「生きた言葉」を書けない人に

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無料広告学校をやっていると、広告クリエイターを目指す人の中にも、どうも、「遊ぶ」表現と「外す」表現の違いがわからない人が増えて来ているように感じます。

「外す」というのは、間違えているということです。
クライアントの課題感を間違えて掴んでいたり、ターゲットインサイトを間違えて捉えていたり、商品優位性の伝え方が曖昧だったり、そういうことを指します。
「遊ぶ」のは、大いに結構なこと。
これは、ターゲットのノリのようなものと波長を合わせ、彼らの関心をグッとこちらに引き寄せることなので、忌避すべきではなくやるべきことなんです。
「遊ぶ」と「外す」をごっちゃにして、表現は硬くて全く気持ちをアゲてくれないのに伝えるべき内容は間違えている、みたいなケースが多いんですよね。

特にキャッチコピーがそうで、教科書みたいな言葉使いをしているわりには言ってることが意味不明だったり。
たとえば昔、僕は毎年PlayStationのブランドスローガンを書いていたのだけど、
「今年は待望のソフトばかり。PlayStation」
なんて言葉よりも、
「キタ、キタ、キタ!PlayStation」
の方がゲーマーの気持ちをグッとつかめる、ということはわかりますよね。
もっと生きてる言葉を使わないとダメ、と教えるのだけど、「生きてる言葉」がどういうものか、どうもピンと来ないようで。

それで、ちょっと考えた。
僕は50年来の漫画マニアだけど、台詞の一言一言にメチャこだわる漫画家がいるわけですよ。
そういう人たちの漫画を読むと、言葉の選び方、使い方、こだわり方、外さない遊び方、が肌で感じ取れるのではないだろうかと。
たとえば沙村広明。
「無限の住人」の原作者ね。
「無限の住人」は、始まった頃は異形の剣士たちが戦うグロっぽい内容でした。
殺した女たちの頭を両肩に縫い付けてる剣士とか…。
でも、途中からそういうのはいなくなって、それぞれ信念を持つ剣士たちが戦う内容になっていったのだけど、読者をぐいぐい引っ張っていったのは綿密なこだわりの台詞回しだと思っています。
で、この人が現代設定の漫画を描いた。
「波よ聞いてくれ」。
カレー屋のウエイトレスがひょんなことで地元AM局のDJをやらされるという内容で、凄いストーリーがあるわけでもない。
でも、台詞がとにかく練られてる。
生きてるんですよ。
読むとなんだか「恐れ入りました」ってかんじになるんですよね。
自分が持っている言葉の「幅」のようなものがいかに狭いかを思い知らされるというか。
コピーライター志望の若手は1巻だけでも読んでみることを勧めます。

後は平野耕太とか。
「ドリフターズ」はファンタジーモノなので、現代に生きてる言葉が使われてるってわけじゃない。
でも、台詞へのこだわりはハンパないものを感じます。
最新の第6巻が11月30日に出ますが、前巻から2年ぐらい空いてるんじゃないかな。
僕は最近やや厭世気味で、今はこれを楽しみに生きているようなものです。
もうちょっと筆を速めてくれよと思うものの、平野耕太の遅筆のおかげで延命しているのかもしれない。
話は逸れてしまったけど、言葉を稼業にするのであれば、こういったものも読むといいですよ。
職種は違えど、良い意味でなんだか負けた気分になるはずです。