この業界の片隅に

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「この世界の片隅に」を観ました。
ショックを受けました。
観終わってから妻とランチしながら映画について少し話をしたのだけど、自分が受けた衝撃、自分の中に澱のように残っているもの、その時にはうまく言葉にできませんでした。
それで、原作のコミックを買うことにしました(紙はすでに廃版になっていたので仕方なく電子書籍を。双葉社には「このビジネスチャンスをどう考えとんの!」と問うてみたい)。

コミックを読み終えて、自分の中でやっとこさ整理がつきました。
この映画・コミックのテーマは、
「普通でいられることの貴さ」
なんですね。

映画もコミックも、僕が最も好きなのは冒頭のシーンです。
主人公がまだ子どもの頃、お使いを頼まれて海苔を届けに行く。
乗せてもらった川船の船頭に、兄の代わりに中島本町まで海苔を届けに行くのです、届けたらお土産を買うて帰るのです、と律儀に、照れながら嬉しそうに話す。
ここに主人公の魅力が全て詰まっていて、映画が始まって数分、タイトルが乗る前のこのシーンですでに僕はうるうる来ていました。

この映画ではとにかく主人公に魅せられてしまいます。
特殊な能力としては、絵を描くのがうまい、ぐらいで、普通に礼儀正しく、普通に律儀で、普通に働き者で、普通にドジで、普通に照れて、普通に笑います。
彼女の一家も、嫁ぎ先の一家も、普通です。
いつもゲラゲラと笑っています。
食糧難、物資難が厳しくなっていってもそれを知恵で乗り越えようとして、失敗しては笑います。

彼らの普通がとてもまぶしく見えるのは、彼らの住む異常な時代とのコントラストでしょう。
出征していた主人公の兄の遺骨箱に入っていたのは石ころが1コ。
それを脳味噌かと思ったと言って笑いますが、異常の中で普通であろうとすることが、主人公たちの戦いだったのかもしれません。
もしこれが70年代の話だったら。
ただ平凡で退屈なだけのストーリーになっていたろうと思います。

この映画について、冗長で退屈だ、と言う人もいます。
そう感じるのも逆説的に正しく、そこには理由があります。
原作のコミックは物語上の1ヶ月が1回、を基本として連載していたようです。
何年何月に呉でどういう事件が起きたかを調べ、それにからめてエピソードを創っているのです。
そうすることで、彼らと同じ時代を同じペースで生きる感覚を共有できるように、という狙いがあったんでしょう。
映画は原作にできる限り忠実に作られており、毎日を淡々と、なるべく過度な表現をしないで普通に描いていく、というペースもまた原作に忠実なのです。

この映画は反戦映画のカテゴリーには入らない、というか、入れにくいです。
憎しみの対象となる固有名詞が極力排除されているからです。
「鬼畜米英」どころか、「アメリカ」「イギリス」という単語すらほとんど出て来なかったのではないでしょうか(僕の記憶では)。
原作では教科書の落書きで東条英機をからかった替え歌の「トージョー」をわざわざ「センセー」に書き換えています。
つまり、戦争を起こしたのは誰だ?戦争が起きる原因は何だ?という、観客/読者の心の矛先がどこにも向かわないようにしているわけです。
悪いのは戦争だ、という短絡的な結論ではなく、異常な世界の一例として戦中があって、そこで生きる普通の人たちのまぶしさに観客/読者の意識を向かわせるという、前代未聞の工夫がなされているんです。

原作者のこうの史代は「夕凪の街 桜の国」でいろんな漫画賞を授賞しこれが代表作となりました。
原爆被災者の投下10年後を描いたもので、「このセカ」よりもシリアスで救いのない話ですが、それまでの彼女の作品はショートコメディばかりです。
気になってそれらもいくつか読んでみたのですけど、やはりテーマは一貫してるんですね。
「普通でいられることの貴さ」
です。
結婚した女性の元へ、彼女が昔好きだった男性から結婚報告のハガキが届く。
彼女の夫が帰宅すると妻の様子がいつもと違うので、何かいいことあった?と聞く。
ありました、と答える。
自分が大切にした人が幸せになることをそのまま幸せに感じてニヤニヤしてしまう、そんな人のそんな感情表現がとても巧みなのですが、まるでファンタジーのようです。
僕は、映画の冒頭のシーンでうるうる来てからなぜか最後まで泣くことはなかったのですけど、それから3日ぐらいこうの史代の他のコミックに触れて、何だか泣きたくなってきています。

かなり斜めな言い方になりますが、個人的にこの映画は、ヒットしない方が良かったんじゃないかとも感じます。
現代が異常になっていることの一つの証左のように思えるからです。
あなたが普通に幸福な世界の住人なら、この映画はただ戦時中の毎日を丁寧に描いただけの退屈なものと受け取るんじゃないでしょうか。
この映画の、登場人物の魅力にやられる人は、自分の世界が何らか異常と感じている人である気がします。
原作では、
「この世界のあちこちのわたしへ」
という1行から物語が始まります(これは原作者の思いを含む重要な1行で優れたコピーと思うのだけど、なぜか映画では広告も含め使われていない)。
僕の棲む広告業界はもう、かなり異常になって来ています。
コンサルとしてクライアント側の話を聞くと、エージェンシーへの不信が溢れかえります。
でもエージェンシーと仕事していると、クライアントにとんでもない目に遭わされている姿を目の当たりにします。
その溝を少しでも埋められないかと微力を尽くしますが、自分ごときの力ではどうにもなりません。
優秀で真面目な人が、また一人、また一人と神経をやられて休職していきます。
僕の業界と「この世界の片隅に」の世界はどこか地続きであるように感じます。
そして、自分もどんなことがあってもあのように笑えていられたらなあ、と今日も落ち込むのです。