2017年7月3日
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新著発売されました

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  7月1日に小霜の3冊目となる新著が発売されましたので、そのご報告です。 急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。(宣伝会議) いま広告業界では広告主にもエージェンシーにも「デジタルシフト」の大号令がかかっています。 ただ、そこにはいろんな課題が複雑に絡まっていて、業界として足踏み、もしかすると衰退さえしているように見えます。 ・デジタル広告(≓マス広告とWeb広告の統合、あるいはWebのマス広告的活用)の設計についての知見不足 ・Web動画に対するリターン期待値の不確実性 ・マス系人材(主にクリエイター)とWeb系人材(主に運用者)の分断 といった数々のハードルを乗り越えながら次の広告コミュニケーションをどう最適化すべきか。 クリエイティブという立場から、自分が成果を上げてきた実例を交えて解説しました。 自分はもともと(というか今も)マス系の広告クリエイターとしてテレビCMばかり作って来たのですが、早い段階からデジタルの仕組みに興味があって、手探りでデジタルシフトをやって来ました。 ようやく昨年頃からデジタルで商品を売るためのやり方について、確信めいたものを得られるようになりました。 前著「ここらで広告コピーの本当の話をします。」はいろんな方々に語り尽くされてきたコピーライティングやブランディングといったものを自分流の視点で定義し直すことで、業界内で大きなヒットとなりました。 今回はおそらくまだ誰も体系立てて語ったことのないデジタルクリエイティブのあり方について初めて語る試みです。 その理解の第一歩として、「Web動画」という成果の不確実なものを「WebCM」という確実性の高いものに進化させるためにはどうすればよいか、というところから説明を始めます。 おかげさまで、予約開始と同時にAmazonのマーケティング・セールスカテゴリーで第1位となっています。 「アドバタイムズ」でこの本に絡めたコラムも始めましたがそちらも大きな反響が寄せられているようです。 第1回「マス系とWeb系はさっさとベッド入りなさい。恥ずかしがってないで。」 https://www.advertimes.com/20170626/article253071/ もし手に取っていただければ(社内の回し読みでもいいです!)、そしてもしご感想などいただければ、望外の喜びです。 何卒よろしくお願いいたします。

2017年6月20日
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宣伝会議からの告知(小霜の新著)について修正

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ご無沙汰しております。 ブログを書くのはちょっと久しぶりとなりますが、その理由は新著を執筆していたからです。 仕事の合間を縫うように書いていたもので、とてもブログまでは余裕がありませんでした。 その新著「急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。」ですが、いよいよ7月1日発売となります。 汐留や赤坂などの一部書店では前日から並んでいるかもしれないので、早く手に入れたい!というイラチな方はそちらを覗いてみてください。 さて、一昨日、宣伝会議からのメルマガでその新著の予約販売開始告知が配信されました。 ただその中の、本の解説については僕の確認を取らずに書かれたもので、本の主旨とズレています。 なので、ここで修正したいと思います。 まず、「デジタルでマスの代わりができる」といったタイトルになってましたが、確かに商品、ターゲットセグメントによってはWebはマスの代替となり得る、と本で書きました。 しかしそれは内容の一部であって全部ではありません。 もうマスなんて古い、これからはWebだけでOKさ、なんて主張と捉えた方も多かったのではないかと危惧しているわけです。 そんな手垢のついた、インチキ情報商材みたいなことを言うわけがありません。 書いた内容はそれと真逆です。 Webが逆立ちしてもできない、テレビCMじゃないとできないこともあるし、その逆もあります。 この本の主旨は、マスならではの特性、Webならではの特性をもう一度捉え直してそれらを統合することで成果につなげよう、ということで、それをクリエイティブの視点から書いたわけです。 マスとWeb統合の第一歩は、Web「動画」という不確実なものをWeb「CM」という確実性の高いものにしていくことと思っています。 事例なども多数引用しながらそこを解説しました。 それをやることによって、マスとWebは横つながりの、一続きのものになれるということです。 現状、アマゾンなどに書かれてある解説文などもちょっとおかしいので修正依頼をかけているところです。 ともあれ、Web動画というものについてどうしたらいいかと悩まれている方は多いでしょう。 その救いの一つになるのではと思っています。

2017年3月11日
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肺気胸になりまして

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2月は、どうも、よくないことが起きるのです。 一昨年の2月も末になって右脚を骨折しました。 今年は無事に過ぎてくれよ…と念じていたら、やはりと言いますか、末になって肺気胸が見つかりまして。 なんだか咳がひどく、花粉症か何かだろうと思って抗アレルギーの薬をもらって飲んでも治らない。 おかしいなということでレントゲン撮ったら 「コレ肺気胸になってますよ」。 肺気胸というのは何らかの弾みで肺に僅かな穴が開き、そこから漏れた空気が肺と胸膜の間に溜まっている状態のこと。 それで本来の肺が縮んでしまうんです。 僕の場合は右肺が3分の2ぐらいになっていて、症状としては、 時々ひどく咳こむ 寝るとゼーゼー言う 100mぐらい歩くとちょっと息苦しくなる カラオケがうまく歌えない といったところです。 治療は難しいものではなく、胸膜にチューブを刺して溜まった空気を抜き、そのまま数日入院すれば穴が塞がると。 ところがその数日が取れないんですねえ。 打合せならまだリスケできても、3月は撮影日が8日あって編集日はもっとあって、それらがゴチャゴチャに入り組んじゃってる。 どーにもお手上げ。 撮影や編集を誰かに任せるか? そういうわけにはいきません。 つか、某エージェンシーの人たちが22時に帰ってから僕だけスタジオに残ってのど飴なめながらコピー書いたりしてるんですよ! 肺気胸が見つかった次の日、 「取りあえず一回抜いてみよう」 ということで、空気抜いて、その日はそのまま編集室に直行しました。 残念ながら、数日でまた元の大きさに縮みました…(胸に開けた穴の痕、結構痛い)。 ただこのままいつまでも放っておくと、肺が縮んだまま元に戻りにくくなるそうです。 なのでこうすることになりました。 24日(金)にまたチューブ入れて空気抜きます。 土日だけ様子を見た後、チューブ挿しっぱなしで、機械をくっつけたまま帰宅。 その状態で一週間仕事します。 31日(金)に検査して、治っていることが確認できたら2泊ぐらいで退院。 もし治ってなかったら最長1週間入院。 てなスケジュールです。 関係各所の方々にあまり気遣いされるのもイヤなので黙ってたのですが、そろそろオープンにしないといろいろご迷惑かけるかなと。 呼吸困難で緊急搬送、といった可能性もゼロではないそうですし。 チューブをつけている間は風呂は禁止なので、その期間はたぶん臭い的にもご迷惑かもですがご寛恕ください。 4月頭の入院が終われば通常運転に戻ります。 よろしくお願いします。

2017年1月4日
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謹賀新年 : 今年の小霜は

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  A HAPPY NEW YEAR!   2017年が皆さまの羽ばたく年となりますよう! (この絵はサビニャックが自身の年賀状用に描いたものだそうで、原画がうちの階段に飾られてます)   リンダ・グラットン「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」には、これからは新しい3つのステージが人生に登場するだろうと書かれています。 いろんな他者の人生や多様性に触れながら自分のアイデンティティを探す「エクスプローラー」ステージ。 自由と柔軟性をもって小さな創造的ビジネスを起こす「インディペンデント・プロデューサー」ステージ。 人的ネットワークやスキルの蓄積を元に多種類の仕事を同時に行う「ポートフォリオ・ワーカー」ステージ。 なるほど。 人生100年となると、教育-仕事-老後という一直線のリニアな生き方ではなく、ノンリニアなマルチステージ時代になるのは間違いなさそうで、こういった新しいステージも100年の中のどこかで取り込んでいく必要が出て来るでしょうね。 しかしよく考えてみると、これらは「ステージ」なんだろうか…? 自分がいま進めている広告クリエイティブビジネスは、これらが同時に入り混じって成立しているような気がします。 うーむ、いつの間にか時代の先取りしてたのか…要は「その調子で行け」ってことか…とポジティブ解釈して、2017年も現在のやり方を一層押し進める方向で行こうかなと考えております。 具体的には、 ・デジタルクリエイティブ ここにさらに力を入れます。 現在、マスとデジタルを統合する役割としていろんなエージェンシーさんとアドバイザリー契約を結んでいます。 春にはこのテーマで新著を出す予定です。 ・カルチャーメイキング 以前は広告によって商品が生活カルチャーを生み出すのだ、という意識がありました。 人々の生活習慣から新しくしてしまおうという熱量が。 今年はもう一度そういう失われつつあるスタンスを取り戻しながら案件を見ていこうと思います。 ・ソーシャルソリューション 医療・健康、エネルギー、地方創生、etc. いろんな社会課題系コミュニケーションのご依頼がありますが、今年は本腰を入れる年になりそうです。 そのための勉強もますます必要です。 ・スターメイカー 自分が前に出るのではなく、若いCDを前に立てて自分はバックアップ役に回る。 50歳を過ぎた頃からそういうポジションで仕事したいと思ってたのですけど、いくつかカタチになってきました。 もっと増やしていきたいですね。 ・フィクサー 僕の会社の標語として「ワンストップからノンストップへ」というものがあるのですけど、もはや総合系エージェンシーのトップでもコミュニケーションの全てを担い切れない状況です。 クライアントの課題を解決するために自分がハブとなって、いろんなエージェンシーや組織、スペシャルパーソンをチーム化するという役割も担うようになってきています。 … Continue reading

2016年12月30日
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今年のシメ : 障害について思うこと

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今年のシメに、何か書こうかな。 振り返るといろいろ書きたいことあるなー、と多少逡巡しつつ、障害をテーマにいま感じてることを書くことにしました。 障害者の大量殺人など刮目すべき事件もあり、障害について世の中が考えさせられる年でもありましたしね。 僕は「視覚障害者のホントを見よう」など、障害者の社会復帰運動をサポートしています。 また社会課題解決型の仕事をいくつかやらせてもらってるんですが、そこに障害者の存在をどう考えるか、が関わってくることもあります。 それで社会活動家の方々からお話を聞くことあるんですけども、こういった主張をされることが多いです。 「障害者を特別扱いするな」。 障害者、健常者、と区別すること自体おかしいのだ、と。 その区別が差別の元になるし、障害者に自分を一段劣った存在だという思い込みを与えてしまうのだ、ということです。 同列の人間として扱うべき、なんなら障害者という呼称自体なくしてしまってもいい、ぐらいの。 僕も障害者の端くれ(?)ですが「自分を障害者だと思ってはいけない」と言われたこともあります。 オリンピックとパラリンピックをいっしょにすべきという意見はこの延長線上にある気がします。 考え方として、頷ける部分は大いにあります。 どんな人であっても人間として等しく価値を持つのだ、という理念は美しく、「障害は個性だ」という言い方もよく聞きますが、生物の生存に欠かせない多様性の現出なのだ、とまで思考を行き着かせることもできます。 ただ、こういった「障害者も健常者も区別するな」といった言葉は、健常者から聞きます。 障害者から聞いたことは、僕はまだありません。 その理由の一つはきっと、そこに現実的なジレンマがあることを知っているからでしょう。 僕は3年前に肉腫の大きな手術をして以降、左脚が多少不自由になり、下肢障害4級の障害者手帳をもらっています。 それと同時に警視庁に申請して、公道に駐車できる許可証ももらいました。 こいつが大活躍で・・・。 いろんな制約はあるし、僕もなるだけ交通の邪魔にならない場所を選んで停めるのですが、それでもかなり便利です。 目的地のすぐ近くに停められますから。 僕は打合せやらプレゼン、編集やらで、多い時は1日に4~5箇所ぐらい車で移動しますが、障害者になる前と比べて移動効率は格段に上がってます。 今年は19年前に独立してから最も売上げの高い年になりまして、それはもちろん皆さまのおかげなのですが、こいつのおかげもけっこうあるかな~と。 僕の会社には僕が働けなかった頃に生じた欠損金がかなりあったのですけど、それも消化してしまったので、この調子で行けば来年あたりはとんでもない税金を払うことになりそうです。 逆にもしこの許可証がなかったら? 仕事の効率は格段に落ちるでしょう。 駐車場から目的地まで歩くのが大変です。 駅やバス停まで歩くのも大変ですから、電車やバスを利用するのは現実的ではありません。 そして、稼ぎが落ちて、納める税金が下がる、あるいは働くのをやめちゃった時、僕は社会を支える側から支えられる側に回ることになります。 健常者、大損です。 それに僕は12月30日にこんなものを書いていて、てか、これは早くやっつけちゃって次の本の執筆に移らねばとジャストナウ焦っているぐらいの仕事人間なので、働かないで皆さんに養ってもらう状態は決して幸せなことではありません。 何が言いたいかというと、障害者と健常者を区別する制度は、一方的に健常者が障害者を養うためだけにあるのではなくて、障害者の方も社会に益する、そして自尊心を保つことができるという幸福な関係を成り立たせてもいるということです。 だから、人々の心性的に区別をなくそう、というのは非常に正しい。 社会システムとして区別しなければいけない、というのも非常に正しい。 でも「システムとしては障害者だけど意識としては障害者と感じるな」というのは、けっこう難しいことですよ。 そのジレンマをどうするのか、が課題であると思っているわけです。 それを解決するヒントがありました。 東大の中邑教授の講演で、目鱗が落ちた気がしました。 「近視の人が眼鏡をかけて普通に生活をしている。これを障害とは呼ばない。障害のある人が義足などのデバイスをつけて普通に生活できればそれはもう障害者ではない」。 … Continue reading

2016年11月28日
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この業界の片隅に

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「この世界の片隅に」を観ました。 ショックを受けました。 観終わってから妻とランチしながら映画について少し話をしたのだけど、自分が受けた衝撃、自分の中に澱のように残っているもの、その時にはうまく言葉にできませんでした。 それで、原作のコミックを買うことにしました(紙はすでに廃版になっていたので仕方なく電子書籍を。双葉社には「このビジネスチャンスをどう考えとんの!」と問うてみたい)。 コミックを読み終えて、自分の中でやっとこさ整理がつきました。 この映画・コミックのテーマは、 「普通でいられることの貴さ」 なんですね。 映画もコミックも、僕が最も好きなのは冒頭のシーンです。 主人公がまだ子どもの頃、お使いを頼まれて海苔を届けに行く。 乗せてもらった川船の船頭に、兄の代わりに中島本町まで海苔を届けに行くのです、届けたらお土産を買うて帰るのです、と律儀に、照れながら嬉しそうに話す。 ここに主人公の魅力が全て詰まっていて、映画が始まって数分、タイトルが乗る前のこのシーンですでに僕はうるうる来ていました。 この映画ではとにかく主人公に魅せられてしまいます。 特殊な能力としては、絵を描くのがうまい、ぐらいで、普通に礼儀正しく、普通に律儀で、普通に働き者で、普通にドジで、普通に照れて、普通に笑います。 彼女の一家も、嫁ぎ先の一家も、普通です。 いつもゲラゲラと笑っています。 食糧難、物資難が厳しくなっていってもそれを知恵で乗り越えようとして、失敗しては笑います。 彼らの普通がとてもまぶしく見えるのは、彼らの住む異常な時代とのコントラストでしょう。 出征していた主人公の兄の遺骨箱に入っていたのは石ころが1コ。 それを脳味噌かと思ったと言って笑いますが、異常の中で普通であろうとすることが、主人公たちの戦いだったのかもしれません。 もしこれが70年代の話だったら。 ただ平凡で退屈なだけのストーリーになっていたろうと思います。 この映画について、冗長で退屈だ、と言う人もいます。 そう感じるのも逆説的に正しく、そこには理由があります。 原作のコミックは物語上の1ヶ月が1回、を基本として連載していたようです。 何年何月に呉でどういう事件が起きたかを調べ、それにからめてエピソードを創っているのです。 そうすることで、彼らと同じ時代を同じペースで生きる感覚を共有できるように、という狙いがあったんでしょう。 映画は原作にできる限り忠実に作られており、毎日を淡々と、なるべく過度な表現をしないで普通に描いていく、というペースもまた原作に忠実なのです。 この映画は反戦映画のカテゴリーには入らない、というか、入れにくいです。 憎しみの対象となる固有名詞が極力排除されているからです。 「鬼畜米英」どころか、「アメリカ」「イギリス」という単語すらほとんど出て来なかったのではないでしょうか(僕の記憶では)。 原作では教科書の落書きで東条英機をからかった替え歌の「トージョー」をわざわざ「センセー」に書き換えています。 つまり、戦争を起こしたのは誰だ?戦争が起きる原因は何だ?という、観客/読者の心の矛先がどこにも向かわないようにしているわけです。 悪いのは戦争だ、という短絡的な結論ではなく、異常な世界の一例として戦中があって、そこで生きる普通の人たちのまぶしさに観客/読者の意識を向かわせるという、前代未聞の工夫がなされているんです。 原作者のこうの史代は「夕凪の街 桜の国」でいろんな漫画賞を授賞しこれが代表作となりました。 原爆被災者の投下10年後を描いたもので、「このセカ」よりもシリアスで救いのない話ですが、それまでの彼女の作品はショートコメディばかりです。 気になってそれらもいくつか読んでみたのですけど、やはりテーマは一貫してるんですね。 「普通でいられることの貴さ」 です。 結婚した女性の元へ、彼女が昔好きだった男性から結婚報告のハガキが届く。 … Continue reading

2016年11月18日
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「社訓」は更新するもの

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電通「鬼十則」が社員手帳から削除されるというニュースが業界内で話題となっています。 広告業界人の大方の意見は、 「それはおかしいだろ」 というもので(と言うよりそれ以外のものを目にしない)、競合エージェンシーの社員たちですら違和感を口に出しています。 思うに、あれは広告業の仕事哲学のようなものです。 仕事への向き合い方をどう考えるべきかが主に書かれているわけで、過労死の原因に直結しているかというと僕も疑問に感じます。 ただ、今の電通に必要な社訓として機能しているかというと、僕はそこにも若干の疑問を覚えるのです。 C.I.(コーポレートアイデンティティ)とは、新しい時代に向けて自分たちがどうあればよいか、どの方向に向けて走ればいいか常に点検しようというもので、どんな企業にも必要な考え方です。 そして、その上位理念を具現化するためにはそれに沿った人事評価の見直しがなければならず、そこには社員の行動規範を示す「社訓」の見直しも含まれなければいけません。 たとえば昨年、大手CM制作会社AOI Pro.の新しい企業スローガンを作らせていただきました。 「Creative Alliance」 というものですが、クリエイティブを中軸に置きながらも、様々な産業やベンチャーとつながっていくことで新しい事業創造のできるグループに脱皮していこうという企業姿勢を示しています。 実際、AOI Pro.はいろんな企業を統合したり、TYOとホールディングスを作るなど、総合クリエイティブグループとしての進化を加速させています。 そして、その新しい企業理念を現場の動きに落としこむために社訓を一つ増やしました。 「出会いに臆するな。」 というものです。 広告制作という枠に閉じこもらず、どんどん新しい出会いを見つけていこう、そして、そういう社員を会社は評価するぞ、とここで明言しているわけです。 また以前C.I.作業をやらせていただいたTECDIAという電子技術系企業の社訓も、今年作らせてもらいました。 社員の行動規範が非常に多岐に渡っている上に難解で、なかなか浸透しないという悩みをお持ちでした。 で僕は、「カツカレー」「自転車」「跳び箱」「孫の手」の4つの単語を会社の壁に貼っといてください、と提案しました(実際に今、会社の入り口に綺麗にデザインされて貼られています)。 それぞれに意味があります。 「カツとカレーという異文化が出会うことで人類は未体験にして究極の味、カツカレーを生み出した。異なる文化を持つ社員がぶつかり合うことでイノベーションを生むのだ」 とか。 「誰でも最初は補助輪を付けたり親に支えてもらって自転車に乗れるようになった。新人には会社が補助輪を付けて支えるが、いつかは自走しなければいけない」 とか。 僕が考えたのは、どの言葉にも気持ちよさが必要だろう、ということでした。 気持ちいい言葉は誰にも無理なく、自発的に覚えてもらえます。 会議でも「今のアイデアはまだカツが小さいな・・・」なんて使われるようになります。 そうすることで社内に浸透させていこうという作戦です。 そしてこれも、事業の内容が変化し、また従業員の構成も変化する中でのC.I.から落としてきたものです。 かく言う僕の会社にも社訓めいたものがあります。 「ワンストップからノンストップへ。」 というものなんですが、7年ほど前、no problemを設立した時点で目指していたのはクリエイティブの全てを一括で受注できる組織でした。 その頃はあらゆる仕事を自分の会社に落とそう、という意識でがんばってました。 しかし、それを真逆に切り替えたんです。 もうそういう、一つの組織で全てをこなせる時代じゃない、と感じるようになって来たからです。 … Continue reading

2016年11月16日
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広告は課題設定が9割

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僕は無料広告学校というものを主宰しています。 月曜日の夜19~21時で十数名を相手に広告の基本的なストラテジーの考え方とクリエイティブについて教えてます。 今期は自宅の近所にある町会の集会所をお借りしてます。 その分、受講生たちに神輿のポスターを作らせたり、実際に参加させたりなど町会の手伝いをするということで。 これまでは講義が終わった後はケータリングで軽く飲んだり食べたりしていたのですが、集会所をあまり長く借りたり汚したりもできないので、今期からは2人ずつぐらいの少人数で、近所の料理屋で彼らの個人的な悩みを聞いたり質問に答えたりしています。 昨晩はあるコピーライター志望者から宣伝会議賞について聞かれました。 「防災意識を高めるコピー」というお題があったそうなのですが、何やらモヤモヤしたものがあったようで、それについてどう思うかと。 僕は、 「プロならそういうお題は出さない」 と答えました。 そのコピーから、いったい何が課題なのか読み取れない。 だから成功したかどうか評価する基準も生まれない。 と。 日本は定期的な震災に見舞われる国です。 その被害を最小限に留めるために、やらなければいけない課題は何なのか。 たとえば防災グッズ一式が一家に一つあるだけでずいぶんと違う、ということなら、防災グッズの普及率の低さが課題だ、ということになりますね。 ならば「防災グッズを普及させよう」というのがお題であるべきです。 そうすれば評価の基準もハッキリします。 極端な話、そのために「防災意識」というのは不要かもしれません。 防災グッズは普段の生活でこんな役に立つよ、といった価値観の作り方でもかまわないわけです。 いざという時にその家に防災グッズがあればよいのですから。 仮に、「成人病の怖さについて意識を高めよう」というキャンペーンがあったとします。 そのキャンペーンが功を奏して、成人病とは何と恐ろしいものかという意識が根付いたとしても、それだけでは誰の何の利益にもなりません。 人々が動いてナンボなんです。 そのためにまずやるべきことは、やはり課題探しです。 もし健康診断の受診率が低すぎる、という課題が見つかったとしたら、お題を「健康診断の受診率を高めよう」と言い換えるべきでしょう。 そこに向けて人々を動かすための手法はいろいろあるはずです。 インセンティブを与える、でもいいし、わざわざ行くのが面倒だと考える人が多いのなら、生活動線の中に置けないかという発想でもいい。 いまパチンコホールで健康診断を実施していたりします。 受診する人は無料で、実施する会社はホールからお金をもらいます。 パチンコホールは暇をもてあます高齢者が集う場所となりつつあるので、どうせ無料ならと、彼らは健診を受けるんですね。 それが集客にもつながるので、ホールも潤うという仕組みです。 そういうやり方でも結果オーライなら全然かまわないし、人々を動かすためには広告人にもそのぐらい柔軟な視点が必要な気がします。 僕はいろんな企業からコミュニケーションのご依頼を受けますが、課題のはっきりしないオリエンが多いです。 ふわっとしてるんですね。 少子高齢化の影響は散々言われていることですが、ここ数年の内需の落ち込みは肌感としてかなりキツいものがあります。 生活者の経済格差も激しく、僕らがターゲットとする層は財布の紐を締める一方。 政府の思惑を余所に売りの現場でデフレは進行し続けています。 なので企業も「どうしたらいいんだ」と焦るばかりで、その焦りやこうありたいという願望が戦略とごっちゃになったまま提示されるのです。 こちらからすれば、ふわっとした状態からご相談されてもいいんです。 … Continue reading

2016年11月15日
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宮崎駿と人工知能

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NHKスペシャルで宮崎駿さんが人工知能の作り出すCGアニメに怒ってました。 その怒りっぷりが話題になってます。 僕が番組を観て感じたのは、宮崎駿さんもドワンゴの川上量生さんも、人工知能というものの捉え方を間違えられてるんじゃないかな、ということでした。 人工知能は間違いなく僕たちの未来を変えていくでしょう。 そこに希望を見出す人もいれば、不安を感じる人もいるでしょう。 多くの人たちはこう思っているはずです。 「人工知能は人間に取って代わるもの」 だと。 その象徴が、宮崎さんの人工知能アニメへの怒りだったように僕には見えました。 アニメとは生命を吹き込む実に人間的な作業であり、人間への敬意や愛がなければできるものではない、こんなものに取って代わることができるものか、もしそうなれば非人間時代の始まりだ、彼のそんな気持ちが「世界の終わりだ」という一言に込められていたように感じました。 で、僕はその様子を見て、改めて人工知能というものの存在価値について世の中に大きな誤解があることを再確認した気がしました。 人工知能について僕の捉え方はちょっと違います。 それは、 「人間に代わって、非人間的な作業を代行するもの」 です。 わかりやすい例が、自動運転。 自動運転が普及すると、どういうベネフィットがあるのか。 まず、安全、ということがありますね。 高齢者の起こす事故が社会問題化していることもあって、自動運転への期待は膨らみます。 では、自動運転はドライバーを一掃してしまうのか。 「否」でしょう。 車の運転には、人間的なものと、非人間的なものがあります。 オープンのスポーツカーで風を感じながら疾走する、そういう運転は人間的な作業と言えます。 でも、単にA地点からB地点まで移動するだけの作業なら、非人間的と言えるでしょう。 そういう作業を代行するのが人工知能だと思うんです。 そういった考え方で先頭を走っているのがGoogleです。 彼らはなぜ自動運転を研究・実験しているのか。 それは、運転に対して非人間的な作業と感じる人がいたら、人工知能が代行するので、その時間を人間的な作業に使ってくれ、ということと思うんですね。 彼らの理念はGoogle Glassの開発精神からよく見て取れます。 それは、情報を取得したり、送ったり、あらゆる煩雑な作業を極力省いて、その分、それまで気づかなかった街の美しさに気づくとか、見過ごしてきたふとしたものを発見するとか、そんな人間的な作業に意識を向けよう、というものでした(残念ながら様々な理由から普及には至りませんでしたが)。 宮崎さんは「若いアニメーターはアニメの空じゃなく本物の空を見ろ」とおっしゃったそうですが、この世界や人への畏敬から全てが始まるのだ、という思想においてどこか共通するものを感じます。 電通で過労死事件がありました。 僕には「過労死」という言葉に違和感があります。 若い頃、自分は二徹、三徹などやってましたが、そこに充足感、成長感があったから、人間的な作業だったから、たとえ過労を感じていても進んでやっていたのだと思います。 現在のネット広告は、メディアへの出稿を「運用」し、日々出て来るデータを「分析」する、という作業を繰り返します。 分析したり解釈したりして次の打ち手を考えるのは人間的な作業と言えるでしょう。 でも1ダウンロードあたりの獲得コストを押さえるためのメディア配分、予算配分をひたすらやり続けるといった作業はどこか非人間的な感があります。 そこには成果がごまかしなく目に見えるという素晴らしい点もありますが、そのシステムはまだまだ労働集約的なもので支えられており、ヒューマンエラーも多発しているのが現状です。 あれはそういった作業に追い込まれた結果の悲劇だったのではないかと自分は見ているのです。 … Continue reading

2016年11月11日
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USAという実験は失敗したのか

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実はずっと以前からしっくり来ない、というか、何となくの違和感を抱いていました。 アメリカが「国」である、ということについてです。 僕が持っている「国」という感覚は、同じ血脈の、同じ歴史と同じ文化を有する人たちが、同じ地域に集まって、同じ未来へ進んでいく共同体、といったものです。 誤解なきよう言っておきますが、日本において少数民族は日本国民ではないなどと主張したいわけではありません。 「国」を形成するもの、国民の一体感を生み出すものは何なのか、ここらでちょっと考えてみたくなった、ということです。 こういった感覚はもしかすると日本人特有のものかもしれないなあ、と思ったりもします。 島国的?な発想なのかなあ、他民族や多文化が入り乱れるのが世界的には国として普通のことなのかなあ、と。 しかし、世界では今でも民族の独立紛争が絶えない。 それは経済の損得を超えてでも、という観があります。 やはり人間は本能に近い部分で、まず「血脈」を同じくする者同士でまとまりたい、という原初的な欲求があるんじゃないかと思います。 そこには進化心理学上の合理性もあります。 そう考えると、たとえば日本のような人々の集合体と、米国のような人々の集合体を、「国」という同列で見ていいんだろうか? 何となく僕には、米国って人類史における壮大な実験場のような感覚があるのです。 果たして、全く血脈も歴史も文化も異にする人たちが、一つになることができるのか、という。 それをまとめてきたのは「理念」だったと思います。 ハリウッドの映画やドラマでは「FREEDOM!」って一回は誰かが叫びますよね。 古代とか中世の話でも「FREEDOM!」。 そんな時代や世界にそんな概念あったのかよ、という考証はすっ飛びます。 「Vikings」というドラマはハラハラするぐらいキリスト教を貶めていたけど、「FREEDOM!」はやっぱり何度か言ってました。w 米国ではこういった理念こそが、それこそ宗教以上のアンタッチャブルな最高位に置かれているのでしょう。 それは、理前を叫び続けなければ米国という共同体が根底から揺らいでしまう、ということを知っているからではないでしょうか。 自由主義、民主主義の旗の下に皆一つになるんだ、という共通の強い意思の下に国民はまとまってきたのだと思います。 そして、様々な問題を孕みつつ乗り越えつつ、血脈に頼らず人々は理念で同じ方向へ進むことができるんだ、それを証明してみせる、という奮闘に対して世界は一目上の存在と見做してきた気がします。 強力な経済力、軍事力もあるでしょうが、米国に対する畏敬の根源はそこではないでしょうか。 また、米国は世界の実力者が集まる偉大な研究所、あるいはアリーナ、という面もあったでしょう。 ナチスの迫害から逃れたユダヤの学者が目指したのはアメリカでした。 その中のユダヤ系イタリア人が開発したのが原爆。 また、ナチスV2号の開発者も米国は受け容れます。 彼が飛ばしたのがアポロ。 どんな出自であっても歓迎、という器の大きさが国力の基にもなっていたわけで、米国民自身、そこに誇りと希望を感じていたはずです。 米国で成功する人には桁違いの報償が与えられ、それは「アメリカン・ドリーム」と呼ばれました。 あらゆる業界で秀でた人物は自分の実力を試すためにこぞって米国に渡ります。 しかし今回の大統領選で、僕らには「米国の何もわかっていなかった」という痛感がありました。 アメリカのプア・ホワイトと呼ばれる人たちはアメリカン・ドリームに疲れ果てていました。 自由競争はもう勘弁だと。 アメリカのドアというドアを全て閉めてくれと。 米国の知人がSNSで”States is not United”と嘆いていました。 … Continue reading