2012年5月8日
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np.広告学校を受講する方たちに

クリエイティブ作業とは、マラソンのようなものだ。そうイメージしといてほしい。肌に汗はかかないが、脳に汗をかく。身体は苦しくないがアタマが苦しい。
クリエイティブ作業がマラソンと異なるのは、ゴールを自分で見つけなきゃいけないってところだ。苦しみに耐えて走り抜いたら誰でもゴールにたどり着けるってわけじゃない。宝探し競争と表現する方が正しいかもしれない。ゴールが見えない分、どんな宝が見つかるかわからない分、精神的にしんどい。懸命に走っても何も見つけられないこともある。タフじゃないとやってられない。ものすごく才能に恵まれているのに、精神的な弱さで業界を去って行ったクリエイターは何人もいる。そんなしんどい仕事、泥にまみれた仕事だからこそクリエイティブはお金になる。決して美しい仕事じゃない。np.無料広告学校は実践的広告クリエイティブを教える場だ。だからそんなところからクリエイティブ作業というものを実感させていくのが基本スタンスだ。
課題を出すと、受講生たちが提出してくる企画案・コピー案はだいたい4パターンに分かれる。
まず、ちょっと考えただけの思いつきがそのままカタチになっている案。宝探し競争にたとえると、100メートルぐらい走ったところで「みつけたー!」と叫んでいるようなもの。これはプロとして論外。君は何かを見つけたのかもしれないが、誰でも見つけられるものに金を払う人などいない。これではそもそも商売にならないのだ。でも不思議なことに、クリエイターと肩書きのついた人のほとんどが(残念ながらnp.の社員も含め)、こういう案を堂々と提出してくる。100メートルしか走りたくない人はプロではなく生活保護を受ける人生を選ぶべきだ。
次に、走るには走ったが息切れしてそこをゴールとしてしまう。あるいはゴールだと思い込む。そういう案。クリエイティブ作業はマラソンと違って走り続ける必要はない。途中で休んだってかまわない。大事なことは、そこが本当にゴールなのか、そこに転がっているものが本当に宝物なのか、疑う姿勢だ。どうも違うんじゃないか、と思ったら、しばらく休んでまた走り出す。すると、思いもかけないものが見つかったりする。人は潜在意識でアイデアを考えるから、最初にがーっと考えて、何日か休んでからまた考え出すとパッといいアイデアがひらめいたりする。月曜に課題が出たら、まず火曜日に集中して考えてみる。そしてまた週末にもう一度考える。そういうパターンを身につけてほしい。一夜漬けで考えた企画かどうかは見ればすぐにわかる。
そして、正しい道順をたどり、価値の高い宝をみつけた案。そもそもクリエイティブの価値とは何なのか?僕は単純に、それに高いお金を払ってまでも買ってくれる企業があるかどうかだと思ってる。どんなものがただの自己満足で、どんなものなら提案する価値があるのか。そこも教えていきたい。
最後に、あえて正しい道順をたどろうとせず、わざわざ脇道へ入っていく。あるいはせっかく宝物を見つけているにもかかわらずそれをわざわざ捨てて、しょうもないものを拾ってくる、そういう案。これは広告学校やコピー塾を下手に卒業した人に多い。「ひねり」がないといけないと思い込んでいる。コピーを意図的にわかりにくくしたりする。「このコピーにはこういう意味が裏にありまして…」とか言う。パズルか!広告など誰も見たくないのだ。そういう前提に立たないといけない。だから瞬時に興味をひく、概要が理解できる、そういうものでないといけない。広告を出稿すれば誰もが時間をかけて吟味してくれる、そんな前提は学校の中にしかない。でも、間違った教えに感化された人は、なかなか治らない。一年かけても全く成長のない人がたまにいるけども、このパターンに陥ってる人が多い。
np.広告学校ではCMについては教えない。広告発想の基本を教えながら、具体的にはグラフィック広告を作っていく。日本の広告宣伝費の内訳を見ると大手広告代理店のシェアが圧倒的だけども、広告クリエイティブで生計を立てている人の大部分はCMなどには縁がないだろう。街の美容院のリーフレットを作ったり、パチンコ屋さんのチラシを作ったりして生活している人たちがほとんどだと思う。たとえば街の美容院から店内ポスターを作ってくれと頼まれた。いったいどこから考えるべきか。僕なら、まずそのポスターの目的を聞く。あるいは目的を作る。ただの装飾なのか、お客のリピーター化に寄与させるのか、口コミのネタを狙うのか、etc.。美容院の見込み客、ターゲットは誰なのかを考える。住宅街に立地しているなら付近の住民だろう。ターミナル駅の近くなら、遠くの人も狙えるかもしれない。そしてその美容院に「売り」はあるのか、なければ作れるのか。そういったことを検討した上で、表現として最後にカタチにしていく。どんな仕事でも正しく企画できる脳みそに鍛えていきたい。もちろんこういったシミュレーションはCMにだって役に立つ。広告発想、考える筋道は予算何十億の大キャンペーンも店頭ポスターも根は同じだから。
np.広告学校では受講生同士のつながりを大事にしてほしい。広告を学ぶためには、その前に、人を、世の中を学ぶ必要がある。だから受講生はできるだけいろんな職業、いろんなポジションの人をちりばめるようにしている。僕らが学校をやっている大きな理由も「はあ-、いまの若いヤツらってこんなこと考えてんだ」を実感するところにある。教えながら僕らも学んでるってわけだ。
互いにとって、毎週毎週、夜がふさがるのは時間的にかなりの負担だ。最も恐ろしいのは、1年かけたにもかかわらず受講生が何も成長しないこと。これは僕らの問題というよりは本人たちの意識の問題が大きい。驚くべきことに、マラソンの走り方について講義を受ければ走れるようになると思っている人は意外に多い。そんな馬鹿な話はない。自分で走って苦しむ以外に成長などない。そういう意識でいてほしい。1年を無駄にしないでください。

2012年4月22日
by kossii
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仕事を選ぶな人を選べ

もうずいぶん前、博報堂でコピーライターをしてた頃、ある営業さんが新しい仕事を持ってきた。それは「はがき」だった。化粧品会社のエスティローダーが顧客に送るはがきのコピーを書いてくれというもの。仕掛けのある凝ったDMとかそういうものでもない、ただの官製はがき。当時博報堂はエスティローダーの扱いが全くなく、その営業さんが個人的なつてを利用してようやくそのはがきの仕事をもらってきた。僕はなんじゃその仕事はとやや呆れながらも受けることにした。周囲には「そんなの適当にやれよー」という人もいたが、受けたからにははがきであれ新聞15段であれ頭の使い方は変わらない。先輩ADといっしょに3案ほどラフを作った。それをボード張りしてプレゼンした。手のひらサイズのちっこいボードを並べながら「A、B、C、3案ございまして…」というプレゼンはなんだかギャグのようだったが、得意先は感激したらしい。それがきっかけで大きな競合プレゼンに参加することになった。「Fruition」という画期的な美容液。新聞を中心としたキャンペーンで100万個のサンプルを配りたいと言う。「このクーポンであなたの肌を新品に取り替えよう」というコンセプトでプレゼンしたら、それもたいへん感激されたようで、博報堂は初めて大きな扱いを獲れた。「Fruition」は爆発的に売れ、その後、僕は「Advanced night repair」「Beginner’s kit」はじめエスティローダーの主力商品のほとんどを任されるようになった。当時のマーケティング本部長の素敵なオバサン(失礼)とは今も親しく友人づきあいをさせていただいている。
大きなキャンペーンを任された時、TVCMばかり力を入れて販促物などは外部にぶん投げ、といったやり方をするCDは多い。僕は逆に店頭のPOPとか、そういう小さいものほど力を入れる。空中戦・地上戦などという言い方もあるが、商品によってはTVよりも店頭やチラシの方が重要なものも多いからだ。それに、そういう仕事をきちんとやることが信用になる。
ネットで若い人たちに対して「仕事は選べ、やりたい仕事だけやれ」という人がいる。その真意は僕にはよくわからないが、誰かから頼まれた仕事を選んではいけない。いや、選びようがない。ある人が重要な仕事を持っていたとして、それを見も知らぬ若造に託すだろうか?仕事は定食屋で食べたいメニューだけ選ぶようなわけにはいかない。新人はもちろん、僕のようなロートルであろうと、むしろ誰もやりたくないような仕事を進んでやるべきだ。発注主はそこのところがよくわかっているし、よく見ている。小さな仕事、嫌な仕事を手を抜かずにやってくれる人ほど大事にしてくれる。それが次の大きな仕事、魅力的な仕事につながっていく。つまり信用ができる。
「仕事を選ぶ」という意味が、発注主に迷惑をかけないよう自信の持てる仕事だけやる、などという意味ならまだわかる。もし楽しい楽しくない、あるいは仕事が重要かそうでないか、などという自分目線で仕事を選ぶのなら、そんな人を誰が信用するだろうか。特に僕らのようなクライアント商売の業界は「信用」が非常に重要だ。エージェンシーは決められた納期とクオリティを死んでも守らないといけない。だから広告はTV番組や雑誌編集よりも費用と時間のかかるコンテンツなのだ。途中で仕事に文句を言い出して降りてしまうとか、いい加減な仕事しかしないとか、自分でやると言っておきながら誰かに任せるとか、そういう人にエージェンシーは仕事出さない。普段から仕事してたり、紹介されたり、ある程度名前が売れていたりなど、信用のおける人間にしか仕事はなかなか発注されない。
もちろん発注主によっては、小さい仕事、安い仕事、嫌な仕事をにこにこやっていると、これは都合いいとばかりになめてかかってくる人もいるだろう。そういう人物とは縁を切れば良い。残念ながら、こちらの信用を平気で裏切るような人物はいる。そういう人と付き合いを続けてもろくなことにはならない。でもエスティローダーはそうじゃなかった。そして、たいていの発注主もそうじゃない。相手の心意気を高く評価する。
若い人、フリーの人、これからの人たちは、仕事を選ぶんじゃなく、人を選ぶ姿勢であるべきだ。この人にくっついていれば自分は成長できる、いろんな人脈ができる、夢が見られる、そういう人の仕事ならどんだけひどい仕事でも笑顔で引き受けるべきだと思う。

2012年4月19日
by kossii
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「板」か「テーブル」か

いま、あなたは自宅の、あるいはオフィスのPCでこのブログを見ているだろうか。あるいはカフェでスマホやタブレットで見ているだろうか。だとしたら、目の前に木やガラス、ステンレスの「板」があると思う。それは一般的には「テーブル」あるいは「デスク」などと呼ばれたりもするはずだ。その、「板」と「テーブル」の違いは何だろうか。
その違いは、価値だ。板は売れない。たいした価値がない。しかし、誰かがそれを「テーブル」と呼んだ瞬間、1万円になったり10万円になったりする。人間が、「テーブル」という意味づけをすることで初めて、ただの板は価値を持つようになるわけだ。
価値というものは、人間がどういう意味づけをするかによって決まる。たとえば宝石。こんなものは何の実用性もない。ただ光の透過性が高くて数が少ないというだけのものだ。でも、それを身につけることでその人のステータスがわかる、という意味を持ったり、女性に贈る時に男性の愛情を測ることができる、という意味を持つことによって、何万円、何億円という価値が付加されるわけだ。
そして広告がやっているのは、まさにその意味づけによってモノに価値を付加しようということ。コンビニに行くと、いろんな種類の飲料が並んでいる。のどを潤すだけなら水道水で十分なのに、お茶だけでもいろんな銘柄を取り揃えている。なぜか?それは、僕らが飲料を飲む時、その飲料が持つ「気分」もいっしょにカラダに入れているからだ。チャレンジングな気分、ホッとする気分、本物の気分、馬鹿げた気分、未来的な気分、子供っぽい気分、天然な気分、コンビニにはいろんな種類の気分が並んでいるというわけだ。飲料という商品は、液体+気分で成り立っている。その気分という価値をくっつけているのは広告なのだ。自動車もそう。自動車のラインナップは、その自動車に乗ることの意味のラインナップだ。そして、その意味を作っているのは広告だ。
ツイッターで僕の広告学校の卒業生が、「広告やってても商品変えることはできないし」みたいな愚痴を言っていた。言いたいことはわかる。しかし、広告と商品が別物と思っているとしたら、その考え方は間違っている。広告は商品の一部なのである。飲料で言えば、ぶっちゃけどのメーカーのものも味に決定的な違いはない。だから、広告でどんな気分をくっつけるかによって価値が大きく変わってくる。むしろ広告が商品の大部分であると言っても過言ではないかもしれない。CMがヒットして商品が売れた、というのはCMによってそのモノの意味づけに成功したということだ。
広告というものの役割について一般的な人たちの認識はほぼ間違っている。広告業界自身の認識も不足していると思う。この商品はこれこれこうですよ、と解説するだけが広告ではない。馬鹿げたコントや情緒的なストーリーで生活者をいい気にさせるのが広告の本質でもない。過去に僕がやらせてもらったプレイステーションは広告で機能やスペックを語ったことがただの一度もない。いろんな人が楽しくプレイしている様を描くことで、ただのゲームマシンではない家族や仲間のコミュニケーションマシンなのだ、という意味づけをした。それが、ある人たちには大きな価値として感じられたわけだ。だから売れた。
ツイッターをやっていると、見も知らぬ人からいきなり「アホな広告屋」呼ばわりされることがしばしばある。おそらく、価値のないものを口八丁手八丁で売りつける詐欺師のような者と思われているのだろう。まあそう思われても仕方ない部分はある。しかし、広告は売れないモノをうまいこと売る詐話じゃない。意味づけによって売れる商品を作り出す科学だ。せめて広告に携わっている人はそのぐらいの矜恃を持っておくべきだと思う。

2012年4月15日
by kossii
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Go for it baby 著作権業界

僕のカラオケレパートリーはけっこう狭い。FMとかCMソングとかでふと耳に入って「キタ!」と身体がビビッと反応したものだけ覚える。かなりの選択と集中をする。そしてこないだひさびさに「キタ!」曲があった。B’zの「Go for it baby」。Joan Jettの「I love rock’n'roll」にかなり似ている。下地にしたかもしれない。こういう、刻むようなエレキが僕は大好きだ。PEPSI(サントリー)のCM曲なのでキリンの人たちの前じゃ歌えないかも。しかしそんなのはたいした問題じゃない。これはもう最速で自分のレパートリーに加えないといかん。
そう思い立ったのが発売の数日前。僕はまず、ダウンロード配信で買おうと思った。ダウンロードすれば、そのままiPhoneに保存して仕事の合間に聴くことができる。しかし、B’zの新曲を扱っている配信サイトはなかった。それで次に、ツタヤDiscasでレンタルしようと思った。CDを買ってもいいんだけど、結局PCやiPhoneあるいはカーステに保存して聴くことになるわけで、板を持っていることに意味を感じない。コレクターでもないし。ところが不思議なことに、新譜情報に登録されてなくて予約できなかった。発売前だから?それで僕はやむなくYouTubeでPVを探すことにした。PVはあっという間に見つかった。それをダウンロードし、数回視聴して僕はだいたいマスターすることができた。
そしてCDを手に入れる必要はなくなってしまった…。
悩む。自分がやったことは窃盗みたいなものか?たぶんもう聴くこともないCDを今から律儀に買うべきなんだろうか?音楽業界の人は「買え」って言うだろうな、もちろん。今年の10月から著作物をダウンロードすると罰則が適用されるようになるらしい。訴えられたら僕は罰金を払わないといけないってことか。でも、何のために?それで音楽が売れるようになるんだろうか。なんだか腑に落ちない。どこにも駐車場がないから仕方なく路駐したらキップ切られるあの理不尽な感覚。金をけちりたいわけじゃない。ドネーションとして払ったってかまわない。なぜ罰則よりも先に、お金を払う場所をきちんと整備してくれないのかが、わからんのだ。
以前、博報堂の社長だった東海林さんが名言を残された。「泣く子と時代には勝てない」と。音楽業界はCDが売れないと嘆いているようだが、僕はCDプレイヤーなどとっくに持っていない。周囲でCDプレイヤーで音楽を聴いている人などいない。CDプレイヤーがないのにCDが売れないのは当たり前だ。そういう人たちにCD買わないと罰金だ、というのは無理があり過ぎるんじゃないか。それが業界の前進につながるんだろうか?
時代とは「逆らう」ものじゃなく「乗る」ものだろう。「乗る」とはその時代の人の生活を見て、そこに伴走すること。皆が勝手にダウンロードして音楽を聴いたり映像を見たりしているなら、まずはそこを認めないといけない。認めた上でどうマネタイズするかを考えないと、どんどん無理が出てくると思う。iTunes storeやAmazonやhuluなど、時代を作ったり乗ったりしているサービスにはひとつ共通点がある。それは「ラク」ってこと。人はラクや楽しいことをしたい。iTunesはダウンロード購入がラク過ぎる。価格設定も含めて、このお気軽感はすごい。Amazonは国税局と争っても法人税を日本に払おうとしないし日本人の僕としては国内の本屋から買いたいんだけども、午前中に注文したらその日のうちに届くというシステムがあまりにもラクで楽しすぎて、毎日のように利用してしまう。罰則を設けるというのはぜんぜん楽しくない。発想が真逆だ。もはやこれまでのビジネスモデルは崩れた。そこにこだわっても誰も楽しくなれない。楽しくないものはそのうち滅びるしかない。日本の著作権業界に、そこんとこ理解して、もう一回がんばってほしいと切に願う。
Go for it baby コエテユケ 甘い思い出を 本当の最高はこれから始まる Ah ah ah ah~。
ちなみにこの曲、キーが難しい。どのキーで歌えばいいのかいまいちよくわからない。上手に聴かせるのは大変だ。

2012年4月9日
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発明とマーケティング

ちょうど18歳で大学に入った頃、「パソコン」というものが世の中に登場した。生協でそれを見かけた僕は、なんだかとても欲しくなってしまった。自分にとっていったい何の役に立つのかさっぱりわからなかったが、どうにも欲しくなってしまって、何十万円も学生ローンを組んで買ってしまった。NECのPC-8001という機種であった。買ってから、さてこれをどうしたものかと悩んでしまった。とりあえずゲームを買ってやってみたら、ハマった。当時のゲームはカセットテープから読み込むタイプで、その卸をやっていたのがソフトバンクだ。プログラムも今のように複雑高度なものでなかったので、自分で作ってみたくなって、さらになけなしの金をはたいてPC-9801というさらに高価な機種を買った。ベーシックとマシン語を独学で覚えてシミュレーションゲームをプログラムし、電気屋で販売してもらったりしてた。その頃、業務に使うコンピュータと言えばUNIXのワークステーションが主流であって、「パーソナル」にコンピュータが役立つことって何なのか、自分にはゲームとワープロ、家計簿計算、住所録ぐらいしか想像がつかなかった。当時、パソコンを端末として世界中の人々がネットワークでつながり、SNSで会話する未来を思い描いていた人なんていただろうか?そもそもパソコンの始まりは技術者の練習キットだし、コンピュータも暗号解読器として大きく開発された。コンピュータを発明した偉人たちは今のような使われ方を想像しただろうか。
蓄音機を発明したエジソンも、自分の発明の用途に困っていたようだ。使い道として「遺言の記録」などと書き残している。蓄音機が音楽視聴に利用され始めたのは発明されて20年以上経ってからのことらしい。どうも、偉大な発明というのはすべからく最初は何に使っていいかイマイチ見当がつかない、というもののようだ。ワットが発明した蒸気機関はもともと炭鉱の水をくみ出す装置としてしか使われていなかった。作った本人も機関車に載せるなどという発想は持っていなかった。iPhoneだって、最初の市場導入時からその未来を確信していた人は少なかったんじゃないだろうか。
近頃のニュースでは日本の家電メーカーが青息吐息になっていると聞くが、思うに、根っこの問題はこの「発明の法則」に反したことをやり過ぎているからではなかろうか。つまり「マーケティング」だ。
マーケティングというのは、市場導入のリスクを少しでも回避しようという技術だ。ニーズを先読みすることで、ハズレをなくそうということ。しかし、そこから誕生するものは発明ではない。発明というものは可能性の塊、原石のようなものだろう。それを時代や社会が研磨していくことで、思いがけない宝になっていく、そういったものと言える。日本のメーカーは可能性の原石を世の中に投げ込む、という試みをやって来た。その筆頭がソニーだろう。最近、その意識を忘れてしまっているのが衰退につながっているんじゃないだろうか。
ここ数年、いろんな企業の「宣伝部」が「マーケティング部」に名称を変更している。自分たちで市場を把握して科学的合理的に商品を売るんだ、という意思の表れだ。でも僕は、発明家にはピュアであってほしい。そうじゃないと偉大な発明はできない気がするから。マーケティングはピュアの対極だ。ターゲット、キャンペーン、リサーチといったマーケティング用語が軍事用語であることからも推察できるとおり、軍事戦略を軍事家が民間に応用したのがマーケティングなのである。
そういった汚れ仕事は広告屋に任せればいいと思う。「蓄音機を発明したものの何に使えばいいかわからんのじゃ」と言ってくれれば、「うーん、こいつのターゲットは相続で困ってる金持ちより音楽愛好家と考えるべきじゃないでしょうか。オーケストラの公演を聴く金のない人たちが集う音楽パブに置いておけば…」といった提案をしてあげますから。

2012年3月29日
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コピーの価値

「MAXIS」という会社が、100本1万円でコピーライティングをするサービスを始めるらしい(http://news.mynavi.jp/news/2012/03/27/113/index.html )。「キャッチコピーは1本100円の時代に」が宣伝文句で、反発しているコピーライターも多いようだ。Twitter上で「新世代コミュニケーションプランニング」の著者でもある高広さん(@mediologic)からこれについて意見が聞きたいと振られたので、自分の思うところを少し以下に述べてみたい。
ずいぶん前から感じていたことなのだけど、言葉の値段はどんどん下落する一方だ。ネット社会が成熟し、ブログやSNSで一般人が言葉を発し始めたころから言葉の流通量は爆発的に増えた。モノの値段というものは基本的に需要と供給によって決まるわけだから、必然的に言葉は安くなっていく。エディトリアルの世界ではライターはもうやっていけない、という話をよく聞くし、職業作詞家もほとんど絶滅状態だ。秋元康はおニャン子やAKB48などコンテンツありきで作詞をくっつける、というやり方を発明して生き残っている。コピーライターのコピー料もどんどん下がっている。つまり言葉業界は構造不況なのだ。「百円キャッチコピー」はそんな状況を象徴するサービスのように自分には感じられた。
では今後コピーライターは廉価多売に甘んじて、言葉大量生産マシンにならないと生きていけないのだろうか。そうではないと思う。コピーには百円以上の価値がある。というか、コピーをたくさん書きますよ、安く書きますよ、という発想自体に問題がある。残念ながら、コピーの価値についてわかっている人は広告業界の中にも少ない。そこがいい加減だから、百円コピーなどというサービスが出て来るとおたおたしてしまうのだと感じている。
まず僕のような職業コピーライターがどうやって稼いでいるかを解説してみたい。僕はコピー一行納品して、だいたい数十万円、場合によっては数百万円いただいている。百円コピーを書くライターの千倍以上の報酬を得ているわけだが、インスタント麺とフカヒレ麺よりも激しいこの値段差にはどういう根拠があるのか。
ひとことで表現すると、僕が書くコピーとはいわば「作戦が濃縮された言葉」だ。最近の例を一つ挙げる。東海地方に「izumoden」という大手結婚式場チェーンがあるが、昨年の秋からサービス内容も含めた全体を刷新することになり、新ロゴ、新CM、新ブランドスローガンなどを僕の会社でお引き受けした。採用されたスローガンは、「結婚っていいものですよ。」だ。これを見た人からは、なんでこれがブランドスローガンなのかわからない、と言われることがある。しかしターゲット層を対象とした好感度調査をするとかなり高いポイントが出てくる。なぜか。izumodenのターゲット層は結婚を間近に控えた人たちだ。マリッジブルーという言葉があるが、彼らはただハッピーなばかりでもない。結婚という人生の大きな選択に対して不安いっぱい。そんな彼らに対してどういう言葉をかけてあげると一番うれしいだろうか、と考えて導き出したわけだ。結婚前じゃない人たちに響かなくても、全く構わない。広告はターゲットにだけ伝わればよい。また、ブランドリニューアルにおいて非常に重要なのは、従業員が気持ちを一つにして進むべき同じ方向を見、その方向に自信を持つことだ。izumodenはグループとして葬祭も行っている。人生の冠婚葬祭全てを引き受けますよというスタンスが、ホテルやハウスウェディングなどとの大きな違いだ。ならば、人生全体の中での結婚、という俯瞰した視点を持ち、独自の魅力的なサービスにつなげていく。そこを自分たちのアイデンティティにしようよと。そういう志をコピーの中に含めている。アイデンティティがしっかり確保できれば、じゃあ新しいサービスや施策はこうあるべき、という、あらゆることが生まれてくる礎ができる。そこに大きな価値があるわけだ。他に最近書いたコピーではReebokの「反則?」などもあるが、これはキャッチーさを追い求めただけでなく、今後のブランドの進むべき方法としてナイキやアディダスなどとはっきりポジションを変えていこうという大きな狙いを含んでいる。コピーが「作戦が濃縮された言葉」であると言った意味が少しわかっていただけただろうか。
こういったコピーを書くには時間が必要だ。エージェンシーの営業さんの中にはまるで自動販売機のボタンを押せばコピーがごろんと出てくるかのように思っている人もいるが、そういうわけにはいかない。まずクライアントの意識や状況をしっかり把握して、感覚的に言えば脳ではなく身体の中にいったん収める。課題を自分の肉体化する。そして、考えてみたり、忘れたり、ということを何週間かやると、潜在意識下でいろんなアイデアがどろどろと煮えたぎる。そしてあるタイミングで、その中から「これ」というものが飛び出してくる。いいアイデアを生み出すには潜在意識下のカオスを醸成することが必要なのだ。
「作戦が濃縮された言葉」としてのコピーは全ての指針、土台となるわけだから、クライアントは高い値段をつけてくれる。しかしほとんどのコピーライターがコピーをそういうものとして捉えておらず、書き方も知らない。30年ぐらい前に糸井さんが週刊文春で「萬流コピー塾」というページを連載していた。これはまあ広告コピー「的」な言葉をいろんなものにくっつけてみようよというお遊びだ。たとえば「現代」というお題に「戦争や平和。」とか、「草履」というお題に「我が家に代々伝わる短足を乗せてみた。」とか。物事をいろんな角度から見る訓練としてはおもしろい。でも当然ながらそこに販売戦略やブランド戦略などはない。とても広告コピーの体をなしてはいないわけだが、驚くべきことに巷のコピー学校ではいまだにこれと同じことをやっている。何かお題を出して、生徒にコピーを考えさせ、おもしろいとかおもしろくないとか。そういうところで学び「広告コピーってこういうものなんだ」と思い込んだコピーライター志願者は、実務で使い物にならないことが多い。ターゲット視点について説明しても理解できない。自分視点でちょろっと面白おかしな言い回しを考えるまではできても、いったい誰がどうしてその言葉に数十万円を支払うのか、というところの想像までできないのだ。家族が「おいしいね」と言って食べてくれたからといって、そのラーメンで商売を始めようと思う人は少ないだろう。ビジネス感覚が異常なことになっているわけだ。
コピーと言えばキャッチコピーだ、という一般的な認識にも問題がある。TVCMであれグラフィック広告であれ、広告の基本構造は「キャッチ+結論」だ。CMなら気になるビジュアルやストーリーがまずあって、グラフィックならキャッチコピーやキャッチビジュアルがあって、最後に結論として「この商品を買うとあなたにとってこんなにいいことがあるよ」といった内容のコピーが来る。どちらが重要かというと、結論コピーの方が圧倒的に重要だ。ここがその商品の広告戦略の土台となり、ターゲットの心理変容、態度変容を生み出す。キャッチは文字通り興味をキャッチするためのものであって、言葉でなくたって構わない。キャッチがキャッチとして力を失わないためには、常に変えて行かざるを得ないという矛盾がある。結論コピーはコミュニケーション戦略が変わらない限り何年も変わらない。「名作コピー」といってキャッチコピーを集めた書籍などもあるが、広告クリエイティブ業界のキャッチ礼賛主義は間違っているし、キャッチの書き方しか知らないコピーライターは広告の仕事を知らないと言っても過言じゃないと思う。
百円キャッチコピーがビジネスモデルとしてうまくいくかどうかはわからない。たぶん難しいんじゃないかと思う。これが役に立つのはクライアントにしっかりとした作戦が確立されていて、他の言い回しがほしいとか、そんな場合に限られると思う。でもそれなら社内や知人からアイデアを募集してもさほど結果は変わらないだろう。コピーライターが発想を広げたり思いがけないキーワードを見つけたりするためのアシストとしてなら使えるかもしれない。
僕が嫌だなあと思うのは、こういったサービスが登場することでコピーの価値についての誤認識がますます広まること。「なんであなたのコピーはそんな値段なの?」と聞かれてコピーとは、をゼロから説明するのはかなり煩わしい。

2012年3月28日
by kossii
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必死を恐れる人のアイドル

「俺はまだ本気出してないだけ」というタイトルのコミックがある。なんとなく不満で会社を辞め、なんとなく漫画家を目指すがダラダラとしか生きられないダメ男の日常を描いたものだが、このタイトルはとても秀逸だと感じている。いまの世代の心情、必死になることができない精神構造をひとことで言い当てている気がするからだ。
若いコピーライターたちを見ていて不思議に思うのは、「なぜこいつらは必死にならないんだろう?」ってこと。僕が新人の頃はみんな必死だった。僕もどうやればコピーライターとして「書ける」ようになるのかわからなくて、コピー年鑑を書写してみたりフランス映画の字幕をメモってみたり電車に乗りながら書いてみたりと、まるっきり無駄な努力も含めていろんなことを試した。自分の知る限り、今の人たちはそういう足掻きをやらない。かっこつける。何も調べようともせず机の上でいきなり書き始めて、書いたものをダメ出しされても、また同じことをやって同じことを繰り返すだけ。このままじゃヤバい、何とかしなきゃ、どうしたらいいんだ、という焦りが伝わってこない。いや、違うな。きっと焦りはあるはずだ。やらない、じゃなく、できない、んだろう。正確に言うと、なりふりかまわず必死にやって、自分は何でもない人間なんだという結果を見るのが怖いんじゃないだろうか。そんな気がする。
そして、AKB48。
彼女たちを支えているのは、そんな、必死を恐れる人たちなんじゃないかと僕は見ている。なりふりかまわず必死になるなどという、彼らにとって恐ろしいことをやってくれている、そこにリスペクトが生まれる。昔のアイドルは完璧に「できあがった」状態で皆の前に出てきた。うんこもしないパーフェクト人間だった。AKB48が昔のアイドルと違うところは、必死さを隠そうとしないところだ。いやむしろそれが戦略になっている。彼女たちはできあがっていない。できあがるまでの必死のプロセスを楽しむ「システム」なのだ。
必死さはTVを通じては伝わりにくい。だからライブ活動、密着活動を主体としてきた。コンサート中前田敦子が過呼吸で倒れたとき、主催者側がそれを隠そうとしたところ、秋元康はなぜそれをそのまま観客に伝えないんだと叱ったと言う。「総選挙」や「じゃんけん」がなぜあれほどウケるのか。それは残酷だからだ。必死にスターダムを目指してそれでも突き落とされて涙ぐむ姿に、必死になれない人たちが共感を抱く、そういう構造を作っているんだと思う。AKB48は彼女たちの涙とワンセットなのである。
その中心が前田敦子だった。失礼ながら、彼女はいわゆるアイドルとしての美しさを備えているとは言いにくい。口の悪いネット住民からは「顔面浜田」などと揶揄されても来た。そんな彼女だからこそ、必死さが見えやすい。涙が様になる。ファンは、そこに自分の姿を投影しやすかったんじゃないか。
しかしいま、前田敦子は「AKB48システム」にとってもはや不要の存在とも言える。登りつめてしまったからだ。ドコモ「応援学割」のCMが象徴的だ。彼女の必死さを見せるにはもう過去の映像を見せるしかない。ヒットチャートを見るとSKE48やNMB48が後ろから急激に追いかけてきている。もともとAKB48のファンだった人たちがそちらに移ってたりしているのだが、それはやはり、国民的アイドルとして不動の位置を確保したAKB48よりも彼女たちの方がもっと必死に見えるからではないか。
前田敦子の卒業劇に関しては彼女の意思でという話になっているけども、そんな甘いものか。AKB48はいまや巨大利権だ。いろんな人や組織が複雑に権利を分け合っている。「じゃあ仕方ないね」といった話にはならんだろう。話の発端が彼女からだったとしても、「その方がAKB48にとっていいんだ」という画が描かれているのは間違いないと思う。まあそのへんの真相はそのうち関係筋から耳に入ってくるだろうけども。
今後、AKB48は新陳代謝を繰り返すだろう。登れば登るほどコア価値である必死さが見えなくなるというジレンマと闘いながら。でもアイドル界全体としての「必死」競争はしばらく続くんじゃないかと思う。

2012年3月17日
by kossii
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2児虐待死事件の真の犯人とは

ダンテ「神曲」の中で、最もおぞましいエピソードとしてずっと記憶に残っているのがウゴリーノ伯とルジェリ司教の物語だ。二人はピサの有力者だったがウゴリーノはルジェリの奸計に嵌まり、息子たちと塔の中に閉じ込められてしまう。最初はパンが与えられていたがやがてドアが釘で打ち付けられ、誰も来なくなってしまった。あまりの飢えにウゴリーノは狂ってしまい自分の腕をかじり出すがそれを見た息子たちは自分を食べてくれと言う。この身体はもともとあなたからもらったものだからと。ウゴリーノは取り乱した自分を恥じ、心を平静に保ちながら救いを待つが息子たちは一人ずつ死んでいく。そして彼もついに絶望の中で力尽きていく。憤怒の恨みを抱いて地獄に落ちたウゴリーノはやがてそこに落ちてきたルジェリを捕まえ、その頭をかじって食う。頭が再生するとまたかじる。それを永遠に繰り返す。どれだけかじっても恨みは晴れぬと喚く。ダンテ「神曲」はもちろん創作だけども、このエピソードはピサで実際にあった事件が基になっている。彼やその時代の人たちにとってそれだけの衝撃だったのだろう。
「大阪2児虐待死事件」で懲役30年の判決が出た。僕はこの事件のニュースを見るといつもウゴリーノ伯のエピソードを思い出す。弁護側は「保護責任者遺棄致死罪」を主張していたようだが、幼児を置きっぱなしで炎天死させたとか凍死させたとか、そういう事案と同一視していいんだろうか。キッチンに出て水を飲めないようにドアをテープで塞いだらしいが、それで殺意がなかったと言うならば、ドアを釘で打ち付けたルジェリ司教も自分には殺意がなかったと地獄の審判で弁明できるだろう。
餓死とはどれほど苦しいものだろうか。成人なら努力の限界もわかるだろうし、それが無駄だと知った時どのように心を静めて運命を迎え入れるか考えることもできたろう。天国で次の生を営むことを期待するかもしれない。幼児には餓死という概念も、努力の限界もわからないに違いない。自分の糞尿を食べてさらに苦しみながら、最後まで無為な足掻きをしていたはずだ。
餓死した2児とウゴリーノの違いがひとつある。それは、2児はきっと母親を恨んでいないということだ。僕ら成人が見ている世界と幼児が見ている世界は違う。幼児にとって親は世界そのものなのだ。幼児は理不尽に虐待されてもそれを理不尽だとは思わない。自分が悪いことをしたからだと思う。悪いこともしてないのになぜ?というのは自我が芽生えてからの心理。虐待されて育った子供は自分の中に基準がなくなり、どう行動していいのかわからなくなってしまう。自我が芽生えずそのまま成人になった人のことをアダルトチルドレンと呼んだりもする。この2児は母親のことを恨んだりはしていない。何か悪いことをしたから罰されたのだと、自分たちを責めながら死んでいったはずだ。
下村被告自身も幼い頃に育児放棄されたらしい。親が離婚再婚を繰り返し、自分を顧みなかったと。親に見放されるのも立派な虐待だ。親に捨てられるなんてそれほど自分は悪い子なのかと幼児は思うからだ。そしてそれは成人してからもトラウマとして一生心に刻まれ、行動の判断基準を失わせてしまう。彼女には殺意はあった。しかしそれがいいことなのか悪いことなのかの判断ができなかった、というのが正しい見方だろう。こういう裁判にはオブザーバーとして児童心理学者を招聘すべきと思う。正常な人にはその心の構造が理解しにくいからだ。
ネットなどでは、多くの人たちが「今の若い女は云々」と憤っている。マスコミも、快楽に走って善悪の判断がつかなくなった女が起こした事件、ぐらいの報道の仕方をしている。とても表層的だと思う。この事件の本質として採り上げられるべきは今の「女」ではなく今の「親」だ。これは虐待の連鎖がもたらしたおぞましい事件なんだ。その連鎖を止めなければ、ということをこの事件の教訓にしなければいけない。
長女が通う公立中学では、半分近い家庭が片親だ。今はとてもカジュアルに離婚してしまう時代だけども、離婚もまた幼児虐待。異常行動する子はそこが遠因となっているはず。そういうことを親は考えなさすぎだし、社会も教育しなさすぎと思う。どうしても離婚するなら、子供が十分育って、自分で善悪の客観的判断ができるようになるまで待つべきだ。自分が悪いから捨てられたんじゃない、両親の問題なのだとわかればトラウマにはならないだろう。
もしこの2児が間一髪救助されていたらどうだったろう。あーよかった、神様はいるんですねといったおめでた話で済んだろうか。とんでもない。彼らはこのことが強いトラウマとなって何をするにも自信がなく、人を信頼することもできない人間に育って苦しみながら一生を過ごすことになっていたかもしれない。それでも母親はたいした罪には問われなかっただろう。そのことこそが現代社会の大きな問題なんだ。

2012年3月14日
by kossii
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これは新種の中元歳暮なのか?

僕はホワイトデーというものが嫌いだ。だからお返しなどしない。しないったらしない。僕の周りの女性はみな賢明にも「お返ししてくれー」とは言って来ない。
なぜ嫌いかというと、美しくないからだ。野暮だからだ。
バレンタインデーは、まだいい。いちおう由来がある。皇帝の命に背いて兵士の結婚を祝福し殉教した聖ヴァレンティヌスの故事に因み、愛を祝う習慣が時代や国によって様々に変容したのがバレンタインデーだ。日本だけがなぜか「女性から男性に告白する」ということになっているが、そういう日を利用して告白するけなげさを美しく感じる人が多かったから定着したのだろう。
いったいホワイトデーに何の美しさがあるのか?
チョコをもらったら男はお返しをしないといけないと言う。ではそのお返しとは何なのか?愛情なのか?バレンタインデーに告白された男は、嘘でもその子を好きだよと言わなきゃいかんのか?モノなのか?もらったモノに対して返すのがルールというなら、それはただの中元歳暮じゃないか?バレンタインデー、ホワイトデーとは、中元歳暮のことだったのか?昔はせっけん、今はチョコ、そういうことなのか?だったら「2月3月のごあいさつ。贈り物はチョコがいいですね。」ってCMでも流せばいいんじゃないか?
ホワイトデーには何の由来もない。菓子業界が、2匹目のドジョウを狙ってでっち上げたものだ。男もチョコ買えと。女が勇気出して買ってるんだから、男としてもらったままというわけにはいけないでしょ、やっぱり何か返してあげないとね?返すんならこれがいいよ。やっぱ男なら3倍返しでしょ。ね?計算づくの見合い婆みたいだ。ほっといてくれ。
僕は広告学校で、マーケティングとは「付け目」を見つける作業だと教えている。時代の付け目、心理の付け目。バレンタインデーは女性心理の付け目にうまく入っていけた。それで成功した。ホワイトデーも付け目を見つけたようだが、それは、もらったら返すべき、男ならこうすべき、といった脅迫の付け目に感じる。マーケティングとして美しくないのだ。
ただ、過去、ホワイトデーも悪くないな、と思えることもあった。女性から「お返しとしてホワイトデーにデートしてよ」と誘われた時だ。
ホワイトデーのようなものの存在が認められるとして、それをバレンタインデーの延長と考えるならば、日本の場合は、「女性がもう一段プッシュする日」にしたらいいと思う。昔と比べて女性は強くなっている。だから返せ、じゃなく、だからさらにいく、とした方が自然だし笑えるじゃないか。

2012年2月29日
by kossii
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復興CM。

クリナップは高級システムキッチンで広く知られているメーカーだ。最近、その新製品「ステンレスエコキャビネット」のTVCM1タイプとWEBムービー3タイプを納品させていただいた。この製品はこれまで百~三百万円ぐらいしていたステンレスキッチンを一気に数十万円の価格で提供しようというコンセプトで開発されたもので、それでいてキャビネットの裏の裏までステンレス製という、まさにクリナップが社運をかけたと言っても言い過ぎではない逸物だ。CMとWEBムービーにはCGのスプーンとフォークがキャラクターとして登場するが、その声をスリムクラブにやってもらっている。一昨日からオンエアが始まって、このリンクで観ることができる。http://cleanup.jp/cleanlady-sp/ 評判は上々のようだ。
このCM、僕にとってはただのCMじゃない。もしかすると日本のみんなにとっても意味のある、いわば「復興CM」なのである。どういうことかと言うと、もともとこのプレゼンの依頼があったのは、1年以上前の、昨年の年明けぐらいになる。企画が固まり、制作に入ろうと思っていたその矢先に3.11が来た。クリナップの工場は福島に集中していて、大きな被害を受けた。津波に巻き込まれ、不幸に見舞われた従業員の方たちもいらっしゃった。製造機能が止まり、納品が全くできない状況が何ヶ月も続いた。当然、TVCMなどできるわけない。現場では他社製品を紹介したり、ショールームではお客さんを他社のショールームへ案内したりなど、苦しい営業活動を続けていたと聞く。正直なところ、僕は、会社自体このまま傾いていくのではと不安な眼で見ていた。
それが昨年末に思いがけず、「同じ企画でCM制作してほしい」という連絡がエージェンシー経由で来た。クリナップは立ち直って、今から攻めに転じるのだと。それで震災前に提案のあったCM企画を同じスタッフで制作してほしいのだと。これまでいろんな仕事の依頼を受けてきたけども、この時の感慨深さというのは、ちょっと簡単に言葉にできない。日本の製造業が災禍から雄々しく立ち上がるのを間近に見せていただいた気がした。
僕が初めてクリナップのお仕事をさせていただいたのは5年ほど前。システムバスのCMとショールーム用のムービーを企画制作した。スタッフのがんばりもあってかなり好評で、バスの売り上げもずいぶんと伸びたようだ。その頃ちょうど僕は自宅を建てている最中だったので、システムバスとシステムキッチンをクリナップから安く売ってもらうことにした。「アクリア」というシステムバスはまだ発売前だったから僕が顧客第一号ということになる。システムキッチンは思い切って「S.S.」という最高級ステンレスにした。その最高級キッチンで日々どんな料理が作られているかは、あまりクリナップの人に聞かせたくない。どちらも使っていて感じるのは「誠実さ」。ユーザー視点で細かくいろんなことが考えられている。クリナップの本社は西日暮里の住宅街の中にある。町工場として創業してからそこを動かない。社員を大切にする会社で、身体障害者の雇用に特化した子会社も創設している。初めてプレゼンテーションルームに入った時、社長の訓示が眼に入ってきた。「飲酒運転は身を滅ぼす。」と達筆で書かれてあった。