僕が博報堂辞めた理由

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最近、若い人が電通辞めたとか博報堂辞めたとか、そんな話がネットで大きく取り上げられ、称賛を受けている。僕は13年前に博報堂を辞めて独立した。僕の周囲の多くの人が誤解しているが、僕はそもそも独立をめざしていたわけじゃない。会社に骨を埋めるつもりだった。そのあたりの話を書いてみる。そういうヤツもいるということで、転職であれこれ考えている人たちが何かの参考にしてくれればいいと思う。
僕はプレイステーションの立ち上げからずっとその広告を担当してきて、当時、かなりのゲーム通になっていた。その頃、東北新社はPS用ゲームの制作もしていたのだが、その部門の長が古くから親しい方で、僕にアドバイザーとして面倒を見てくれないかと依頼してきた。僕は快く引き受け、そのチームとも深いつき合いになっていった。ところが東北新社はゲームから撤退することに方針を変更し、チームはバラバラになることに。彼らはいまさらゲーム以外の仕事はできないということで、独立して仕掛かりプロジェクトの制作を続行することに決め、その会社をいっしょに立ち上げてほしいと僕に懇願してきた。僕は悩んだが結局それを見捨てることができず、博報堂にその旨を報告した。後からいろんな人に言われたのだが、黙っていればよかったのに馬鹿正直に報告したことで、それがかなりこじれることとなる。
博報堂は社則として、社員が別法人を運営することを許可していない。それで、もしそれをやるなら退職するしかない、という役員もいれば、実際はそんなもの有名無実だろうという役員もいて、上の方で喧々諤々が一ヶ月も続いた(裏を返せば、それだけ大事にされていると言うことであった)。最終的には、ある条件さえ守ればやっていいよという結論だったのだが、なんとなく残りづらいムードとなってしまった。僕は窮地に陥ってしまった。
僕が博報堂に入社してすぐにバブルがやって来た。会社やプロダクションのお金でずいぶん遊ばせてもらったし、仕事でもわがままばかりさせてもらった。自己中心的なやり方で、広告賞を獲ることしか考えてなかった。イヤなヤツだったと思う。30代になって、クライアントと直接対峙し大きな仕事を動かせるようになってきて、会社に対してその「借り」を返せるなと思っていたところだったから、辞めようなんて気持ちは微塵もなかった。それに仲間意識も強かった。当時の博報堂、特にクリエイティブは電通に対して心一つにして戦うぜという強い気持ちで結束していたから、そこから外れて一人になることに大きな寂しさがあった。
そんなことを察してか、僕の元上司が「独立していいんじゃないか」と諭して来た。おまえの力なら独立してもやっていけるよと。それに、外でネットワークを作ってくれればそれが博報堂のネットワークにもなると。当時、博報堂の主なクリエイターで独立していたのは大貫さんと谷山さんぐらいで、独立には大きな不安がつきまとう時代だった。3年はおれが仕事の保証をするから、3年は博報堂の競合に回らないようにしてくれと言われた。有り難いと思った。博報堂はそんな、辞めた仲間も支えてくれる会社だった。
僕は独立し、約束を守った。博報堂のすぐ近くに事務所を借り、3年は電通など競合代理店の仕事は受けないようにした。大島さんに呼ばれて電通でセミナーをやらせてもらったことがあり、電通と仕事しないかと誘われたが固辞した。ホントはやりたくてたまらなかったんだけど。独立して4年目にADKで「AirH”」の仕事をやらせてもらったのが、博報堂以外の国内代理店での初仕事だった。今では電通、ADK、東急、大広などに親しい人もたくさん増え、幅広く仕事をやらせていただいている。それはまた別の有り難い話だ。
独立後、博報堂とはPSをめぐってケンカした。1,2年ほど外れた後、SCEから呼び戻されて復帰するなど、いろいろあった。今ではいちばん関係のいい代理店、というわけじゃない。でも、自分にクリエイティブを教えてくれたのは博報堂だし、その恩は忘れていない。あの時果たして辞めるべきだったか、今でも悩む時がある。確かに独立してガーンと金が入ってきた。渋谷に家も建った。でも、博報堂に居続ければ、今以上にいろんなことが学べたはずだし、今以上の人脈が得られたかもしれない。今以上に世の中を大きく動かす仕事ができて、今以上に社会に貢献できたかもしれない。今以上に、会社の仲間たちとひとつの仕事をやり遂げる、という達成感が得られたかもしれない。いったいどっちが良かったのだろうか。答は永久に出ないと思う。