぜこいつらは必死にならないんだろう?」ってこと。僕が新人の頃はみんな必死だった。僕もどうやればコピーライターとして「書ける」ようになるのかわからなくて、コピー年鑑を書写してみたりフランス映画の字幕をメモってみたり電車に乗りながら書いてみたりと、まるっきり無駄な努力も含めていろんなことを試した。自分の知る限り、今の人たちはそういう足掻きをやらない。かっこつける。何も調べようともせず机の上でいきなり書き始めて、書いたものをダメ出しされても、また同じことをやって同じことを繰り返すだけ。このままじゃヤバい、何とかしなきゃ、どうしたらいいんだ、という焦りが伝わってこない。いや、違うな。きっと焦りはあるはずだ。やらない、じゃなく、できない、んだろう。正確に言うと、なりふりかまわず必死にやって、自分は何でもない人間なんだという結果を見るのが怖いんじゃないだろうか。そんな気がする。
そして、AKB48。
彼女たちを支えているのは、そんな、必死を恐れる人たちなんじゃないかと僕は見ている。なりふりかまわず必死になるなどという、彼らにとって恐ろしいことをやってくれている、そこにリスペクトが生まれる。昔のアイドルは完璧に「できあがった」状態で皆の前に出てきた。うんこもしないパーフェクト人間だった。AKB48が昔のアイドルと違うところは、必死さを隠そうとしないところだ。いやむしろそれが戦略になっている。彼女たちはできあがっていない。できあがるまでの必死のプロセスを楽しむ「システム」なのだ。
必死さはTVを通じては伝わりにくい。だからライブ活動、密着活動を主体としてきた。コンサート中前田敦子が過呼吸で倒れたとき、主催者側がそれを隠そうとしたところ、秋元康はなぜそれをそのまま観客に伝えないんだと叱ったと言う。「総選挙」や「じゃんけん」がなぜあれほどウケるのか。それは残酷だからだ。必死にスターダムを目指してそれでも突き落とされて涙ぐむ姿に、必死になれない人たちが共感を抱く、そういう構造を作っているんだと思う。AKB48は彼女たちの涙とワンセットなのである。
その中心が前田敦子だった。失礼ながら、彼女はいわゆるアイドルとしての美しさを備えているとは言いにくい。口の悪いネット住民からは「顔面浜田」などと揶揄されても来た。そんな彼女だからこそ、必死さが見えやすい。涙が様になる。ファンは、そこに自分の姿を投影しやすかったんじゃないか。
しかしいま、前田敦子は「AKB48システム」にとってもはや不要の存在とも言える。登りつめてしまったからだ。ドコモ「応援学割」のCMが象徴的だ。彼女の必死さを見せるにはもう過去の映像を見せるしかない。ヒットチャートを見るとSKE48やNMB48が後ろから急激に追いかけてきている。もともとAKB48のファンだった人たちがそちらに移ってたりしているのだが、それはやはり、国民的アイドルとして不動の位置を確保したAKB48よりも彼女たちの方がもっと必死に見えるからではないか。
前田敦子の卒業劇に関しては彼女の意思でという話になっているけども、そんな甘いものか。AKB48はいまや巨大利権だ。いろんな人や組織が複雑に権利を分け合っている。「じゃあ仕方ないね」といった話にはならんだろう。話の発端が彼女からだったとしても、「その方がAKB48にとっていいんだ」という画が描かれているのは間違いないと思う。まあそのへんの真相はそのうち関係筋から耳に入ってくるだろうけども。
今後、AKB48は新陳代謝を繰り返すだろう。登れば登るほどコア価値である必死さが見えなくなるというジレンマと闘いながら。でもアイドル界全体としての「必死」競争はしばらく続くんじゃないかと思う。