2014年11月3日
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自分の本の「コピー」の話

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先週発売した「ここらで広告コピーの本当の話をします」ですが、予約開始日からAmazonの広告宣伝カテゴリーでずっと1位、書店の引きも良く、おかげさまで出だし好調のようです。 その勝因はおそらくただ1つ。 「コピー1本で百万円請求するための教科書」という帯コピーでしょう。 僕は本の中で広告コピーのベースとなる戦略の重要性を書いていますが、それになぞらえて、この帯コピーに込めた作戦をここで紐解いてみます。 まず、主ターゲット。 これは若手コピーライター、コピーライター志望者としていますが、正確には「ビジネスがうまくいってないと感じているコピーライター」です。 「コピーがうまく書けないと感じている」人たちではないということ。 USP(Unique Selling Proposition)。 これは、「コピービジネスがわかる」コピー本ということ。 コピーライターたちが書いて来た今までのコピー本は、こうすればコピーがうまくなるとか、自分はこんなふうに書いて来たとか、そういう内容のものばかりですが、そういうものとは切り口が違うわけです。 若いコピーライターを見ていると、「自分はコピーが書ける」と思ってる人はとても多いように感じます。 けっこう自信満々。 でも実際の現場では、まったく自分の案が採用されなかったり、ぜんぜんお金がもらえなかったり。 養成講座では金の鉛筆もらってほめられたのに、これはどうしたことか、糸井さん、仲畑さんの時代は1本1千万円とか聞いてたのに、この差はなんなのか、わけがわからなくなっている。 そういう人たちがあの帯コピーを見て、「これだ」となっているのでしょう。 つまりコピーが、主ターゲットにとって、商品の価値を創っているわけです。 もし帯コピーが「〇〇さん推薦!こういうコピーの書き方があったのか」みたいなものだったら、「またか」「もういいよ」となっていたかもしれません。 つまりそれではターゲットにとって価値がないということです。 本の中で書いた、「コピーが価値を創る」という意味が、わかってもらえるでしょうか。 余談になりますがこの発想はもともと僕のものではなく、宣伝会議さんのものです。 若いコピーライターたちがビジネス的に行き詰まっている様子に心を痛めていて、そこを何とかしたい、という依頼だったんですね。 そこに、ちょっと愛のようなものを感じました。 僕はそれを本というカタチで整理し、そのコンセプトをコピーにしただけ、とも言えます。 個人的には読者は広告会社の営業さんなど、業界全般を意識してます。 そういう内容にもなっています。 ただターゲットを広げすぎるとかえってシュリンクしますので、そこは表には打ち出してません。 前著が出版社の意向で一般人にも広げようとしたら大外ししましたし…。 それもまた戦略です。

2014年5月13日
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知的障害者アート、いい。

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ずいぶん昔ですが、岡本太郎が子どもたちの美術作品を批評するという企画をTVでやってました。 彼は、小学生が創ったものはだいたい「いい」と言う。 中学生が創ったものは「よくない。ちゃっかりしてる」と。 美術教師が創ったものは、評価する価値もないとばかりに首を振る。 計算や理屈が入ってくると、美術はとたんに力を失ってしまう、と彼は言いたかったのでしょう。中学生ぐらいになるともはや「ちゃっかり」してしまうのです。 長女が幼稚園の頃、干支の動物の絵を描かせてそれをそのまま年賀状に使ったことがありますが、映画監督の行定さんがエラくそれを気に入ったらしく、「あの年賀状はナンバーワンですよ!」とずいぶん言われました。理屈のないものに、理屈で生きる大人は勝てないことがあるのです。 アートとは、いわば、左脳を封じ込めるための戦いなのかもしれません。 理性を押し込めて狂気を引き出すという、常人には難しい所為ができることを「アートの才能がある」と言うのでしょう。 そう考えると、最初からアートの才能を持ってそうな人たちがいます。 知的障害者です。 日韓共催のワールドカップの頃、知的障害者の団体が当時の人気選手、ベッカムやルーニー、ロナウドなどの似顔絵Tシャツを通販で販売してました。 おそらく厳密には肖像権問題などをクリアしていたとは思えませんが。 僕はそれにとてつもなく「感じる」ものがあって、数着購入。 見る人によってはただの落書きでしかなかったかもしれませんが、そこには自分の体内の枠というか、何かを破壊するパワーがあったのです。 先日、東ちづるさんが理事長を務めるGet in touchのイベントに顔を出しました。 https://www.facebook.com/getintouchjapan 知的障害者のアート展です。 やはり、どれも良かった。 気に入った作品が一つあって家に飾りたくなり、「売ってほしい」と粘ったのだけど描き手の意思が確認できないということで断念しました。 彼らが描いている様子を映像で見たのですが、理屈も邪心もなし。 ただ、己が描きたいままに楽しんで描いているだけ。 これはまさにアーチストが理想とする姿ではないでしょうか? 障害者の仕事といえば、「彼らにもできる」的捉えられ方をされるのが通常だと思いますが、アートでいえば、「彼らの方ができる」のですよ。 そもそもの資質は、彼らの方にあるから。 展示会を見ていてひとつ残念だったのは、障害者のアートを使った新聞広告。 元の絵には力があった。 ところがそれを理屈でレイアウトしてしまったために、結果、力のない綺麗事表現になってしまってました。 障害者の仕事として一段下に見て、それを拾い上げてやる、という健常者的傲慢さがなかったでしょうか。 僕なら、画面を2分割し、絵は絵として、いじったりコピーを乗せたりしないでそのまま置いたと思います。 ゴッホのひまわりやムンクの叫びを切り貼りはしません。 知的障害者アートには力がある。広告表現にも使えるかもしれません。 しかしそれは巨匠の絵画や写真を扱うように扱わなければいけないと思います。 僕らの方が下なのです。

2014年4月16日
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インターン志望学生さんへのメール

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**さま はじめまして、小霜です。 まず、僕の仕事と僕に興味を持っていただいたこと、感謝です。 さてインターンの件ですが、結論から言うと難しい。 理由としては、そこでたいした「学び」はできないと思うから。 他者との共感が幸福感につながるという考え方は、正しいです。 たしかそれは科学的にも証明されていたような。 しかしそれを為すためには力が必要です。 その力とは、体験であると思います。 もっとかみ砕いて言うと、遊びです。 女の尻を追いかけ回すとか、趣味に没頭するとか、ギャンブルにはまるとか、酒に溺れるとか、世界一周してみるとか。 若い頃に必要な「学び」とは、そんなことから得られる体験であろうと僕は思います。 あなたが今すべきことは、世界一周を再開することではないでしょうか。 その体験が、あなたの血肉となり、あなたの求める共感力の支えになるはず。 もし日本で何かしたいのなら、キャバクラの付け回しとかやってみたらどうでしょう。 現代に生きる女の子の赤裸々な本音が見えてくるかもしれません。 人間ってカッコ悪いなーとか、でもがんばってるなー、とか、えっあのコ母親だったのか-!とか、 そういうのに触れることは大きな「学び」です。 あなたも含め、昨今の学生さんたちは会社に入る前から会社員としての予行演習をしたがるようだけど、それは間違い。 頭でっかちの人に入社して来られても、使えたものではありません。 企画やコピーの全てが「仏作って魂入れず」になるんです。 僕が若い人相手に広告学校をやっているのも、その点はやや矛盾があると言えます。 もし僕に、直に話が聞きたいと言うことであれば、 今日の夕方以降か明日の15時~16時なら時間が取れるので連絡ください。 あ、そうだ、このやり取りをブログで公開してもいいですか。 これは広告業界志望の学生さん皆に言いたいことでもあるので。 もちろん実名は伏せます。 では、よろしくお願いします。 小霜和也 no problem LLC. 150-0001 東京都渋谷区神宮前5-47-13 青山パインビィレッジ401 Tel. 03-5766-0318 Fax. 03-5766-0319 www.noproblem.co.jp … Continue reading

2013年2月24日
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部下募集いったん打ち切ります

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前回このブログで部下募集の告知をしましたが、ここでいったん打ち切ります。 もしかしたら一人も来ないかもなー、と思っていたところ、予想を超える数の応募がありました。ありがたいことです。難解な課題に熱心に取り組んでくれた全ての応募者にお礼を言います。

2013年1月27日
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おれの部下なりたい人?

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おれの部下なりたい人いるかね。肩書きはコピーライターになると思うが、「言葉いじり」は求めない。アイデアを出せる人。広い意味でアシストしてくれる人なら採用したい。 これまでnp.で何人か若いコピーライターを採用してきた。しかし残念ながら、ことごとくやめたり、やめさせたりしてきた。採用する時は大いに見込みがありそうで、期待をかける。ところが仕事になるととたんに使えない。成長しない。この現象はなんだろうかと悩んでいたのだが、一つの仮説に辿り着いた。 採用時、彼らは自分の表現力をアピールするために、宣伝会議のコピーライター養成講座で書いたコピーを持参することが多い。そういった表現物や、あるいはこちらから出した「〇〇のコピー」「〇〇のCM企画」を考えなさい、といった課題への回答を見て独創的なものがあれば評価するわけだが、そこに落とし穴があることに気づいた。それが独創的であっても「出題側の意図をどこまで汲み取って考えられたものか」がわからないのだ。僕は広告学校の最初の講義で、広告クリエイターにとって最も重要な資質は「思いやる力」であると話す。その商品のターゲットである生活者の気持ちになれる能力、そしてクライアントの思いや、エージェンシーの人たち、 CDやデザイナー、プランナーなど他のスタッフの意図や意思を汲み取れる能力だ。以前、コピーライター養成講座の受講生たちに「ターゲット視点は習ったよね」と言ったらそこにいた全員が聞いたこともないと答えて愕然となった。まあ、それはたまたま彼らが当たった講師がいい加減だったのかもしれないけども、若い人たちは広告についてかなり間違えた概念を抱いているようであり、思いやった上でコピーや企画を考えることのできない人が実に多いのだ。 広告クリエイティブほどチームワークが必要な仕事もない。広告は大人数がかかわるプロジェクトだ。各スタッフがそれぞれの役割と責務の下、ひとつの方向を目指し、ひとつの表現物を作り上げ、世の中に露出する。コピーライターならまずCDが何を求めているか理解しないといけない。デザイナーがどういうビジュアルを作ろうとしているのか予測し、それと相乗効果をもたらすようなコピーを考えないといけない。のだが、それどころか、たとえば時間すら守れない人がいる。何日何時までという期限があるのに、その1時間ぐらい前になって「まだできてません」とか言う。それが他のスタッフに迷惑をかけるという想像ができない。1案だけしか持って来ない人もいる。自分はこれがいいのだと、愚にもつかない案にぐだぐだとこだわってみんなの時間を奪う。そういう人たちは極端な例としても、ほとんどの若いコピーライターが手前勝手にしかコピーや企画を考えられない。ターゲットや他のスタッフを見ないで自分しか見ていない。クライアントの話、CDの話を聞いているようで何も聞いていない。聞くことの意味もわからない。「そうじゃなくて、こう考えなさい」と言うと「わかりました!」と返事は気持ちいいが、また同じ間違いをする。なぜ自分のやり方ではダメなのか?どうすればいいのか?という自問自答をしない。そして「自信がなくなりました」とやる気をなくしてしまい、何の成長もないまま存在理由もなくなってしまうのだ。 広告コピーとは何なのか、コピーライターとは何なのか、根本から誤解している人が多い気がする。そもそも、自信だって?実戦でろくにコピーを書いたこともないような人が、どこで自信を?僕もそうだし、米村も同じだと言っていたが、僕らはそもそもクリエイティブの仕事をうまくやれるなんて思ってもなかった。今でもそうだ。再プレ上等。もっと優れたアイデアを見ると、そういう発想があったかと、ひとつ得した気分になる。だから今でもどんどん自分が膨らんでいる実感がある(体重という意味でなく)。仕事もしないうちから自信があるなどという若者たちは、たぶんコピー学校でほめられたのを根拠にしているんだろう。でも、そういう人はよく考えてほしい。いわゆるコピー学校はコピーを書く側がお金を払い、コピーを評価する側がお金をもらう仕組みだ。君たちはお客さんとして褒められてるだけだ。君たちが進もうとしている仕事の世界は、お金をもらいながらほめられないといけないんだぞ。その圧倒的な違いがわかるかね。僕らはお遊びで広告を作っているわけではない。クリエイティブ・ビジネスをやっているのだ。手前勝手におもしろおかしなコピーを書いていればパトロンのような人物が現れて「ほう!このコピーはいいね。100万でどうかね?」なんてことは起こりえない(もし信じているとすれば冴えないオタクの前に突然美少女が現れる系ラノベの読み過ぎだ)。じゃあどういうコピーが金取れるんだよ!と心で唸った君のために 「クライアントにお金をもらいながらほめられるコピー」について数例を挙げてみる。 JAXAが宇宙ステーションで芸術活動をしている。そのブックレットの制作依頼があった。僕は宇宙飛行士が水の塊を浮かしたりしている様子を思い浮かべて、「お遊び」みたいなヤツか、と思った。しかしすぐに、そう思われていることこそが問題なのではないかと考え直した。そんなお遊びに立派な大学教授たちが関わるわけがないし、大きな予算がつくはずもない。よくよく考えるとこれは相当に重要な活動ではないかと。なぜなら、過去人類の芸術活動は全て重力の制約を受けていて無意識でそれが当たり前になっている。彫刻などの造形物は特にそうだ。無重力なら地上ではあり得ない造形物が可能となる。 ここから芸術の次のステージが始まる可能性がある。そこで、僕はブックレットのタイトルとコンセプトを「重力からの芸術の解放」とした。JAXAの人たちは、まさにそういうことが言いたかったんです、と喜んでくれた。 つまり、僕がやったのはコピーによってプロジェクトの価値を引き上げようってことだ。価値がないって思われたら予算取りも難しくなるだろう?Reebokの商品は、どれも独自の機能や性能を持っている。それを「反則?テクノロジー」と呼んでいるわけだが、特化した機能のないウェアが発売されることとなった。機能よりファッション性を重視したカラフルなデザインなのだが、Reebokのシリーズとしてどういうセールスコピーを付けていいか悩ましい。僕は「色彩効果」を調べてみた。すると、色が情動にいろんな影響を与えるらしいことがわかった。そのウェアの色はアドレナリン分泌をうながすと言えそうだったので、「アドレナリン・デザイン」というコピーを提案した。もちろんクライアントは大喜びした。 コピーがお金になるのは、そのコピーが商品の価値を高める時だ。いわゆる「キャッチコピー」というのはたいしたお金にならない。「つかむ」だけなら言葉でなくてもいいし、「つかむ」だけのコピーにクライアントは価値を見いださない。 巷のコピー学校ではあたかもコピーと言えばキャッチコピーであるかのように教えているようだが、それは大きな間違いだ。 もちろん、強いキャッチコピーが必要な局面もあるだろう。そういう時は、そういうコピーを書かなければいけない。繰り返すけども、大事なことは相手が求めるものを的確に読み取り提案する、意思と能力があるかどうかだ。 仕事の原則とは、誰かを喜ばせて対価を得る、ということ。広告クリエイターは例外、ということはありえないのだ。 もしnp.に入社したら、君の仕事はまず、雇い主でありCDである僕を喜ばせることである。具体的に言うと、僕が発想できない、あるいは見落としているアイデアを出すことだ。たいていの人は「これでいいでしょうか」と提出してくる。まさに自分しか見ていない。ここは学校じゃないんだよ!「それでいい」と僕がわかっているものなら、最初から自分で書く。この発想はなかったな、とベテランが思えるものを提出するのが若者の役割だ。そうやってCDを助けるんだよ。そういう意味で言えば、僕の部下としては女性の方が有利かもしれない。 そして、いろんなスタッフやエージェンシー、クライアントの人たちを喜ばせることで、自分のチャンスと可能性を拡げていくのだ。「かわいがられる」ってことだ。誰からもかわいがられないで成功したクリエイターなどいない。僕は新人の頃、安藤さんという人にかわいがられた。POOLの小西君は僕にかわいがられた。大貫さんや谷山さんは宮崎さんという人にかわいがられた。おかげさまで、僕が今でも何とか仕事を絶えずにいただけるのは、僕をかわいがってくれている人たちが存在するからで、その理由は彼らが求めるアイデアを出すからだ。正確にはいっしょに楽しめるアイデア、ってことかな。 なぜこれをnp.の公式HPではなく個人ブログに書いたかというと、何となく、オフィシャルに公募、という気分でもないから。正直言えば自分の求めている人が簡単に見つかるとは思っていない。そんなに期待していない。でも、もしかすると自分の知らないところにいい人材が隠れているのでは…?という一縷の望みも持っていたりするのだ。 話が長くなったが僕が求めているアシスタント像をまとめてみる。 まずは上でくどくどと述べたように、思いやる力のある人。誤解しないでほしいがこれはクライアントの言いなりになるということではない。相手の期待にサプライズを持って答える意思と能力のことである。僕は広告学校で「2案発想」を勧めている。相手の意図をしっかり汲んで考える案と、自分ならこういうのがいいという案。プレゼンでも社内打合せでも「2案発想」が基本だと思う。これができる人。 何でもやりたい人。「3Dプリンター買っていろいろ試してみたいんですが」と言ってくるような人がいい。コピーは昔のコピー年鑑にはなく、時代との関わり方の中で見つかるもの。おかしな話だが、コピーは書けるが広告は考えられない、という人も多い。言葉をいじるしかできないという人は逆にコピーライターは無理。「コピーライター」という名称がもはや時代にあってない感はある。いまやコピーライターの守備範囲は広い。 あらゆることをやらないといけない。僕は大きな商品の市場導入戦略もやれば、CM企画もやれば、WEBも、店頭も、販促物もやる。スマホアプリも開発しているし映画制作にも関わっている。そんな中で、僕はコピーしか書けないので、という人は仕事がない。 大きな目線で時代を見られる人。広告の醍醐味は、世の中を動かす実感にあると思っている。たとえばプレイステーションを「ゲーマーのためのゲーム機」では なく「家族が仲良くなるためのゲーム機」と定義づけたのは広告だ。そのことに価値を感じた人たちが買ったことで商品がヒットし、みんなの生活が少し楽しく なったかも知れない。僕は常に時代を意識している。この商品をコピーでどう定義づければ、どう市場導入すれば、日本が少しハッピーになるだろうかと。一番 搾りのキャンペーンからご当地グルメが生まれたように、後々「君が楽しんでるあれはおれのアイデアが元なんだぜ」と言えるものをいくつ増やせるか。そうい うダイナミズムにやりがいを感じる人がいい。 自発性のある人。 与えられたものだけをやる、というような人は結局成長しない。自分の意見を積極的に出し、疑問を発し、あらゆることを耳でなく肉体で覚えることが理解するということであって、それが成長につながる。会議で端っこに座って黙々とメモを取るだけ、という人が実に多いけども、そういう人は会社と学校の違いがわかっていない。 遊ぶ人。遊ぶという意味は、人との関わり合いを楽しむということ。学生時代にアルバイトばかりしていた、女を追いかけ回してばかりいた、そういう人がいい。人間は何をすれば喜ぶのか、怒るのか、人間は何が情けないのか、素晴らしいのか、そういったことを身体で知ってなければクリエイティブの仕事なんて無理。上っ面のことしか考えられない。逆説的だがそういうことをしないでコピーの勉強ばかりしてました、という人は事務的な仕事が向いていると思う。 くだらないことを考えられる人。僕はイメージと実態にかなりの乖離があるらしい。理性的で筋の通ったものを好むように思われがちだが実はネイティブの大阪人だ。「くだらねえ!」「馬鹿馬鹿しい!」ものを好む。 そして、自分はだめコピーライターだなあと思っているぐらいの人がよい。 でも、チャンスを逃がさない人。どんなことをしてでも自分のコピー、自分の企画で決めてやろうという根性のある人。その気さえあれば、僕の会社にチャンスはごろごろ転がっている。 もしチャレンジしてみたいという珍しい人がいたら、www.noproblem.co.jpから連絡を。

2012年10月24日
by kossii
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足掻く。

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ベルセルクは13巻ぐらいまでがおもしろい。主人公たちが突然放り込まれた異次元空間。そこは大量の化け物たちの晩餐会場。主人公たちは生け贄として供出されたのだった。絶望しかない状況で、片眼片腕を失いながら、主人公はそれでも「足掻く」。 この「足掻く」という一言がずっと気に入っている。答えが見えなくても、どこに向かっているかわからなくても、足掻いていれば何かが見えてくるかもしれない。 僕はもともとクリエイティブの仕事など自分にできるわけがないと思っていた。もしあなたがこれまで野球のボールなど触ったこともないのに、入社した先の配属先が「野球部」などと告げられて喜ぶだろうか。僕にとってコピーライターという肩書きは絶望そのものだった。 僕は勉強はできた。というか、なぜか試験の点数を取る能力が優れていた。現役で東大文一に受かったし、どこか人生は自分の意のままになると感じていた。それが、突然異次元空間に放り込まれてしまった。もしかするとそこで補欠のような惨めなポジションになってしまうかもしれない。そんな人生はごめんだった。だから僕は足掻いた。 その当時はコピーライターのための本などは数冊あるかないか、ぐらいだったし、ネットもなく会社の上司や先輩以外から情報を集めるということもままならなかった。全て自分で試行錯誤するしかなかった。もちろんコピー年鑑は読んだ。それを書き出して、自分の書いたコピーと見比べたりした。自費でワープロを買った。写植に近い見え方で自分のコピーを見た方が、より実際の印象で判断できるんじゃないかと考えた。自分の興味のないコンテンツを知ろうと思った。恋愛映画とか昔の文学とかを観たり読んだりして気になる言葉をメモった。打合せでは先輩のコピーをどうやって出し抜こうかと考えた。自分のコピーが不採用になったら、採用されたもの以上にいいのを書いて、次の日にもう一回提出したりした。自分が関わった案件では、必ず自分のコピーがプレゼンされるようにした。そうやって、新入社員の頃から自分のコピーや企画がいくつも世に出て行った。 いま、プレゼンして、クライアントから「おもしろいですね」と褒められる。しかし自分は大いに不満だ。なぜならそれは僕の企画だからだ。ほとんど全ての案件で、若い社員のコピーや企画ではない。恣意的にそうしてるわけじゃない。まず若い人たちのアイデアを求めるのだけど、提案に値するものが出て来ない。そして彼らは不満そうに口を尖らせてすぐに白旗を掲げるってわけだ。 僕の会社、np.やHelpbuttonで請け負っているのはコピーだけじゃない。マス広告にも限っていない。WEBサイト構築、eコマース、ダイレクト広告、ブランド戦略、CI、エンタテインメントコンテンツ開発、そしてGamificationと、あらゆる依頼が来る。どれも前例のないものばかりで、「わかんねえよ」と匙を投げたくなる毎日。でも僕は足掻く。やっていることは新人の頃となんら変わらないなって最近気づいた。ついこないだまで「小霜君は若手のホープでして…」などと紹介されていたのが今週とうとう50歳になった。でも僕はまだ足掻き続けている。 新人が、自分のコピーが採用されないので「自信がなくなって来た」と言っていた。宣伝会議のコピー学校で褒められたぐらいで、すっかり自分はコピーライターとしてやっていけると思っていたらしい。だめですかーとか言いながら、そのうちどこかに消えていくのかもしれない。いまチャンスをものにできない人が、10年後、ものにできるはずはないからね。 僕の無料広告学校では、「君たちにクリエイティブなどできるわけがない」と教えている。奇跡を起こすしかないだろと。足掻いていれば天使が降りてくるかもしれない。その降りぐせをつけるのがベテランになるってことなのだと。残念ながら、理解してくれる者は今のところ一人もいないようだ。 僕はきっと60になっても見苦しく足掻いているのだろうなと思う。

2012年9月6日
by kossii
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コピー料=感謝料

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ブログアップがずいぶん久しぶりになってしまった。この夏は夏休みどころか土日も休めないぐらいだったから。 手が回らないので、若いコピーライターたちにコピーや企画を手伝ってもらった。そして、なんだか絶望的な気分になった…。 ざっくり言うと、なぜ、若いコピーライターたちは、仕事で役に立たないのか?ってこと。 結局、どの案件も時間を無駄にしただけで、自分が何から何までやることになってしまった。 以前から不思議には思っていた。たとえばコピーライターを募集する。課題を出して、コピーを書いてもらう。なかなか面白いコピーを書くな…と思った人を採用する。ところが、いざ実際の仕事になると、ちんぷんかんぷんのコピーしか出して来ない。その時のがっくり感ったら。 これは一体どういう現象なんだろう。 オリエンに連れていって、クライアントの商品への思いをいっしょに聞く。なるほど、なるほど、とうなずいているのに、それがコピーにまるっきり反映されていない。どこかで見たことあるようなレトリックが並んでいる。これじゃあそこらの商品のコピーと変わらんじゃないか?と言うと、泣き出したりする。その場に倒れ込む人もいた。この商品の優位性は何?と聞くと、ちゃんとしゃべる。わかってんじゃん。なんでそれを文字にできないの、と聞くと、ど、ど、ど、どう書けばいいか…とどもって震え出したりする。 その様子を見ていて、なんだか新興宗教の洗脳を受けた人たちみたいだなと思った。何かの思い込みとか呪縛が激しすぎて、自分で理解していても手が動かない。 彼らはどこかで得体の知れない洗脳を受けてるんじゃないだろうか? 1案だけ持って来る人も多い。しかも大外しで。意味がわからない、と言うと、いかにこのコピーが優れてるかを必死で主張し始めたりする。 わけがわからない。 僕が新人の頃どういうふうにコピー案を提出してたかというと、まず自分のお薦めを1案、CDやチームに見せる。これがお薦めなんですが…と言って。そうするとたいていは、うーん、どうかなあ、ちょっと違うかもなあ、みたいな話になる。そうですか、じゃあやっぱこういうことですか?と言って代案を出すと、こういうことだよ、最初っから出してよ-、みたいなことになる。もしそれも刺さらなければ、じゃあこの中にありますか?と言って50案ぐらいの束を出す。そしたら、「小霜、使えるヤツ」ということになって、いい仕事が来るようになる。代理店にいれば公平にいい仕事がもらえるということはない。いいコピーを書くヤツにいい仕事が行き、悪いコピーを書くヤツに悪い仕事が行く。広告クリエイターはその繰り返しでのし上がっていく。別に誰かに教えてもらったわけじゃない。それが当たり前だと思ってやって来た。 なぜ若いコピーライターたちは、CDやチームを怒らせたり、(使えねえコイツ)と思わせるような仕事の仕方ばかりするのだろう? ふと思ったのだけど、コピー料や企画料がどうやって決まるのか、という根本のところから彼らは勘違いしているのではないだろうか。 以前、TCCでコピー料の基準を作ろうというプロジェクトがあって呼ばれたことがあるが、他の人が言っていることは僕には理解不能で、僕の言うことも他の人には理解不能だったようで、自然消滅してしまった。なぜ話が合わなかったのか、今ならわかる気がする。 僕が考えるコピーや企画の報酬の方程式はこうだ。 「コピー料や企画料は、感謝の大きさで決まる」。 クリエイティブに限ったことではないと思うが、報酬の大きさは感謝の大きさに比例する。これは報酬というものの大原則だろう。 いくつかの要素を与えて、コピーライターが文章としてそれを整理してくれたとする。その場合も感謝が発生する。それは「手間がはぶけた」感謝だ。報酬は1万とか2万とかそんなものかもしれない。 でもコピーで商品を規定して、その商品の価値が格段に高まったら、コピー料が100万以下ということはちょっとない。 僕のCD料も感謝料。僕のプレゼンで大きな扱いが獲れたら、あるいは守れたら、エージェンシーは500万とか、1000万とか払ってくれたりする。 払う側に共通して存在するのは、「助かった!」という気持ちだと思う。「このコピーでいける!助かった!」「この企画ならいける!助かった!」と。 これはCDとコピーライターの関係にもあてはまる。僕が若い人に発注するのは、新鮮なアイデアを期待してのことだ。そういうものが出て来たらやはり「助かった!」と思う。これでいいプレゼンができるぞ!と。そしたら、コイツ今度メシでも奢ってやろうとか、フリーだったらちょっとコピー料上乗せしないと、とか、次もまた発注しよう、とか思う。逆にどうしようもない1案に固執されたら怒りしかない。そんな時は僕に限らずチームの皆も(コイツ死ね)と思っているだろう。僕らはいつもギリギリで闘っているのだから。 この前自分の広告学校の受講生にそういう話をしたら、そんなふうに考えたこともなかった、広告クリエイティブって自己表現すればいいものと思ってました、と言っていた。 これ、と断定することはできないけども、若い人相手のコピー学校とかコピーの公募賞のあり方に問題はないだろうか。 なぜなら、そこで提出されたコピーは、誰にも感謝されることなどないのだから。 クライアント不在のコピーは、亡霊を相手に書いているようなものだ。それを褒める先生や審査員がいたとしても、「助かった」ではない。傍観者として「いいんじゃないの」と言っているだけだ。有料のコピー学校は、コピーを書く方がお金を払う。もらう側が「いいね」と褒める。実際の仕事とは真逆だ。そこで感覚が狂ってしまうんじゃないだろうか。売れない画家が絵を描いているとそのうちパトロンの目にとまって、この絵はいいねとお金を払ってくれる、コピーでお金をもらうとはそういうものだと思い込んでる人たちが多いんじゃなかろうか。 僕の無料広告学校では、僕はクライアントの立場になって受講生たちの案を見ている。その立場で見て「これは可能性ありそう」「これは試してみる価値あるかも」という案を評価する。僕は広告アイデアのベースは「愛」だと教えている。それは相手に「助かった!」と感じてもらうアイデアが上等だということ。 僕の事務所で働くコピーライターはかわいそうでもある。なぜなら、なかなかコピーが採用されないから。僕はいつも彼らのコピーや企画が実現されるといいなと思うし、そういう方向へ持って行こうとするのだけど、若手の案だけを提出するというわけにもいかないから、自分の案も混ぜておく。するとクライアントが選ぶのは常に僕の案。これが若手コピー、これが僕コピー、と教えるわけでもなく、僕自身、いいじゃないかと思うものを提出しているにもかかわらず。 「自己表現」をモチベーションとして書かれたものと、「助けよう」というモチベーションで書かれたものとの差なのかもしれない。 広告クリエイティブに必要なのは普通の感覚だと思う。チームを、CDを喜ばせて、エージェンシーを喜ばせて、クライアントを喜ばせて、生活者を喜ばせてお金をもらう。僕らがやっているのはそういう普通のことだ。普通の社会感覚、ビジネス感覚を身につけて、それからクリエイティブスキルを身につける、そういう順序じゃないと危ないんじゃないだろうか。

2012年7月27日
by kossii
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「土用丑の日」というマーケティング

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鰻の旬は冬である。 冬眠に備えて秋から冬にかけて栄養を蓄えるから、鰻はその頃がうまく、夏はやせてしまって味も落ちる。 だから江戸時代まで、鰻は冬の食材であった。 その習慣を変えてしまったのが平賀源内だ。 あまりにも夏場に売れなくて困っているという鰻屋の悩みを聞いて、「夏こそ鰻」キャンペーンを展開した。 そのやり方は、マーケティングの基本に忠実だ。 USPとターゲットインサイトを結びつけた。 鰻のUSPは「栄養に富んでいる」。 ターゲットインサイトは、「夏バテしないものを食べたい」。 当時、「夏は『う』のつくものを食べるのが良い」という言い伝えがあり、夏場は梅干しや瓜がよく売れていたらしい。 彼はそこに乗っかるカタチで「丑の日にうなぎ」というコピーを書いた。 クリエイティブ・ジャンプをしたわけだ。 海外のマーケティング教科書で、「靴をはかないアフリカ原住民にどうやって靴を売るか」といったものがあるけども、それと同じことを、とっくの昔に実践してた人がいたってことだ。 僕が無料広告学校で教えていることも、つまりはこういうこと。 ところで鰻の値段が高騰していると報道されているけども、それは春までの話で、今は仕入れ値が下がって安くなっているらしい。

2012年6月29日
by kossii
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カンヌの妖力

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今年のカンヌの受賞作品をあらかた見た。日本勢で圧倒的に印象的だったのはProjectorの”Museum of me”かなあ。もしかすると僕の視点はズレてるかもしれないが。マスとネットの連携CMはどこに評価ポイントがあるのかわからない場合が多くて、悩ましい。 CM表現イッパツ的な、オールドスタイルで僕が最も楽しめたのは”Dads in briefs”だ。これはもう大好き。愛のレベル。嫉妬すら覚える。 http://www.youtube.com/watch?v=FwrZzk-45Jk カンヌとか、海外賞のCMを観て、俺もああいう長尺の面白いのがやりたいやりたいやりたいと、セックスにあこがれる男子高校生みたいなフンガー状態になっているクリエイターは無数にいると思う。でも”Dads in briefs”のようなCMに本当に商品を売る力があるか、そこは計算できているのだろうか。僕らは観客ではなくプレイヤーなのだ。カンヌはプレイヤーをただの観客にしてしまう妖力がある。魔女サッキュバスのように、プロをセックス妄想やりたいやりたい男子にしてしまう。だからカンヌには用心しないといけない。 いわゆる面白CMは、商品の差別点を表現していない場合が多い。CMの中で、この商品は競合に比べてこの点が違っていて…と言い出すと、観る方はとたんにシラケてしまう。エアコンの広告なら、暑い夏にはこれ!ぐらいのところで表現を作った方が、シンプルで強いものになるわけだ。”Dads in briefs”も、商品の内容は何一つ語っていない。ここにCMの大いなる矛盾がある。 “Dads in briefs”のようなCMが成立するには、唯一の条件が必要だ。それは、その商品が、「競合よりも店頭販売力がある」ってこと。ここは重要なポイントなので若手クリエイターはぜひ覚えていてほしい。つまり他よりも安いってことだ。ほっといても店頭で勝てるのなら、差別点無視の面白CMは成立する。もしも商品が高ければ、結局、店頭で競合にひっくり返されてしまう。CMは無駄になる。 残念ながら、僕らが扱うのはメイド・イン・ジャパン製品ばかりで、高いのだ。日本製品はグローバルでも、もはや日本国内でも店頭で負け始めている。ロス市内の家電店でソニーのTVを置いているところはほとんどなく、マニア向けの店に限られるという。そのうち国内の量販店も中韓製品ばかりであふれかえるかもしれない。 コモディティ化が進みきった製品群の、僅かしかない差別点を最大に魅力化するという、野暮で理屈っぽい作業から僕らは当面逃げることはできないだろう。今のところ日本メーカーが生き残る道はそこしかないからだ。それでいてCMは強く、明るく、できるだけクレーマーの標的にならないように!という、ぜんぜん面白くない姿勢で臨まないといけない。でもそれがプロということだし、海外のクリエイターにはできないことだと思う。

2012年6月27日
by kossii
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「獲ったもん勝ち」禁止。

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政局報道を観てていつも感じるのが、広告代理店と政党って似てるな-ってこと。競合プレゼンの際に広告代理店が提案するのは「クライアントにとって良いと信じる案」でない場合が多い。ほとんどが、「クライアントが選びやすい案」だ。獲ること優先。その案で本当に商品が売れるかどうか、キャンペーンが成功するかどうかは二の次となっていたりする。仕方のない話ではある。広告業界もサバイバル時代に突入していて、まず競合に勝たなければ生き残っていけない。悲しいがそれが現実としてある。それに、ゼロベースで耳を傾けるクライアントはどんどん少なくなって、だいたいが競合にした時点ですでにこうと思い込んでしまっている。だから自ずと情報を聞き出して「合わせる」プレゼンになってしまう。まあ、全部が全部そうではないし、素直に商品のヒットを目指して提案したものがスルッと選ばれる場合もある。僕みたいなフリーのCDは、代理店のために競合を獲らないといけないし、クライアントのために商品をヒットさせないといけないしと、ダブルの責を負わされていて、そのあたりのバランス取りがなかなか難しい。いろんな事情が絡み合って、勝ったり負けたりしている中で、なんであんなのが選ばれるんだ?とがっくり来ることは多々あるが、皆必死でやっていることだから文句は言うまいと思っている。 ただ、「獲り方」にも越えてはいけない一線はあるはずだ。明らかなウソをついて獲る、というのは業界に不信の種をまく御法度のやり方だろう。以前、こんなケースがあった。新規のクライアントなのに、予算がでかい。数十億のキャンペーン。僕はかなりいいプレゼンをしたつもりだが、クライアント内で投票となり、1票差で破れた。後日、勝った他店の提案物を見せてもらう機会があって、びっくりした。ちょっと広告をやっていたらこんなのありえないってわかるだろ、という提案のオンパレード。米国のビッグアーチストがその商品のベタベタ応援ソングを作って歌ってたり、石原都知事が新聞紙上で応援演説をしたりしていた。クライアントの中でも、こんなことできるのか、と訝しんだ人はいたらしいが、あの代理店ができると言うんだからできるんじゃないか、ということで決まったそうだ。もちろん、そんなもの不可能に決まっている。しかし、だまされたと気づいたとしても、競合プレゼンやり直しとはならないのだ…。 こんな「獲ったもん勝ち」がまかり通っちゃう広告業界。でもこれを咎めるにも難しいものがあるだろう。だって、お上だって同じことをやってるからだ。 昨日の消費増税はいったい何だろうか。増税しない、埋蔵金でオッケー、と約束して民主党は選挙に勝ったはず。「国民にとって良いと信じる案」ではなく「国民が選びやすい案」を提案して与党を獲り、後からやっぱり無理でした、がきっちりまかり通っている。マニフェストとは何だったのか。比例代表制の意味はどこにあるんだろうか。まさに獲ったもの勝ち、そのもの。 獲った者には獲ったことの責任が生じるはず。約束した内容は、4年間ギリギリまで守り続けないとダメだろう。それでうまくいかなければ、無理なマニフェストを選んだ国民の責任ということにもなる。政治を見る目も育って、重ねるごとに意味のある選挙になっていくだろう。約束したことができないのなら、もう一度マニフェストを作り直して解散総選挙だ。当たり前だ。都知事を広告に引っ張り出す約束を果たせなかった代理店は辞退すべきだろう。当たり前だ。日本の最高意思決定機関がでたらめをやるから、民間もでたらめを見ならうんじゃあないのか。