USAという実験は失敗したのか

Share Button

実はずっと以前からしっくり来ない、というか、何となくの違和感を抱いていました。
アメリカが「国」である、ということについてです。

僕が持っている「国」という感覚は、同じ血脈の、同じ歴史と同じ文化を有する人たちが、同じ地域に集まって、同じ未来へ進んでいく共同体、といったものです。
誤解なきよう言っておきますが、日本において少数民族は日本国民ではないなどと主張したいわけではありません。
「国」を形成するもの、国民の一体感を生み出すものは何なのか、ここらでちょっと考えてみたくなった、ということです。

こういった感覚はもしかすると日本人特有のものかもしれないなあ、と思ったりもします。
島国的?な発想なのかなあ、他民族や多文化が入り乱れるのが世界的には国として普通のことなのかなあ、と。
しかし、世界では今でも民族の独立紛争が絶えない。
それは経済の損得を超えてでも、という観があります。
やはり人間は本能に近い部分で、まず「血脈」を同じくする者同士でまとまりたい、という原初的な欲求があるんじゃないかと思います。
そこには進化心理学上の合理性もあります。

そう考えると、たとえば日本のような人々の集合体と、米国のような人々の集合体を、「国」という同列で見ていいんだろうか?
何となく僕には、米国って人類史における壮大な実験場のような感覚があるのです。
果たして、全く血脈も歴史も文化も異にする人たちが、一つになることができるのか、という。
それをまとめてきたのは「理念」だったと思います。
ハリウッドの映画やドラマでは「FREEDOM!」って一回は誰かが叫びますよね。
古代とか中世の話でも「FREEDOM!」。
そんな時代や世界にそんな概念あったのかよ、という考証はすっ飛びます。
「Vikings」というドラマはハラハラするぐらいキリスト教を貶めていたけど、「FREEDOM!」はやっぱり何度か言ってました。w
米国ではこういった理念こそが、それこそ宗教以上のアンタッチャブルな最高位に置かれているのでしょう。
それは、理前を叫び続けなければ米国という共同体が根底から揺らいでしまう、ということを知っているからではないでしょうか。
自由主義、民主主義の旗の下に皆一つになるんだ、という共通の強い意思の下に国民はまとまってきたのだと思います。
そして、様々な問題を孕みつつ乗り越えつつ、血脈に頼らず人々は理念で同じ方向へ進むことができるんだ、それを証明してみせる、という奮闘に対して世界は一目上の存在と見做してきた気がします。
強力な経済力、軍事力もあるでしょうが、米国に対する畏敬の根源はそこではないでしょうか。

また、米国は世界の実力者が集まる偉大な研究所、あるいはアリーナ、という面もあったでしょう。
ナチスの迫害から逃れたユダヤの学者が目指したのはアメリカでした。
その中のユダヤ系イタリア人が開発したのが原爆。
また、ナチスV2号の開発者も米国は受け容れます。
彼が飛ばしたのがアポロ。
どんな出自であっても歓迎、という器の大きさが国力の基にもなっていたわけで、米国民自身、そこに誇りと希望を感じていたはずです。
米国で成功する人には桁違いの報償が与えられ、それは「アメリカン・ドリーム」と呼ばれました。
あらゆる業界で秀でた人物は自分の実力を試すためにこぞって米国に渡ります。

しかし今回の大統領選で、僕らには「米国の何もわかっていなかった」という痛感がありました。
アメリカのプア・ホワイトと呼ばれる人たちはアメリカン・ドリームに疲れ果てていました。
自由競争はもう勘弁だと。
アメリカのドアというドアを全て閉めてくれと。
米国の知人がSNSで”States is not United”と嘆いていました。
トランプ氏の唱えているものは、これまで米国民を一つにまとめてきた理念の逆です。
国民の過半数が、保護主義への逆行を支持し、非グローバリズムを支持し、分裂を支持したわけです。
日経新聞のコラムにも書かれていましたが、これらはかつてケネディ大統領が訴え、国民を熱狂させたものの真反対です。

米国民は今後、どうやって一体化を守っていくのだろう?
どういう「国」になるのだろう。
そして、敬意を失った世界とどのようなパートナーシップを結んでいけるのだろう?
自分には想像がつきません。
USAという壮大な実験は失敗していくのでしょうか。