尾崎の反抗、おれの反抗

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朝日新聞の社説が波紋を呼んでいるようだ。要点を言うと「今の若者はもっと尾崎豊の反抗精神を学んでもいいんじゃないか」ってことだが、尾崎という人間すら知らない世代にそんなん押しつけてどーするとか、WEBでいろんな異論が出ている。
僕もこの社説から大きな違和感を得た。でもそれは「反抗」という言葉の定義についてだ。尾崎豊は「ここではないどこか」に行きたいという反抗精神を歌っていた、ということだけど、窓ガラス割ったりバイク盗んだりするのが反抗だという発想がなんだか貧弱だなあ、と感じたわけ。
僕は大阪の貧乏な家に一人っ子として生まれた。なぜ他に兄弟がいないのかと聞いたら、養う金がないという返事だった。親は僕に、京大に入って大阪市役所に勤めろという。僕は役所の仕事を馬鹿にしているわけではないが、とにかく自分には向いてないと思った。しかし親はそういう発想しかできない人だった。「ここではないどこか」に行かなきゃいけないと思った。そして、そこから逃げるためには東大文一に入る以外なかった。それが自分の反抗だった。 僕はガラス割ったりバイク盗んだりしても何もならないということがわかっていた。
いま、ガラス窓の割れている学校はあまり見ない。成人式が破壊されたというニュースも聞かなくなった。学校が荒れてなければ若者は反抗していないということなんだろうか。そうじゃないだろう。目に見えない反抗をして「ここではないどこか」へ行こうと企んでいるヤツらはたくさんいるはずだ。そういうヤツらに、バイクも盗めないようじゃあと嘆くのはあまりにトンチキだ。
そも、尾崎が歌いたかったのは反抗なのか。そこも違うと思う。彼はかなり心の弱い人だったろう。それをむき出しで表現していただけだ。心が弱すぎて早世してしまった。
歌というのは現代人にとってどういう価値があるのか。カラオケがなぜストレス発散になるのか。歌というのはその人の心の弱さを大声で述べることが認められている表現手法なのだ。もしあなたが居酒屋で毎晩「どれくらいの値打ちがあるだろう?僕が今生きているこの世界に」なんてつぶやいてたら、「うわ、キモ」「酒が不味くなるからやめろ!」と嫌がられたり怒られるに違いない。ところがミスチルがステージでそれを歌にすると観客総立ちで泣いたりする人も出るし、カラオケで歌っても拍手がもらえる。好きな人に振られて泣いたとか、自分の恋人のことばかり毎日思ってるとか、どう生きていけばいいかわからないとか、日常で口にすると「なんて陰気なヤツだ」と皆逃げていくような心の弱さを大声で述べられるのが歌なのだ。
僕も尾崎をよく歌う。「15の夜」とか「卒業」はピンと来ない。でもクリエイティブでメジャー目指してもがいてる人に「シェリー」は心に響くと思う。もし今の時代に尾崎がいたら、ニートの心情を丸出しにした歌を歌ったかもしれない。バイクを盗む歌は歌ってないと思う。