2018年1月10日
by kossii
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新年の抱負など

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明けましておめでとうございます。

年が明けると同時にインフルエンザが発症しまして、元旦から寝込んでました…。
年始の予定は全てキャンセルになっちゃったのですが、旧年に溜まった疲れとか澱のようなものを吐き出すデトックスになった気がしています。

昨年上梓した「急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。」が自分の予想を遙かに超えて業界内で話題になり、いろんなご相談が寄せられるようになりました。
マス系クリエイターの視点からデジタルを語った本は初めてということ、また、Webを「第6のマスと考える」「Web動画からWebCMへ」などの提唱が好評を持って受け容れられたようです。

僕はずっと「クライアント・ファースト」の理念を守って仕事してきており、発注主のご要望に360°答えるためにはWebも取り込んでいかないといけない、というだけのことでデジタルに手をつけ始めました。
が、従来のマス型広告クリエイティブにWebを取り込む、は言うは易しだったようで、けっこう皆さん苦労されているようです。
テクニックではなく構造的なハードルがあるんですね。
それは組織体制の課題と制作コストの課題の2つに収斂されていくように思われます。

そこで、今年はデジタルクリエイティブ、つまり「マス✕Web」統合クリエイティブにもう一度ちゃんと注力しようと思いました。
「そういうやり方があったか」「それなら自分たちにもできそうだ」というロールモデルを作り続けるということです。

「マス+(足す)Web」ではありません。
現状、ほとんどの広告クリエイティブがこの考え方の下で企画制作されていると思われます。
しかしこれでは同じコストをマスとWebで分割するだけで、コストも増え、人的リソースも足りなくなり、業界の首を絞めることとなります。
効率化のためのデジタルシフトが進むほど苦しくなる矛盾に突き当たります。

デジタル系のセミナーを聴くと、「これからは〇〇すべし」といった論調が多いです。
が、デジタルの強みは柔軟性のはずです。
ケースバイケースで、この案件ならこのやり方がいいのでは、この案件ならこのやり方が、と縦横無碍に解決策としてのクリエイティブを提供できる、それが「マス✕Web」統合の本懐と考えます。

ここをうまく抜けることができれば、広告業界はまた一段ステップをあがることができると自分は信じています。
そのために小ぶりな案件であっても今年はチャレンジャブルなものを数多く手がけたいと思います。
もし何か「マス✕Web」統合クリエイティブでお困りの際はお気軽にお声がけください。

皆さまのビジネスが急上昇しますように。
本年もよろしくお願いいたします。

小霜和也

2017年12月29日
by kossii
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今年最も「へえ~」と思ったこと

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皆さんのSNSタイムラインにはいろんな広告が流れて来ますね。
その中でも洋画の広告ってけっこう多くないですか。
でもなぜか、邦画や地上波の番宣ってほとんど見ないと思いませんか。

どうも日本の映画界やTV局の上層部には、
「Webなんか死ねばいいのじゃ」
という方々がまだまだいらっしゃって、Webに広告を出すなどワシャ許さん!てかんじらしいんです。
でももうそんな時代じゃないでしょうよということで、ちょっとずつ変わりつつあって、僕のところにもWebをうまく活用できないかという相談が局やタレント事務所から来たりします。
それはまあ、じゃあお手伝いしましょうか、ということで普通に仕事するんですけど、そんな中で聞いた話が、今年最も僕を「へえ~」と言わせたものでした。

TV局、特に地方TV局は、番組を作って自分の波でオンエアするよりも、DVDとかにする方が儲かるそうなんですね。
なので、コンテンツとして売れそうなものは最初からDVD化を見越して作るということです。
そこまでは想像つくのですが…。
僕がへえ~と驚いたのは、もはや、自分の波に載せないコンテンツも作り始めてると。
つまり二次利用ではなく純粋に動画配信サービスに売るための番組をTV局が作ってるんです。
その方が利益が上がるからと。

これって、TV局自身によるTVメディアパワーの否定でもありますよね…。
TVって免許事業だから、別会社ならまだしも、TV局としてそういうことができるのかな?
そういう動きが拡がると総務省はどう考えるのかな?
とか、いろいろ考えたりはしますけど、そこまでやらないと局は生存できないって自分たち自身が課題意識を持ち始めているんでしょうね。

TV局ってじつはけっこう旧い体質で、そういう改革を進めようという若手と、過去の栄光よもう一度的な上層部とでけっこうバチバチのようですね。
僕が数年前にちょっと関わった大手ネット局もそんなかんじで身動きが取れなくなってました。

「だからTVはオワコン」とか、そういうことを言う気は全くないですよ。
TVがなくなるってことは考えられないし、むしろそういう言い方に僕はやや嫌悪を感じる方です。
そういうのはポジショントークだから。
広告業界人、とりわけ僕のようにクリエイティブディレクターを名乗る者はクライアント・ファーストでなければいけないと思っています。
僕のことをWeb系のクリエイターであるとか、バズ系クリエイターであるとか誤解している人も多いようですが、どんなクライアントのためにも最適なコミュニケーション設計を作るためには「オレは〇〇しかできない/やりたくない」ではもはや通用せず、Webも取り込んでいかないといけない、そういうスタンスでいようねと言っているだけなのです。
だからこれからも、マス✕Webなのか、Webだけでいいのか、チラシだけでいいのか、案件に応じた最適な提案をしていきます。
それに、僕は広告クリエイターとして成功者の部類であると思います。
でもそれは自分ひとりの才能でそうなったわけではなく、先達が広告ビジネスモデルの枠組みを作ってくれていて、そこに乗っかれたからです。
TVには感謝しかないです。
なので、自分が助けられる部分があるならば、TVを助けていきたい。
それは新聞も雑誌も何でも同じです。
クライアント・ファーストの理念の中でメディアの配分は変えていくかもしれないけど、あのメディアは終わったね、みたいな言い方は絶対にしたくない、そんなかんじです。

今年も広告業界、クライアント筋、メディア筋の皆さまにはお世話になりました。
皆さまによいお年を…と言いかけたのですが、今年、素晴らしい出会いも多々ある中に、やはりクズみたいなのもどうしても混ざって来て、クズみたいなのに意識を取られた分、信頼すべき人たちの仕事を疎かにしてしまったな、と猛省していたりします。
以前から僕は人で仕事を選ぶ、と公言してますが、来年はもう一度ちゃんとそこに戻ろうと思います。
クズみたいなのじゃない皆さまによいお年を。

 

2017年12月18日
by kossii
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俺のハラスメント

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今年は異常な忙しさで、
「これ以上働くと病むぞコレ」
というとこまで行きました。
それでブログも書く余裕がほとんどなかったんですが。
こういうニュースが出て来ちゃったので、いろいろ思うところあり…。

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171217-00010002-bfj-soci&p=1

まず、はあちゅうさんに同情するし、事実だとしたら当然あってはならないこと。
そこは言うまでもなく。

広告業界で何か問題が起きたときにホント困るのは、十把一絡げにされちゃうんですよね。
僕も著名クリエイターの末席にいたりするので、
「どうせ小霜も同じようなことやってるんだろ」
みたいに思ったり言ったりしてくる人いるんです、きっと。
高橋まつりさんの事件の時も、あれについては僕は1ミリも関わってないし、一切責任ないのだけど、
「お前は最低の人間だ」
といった匿名メール来ましたもん。
確かに僕は電通の仕事も引き受けてますよ。
でもそれだけで責めるのなら、電通と取引している数十万人に同じメールを送るべき。

ちなみに僕は自分のポジションを利用して女性に手を出したことは一度たりともないです。
主な理由は、カッコ悪いから。
個人的な美意識では、それよりキャバで振られてる方がまだマシ。

しかし、打合せで暴言を吐いて、誰かを傷つけたことはあったかもしれない。
もしそういう人がいらしたらお詫びしたい。
言葉ってその人の心の中に残り続けたりするから、それが悪い方に行ったのならば、罪深いことをしたと責められても仕方がありません。

正当化するわけではないですが、広告のCDは心理学で言うところの「トンネリング状態」に入りがちなんです。
コンペを獲らなきゃいけない、いいアイデア出さなきゃいけない、クライアントと監督、タレントの言い分を着地させなきゃいけない、などなどのプレッシャーで周囲が見えなくなるわけです。
最近は電通が悪者扱いされがちですが、プロダクションの扱いとかは、博報堂もそうとうに酷かったですよ。
今は改善されてると思いますが。
クリエイティブで勝たなきゃいけないという切迫感がおかしくしてたんでしょう。
夕方プランナーたちを呼びつけて、CDが酒飲みに行って「戻るまでに考えといて」。
で、解放されるのが朝、みたいな。
「博報堂のすごい打合せ」ってタイトルの本が出てるみたいですが、タイトルだけで殺意を覚える人は数百人はいるんじゃないでしょうか。
僕はそういう無駄な打合せが大嫌いで、人の時間をむやみに奪うのもハラスメントだと思っているので、自分がCDとして仕事するときは極力コンパクトな打合せになるよう心掛けてます。
それでも博報堂に在籍していたというだけで十把一絡げにされて責められることあります。

また、思うに、ハラスメントというものの考え方も難しい。
僕の暴言を最も受けたのはやっぱ小西だろなあ。
「こんなコピーただのゴミだ、森林の無駄遣いだ、地球に謝れ!」
ぐらい言ってたからなあ。
その次は佐々木だなあ。
「脳味噌の作りがおかしいんじゃねえの?」
ぐらい言ったなあ。
でも、メシは毎晩奢ってた。
結果的に小西は独立してPool成功させたし、佐々木は100万部以上売るベストセラー作家になったし、僕の弟子だった頃の「ハラスメント」が何らかの下地を作ったかもしれないなあ、とも思う。
二人ともそこは否定しないはず。
だから、すまんかったな、というのはあまりないかな。
ただ彼らはハートが強かったから。
振り返って、もっと線の細いヤツらだったら潰れてたかも、と思うとちょっと怖くなります。
モヤモヤします。

僕の無料広告学校には「叱られたい」という動機で応募してくる人が以前よりも多いです。
上司がビビって説教できない、そういう時代の中で、叱られないと得られない、そう考える若い人もいるわけです。

じっさい無料広告学校では「無料」をいいことに僕は歯に衣を着せるという物言いを全くしません。
もちろん少しでも育ってほしいという、愛みたいなものがモチベーションになってるわけですけど、残念ながらついていけないと途中でやめる人が毎期1~2人はいます。
そう言えば今期はまだ一人もいないな…。
キツいことやらせてる自覚はあるので、そのぶん面倒見ることになります。
メシ奢ったりとかは当たり前で。
Webサイトでは「就職の斡旋はしない」ということにしてるけど、実際はやってます。
面接ではこう言えよ、とかアドバイスして電博に入ったヤツらもゴロゴロいます。
中途入社の課題を一緒に考えてやったりまでします。
頼られたら、断るわけにいかないから。
ところがそういうのに恩義を感じて時間が経っても交流あるようなヤツらはまあ、半分ってかんじかな…。
ハラスメントって、当事者が傷ついたらハラスメントだって話を聞いたことありますが、僕はいつも盛大に傷ついてます。
ただ傷つけあってるだけかもしれないな。
じゃあ何でやり続けるんだ、て聞かれると、何ででしょうかねえ。
それでも「ありがたい」と感じるヤツらが多少はいるから、かな。

地位を利用した「パワー」ハラスメントで言えば、広告主のエージェンシーへのハラスメントはまだまだ酷いものがありますね。
いや、広告主、だいたいはいい人たちなんですが、やはり人間として許せないレベルの人も中にはいます。
そういう人からハラスメント受けてると、いつの間にかそれが基準になって、下の人に対する気遣いができなくなっちゃうんです。
鈍くなる、ということですね。
広告業界のハラスメントの構造は、そういうことかもなあと思います。
気をつけなければいけません。
みんなも、僕も、改めて。

2017年7月3日
by kossii
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新著発売されました

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7月1日に小霜の3冊目となる新著が発売されましたので、そのご報告です。

急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。(宣伝会議)

いま広告業界では広告主にもエージェンシーにも「デジタルシフト」の大号令がかかっています。
ただ、そこにはいろんな課題が複雑に絡まっていて、業界として足踏み、もしかすると衰退さえしているように見えます。
・デジタル広告(≓マス広告とWeb広告の統合、あるいはWebのマス広告的活用)の設計についての知見不足
・Web動画に対するリターン期待値の不確実性
・マス系人材(主にクリエイター)とWeb系人材(主に運用者)の分断
といった数々のハードルを乗り越えながら次の広告コミュニケーションをどう最適化すべきか。
クリエイティブという立場から、自分が成果を上げてきた実例を交えて解説しました。
自分はもともと(というか今も)マス系の広告クリエイターとしてテレビCMばかり作って来たのですが、早い段階からデジタルの仕組みに興味があって、手探りでデジタルシフトをやって来ました。
ようやく昨年頃からデジタルで商品を売るためのやり方について、確信めいたものを得られるようになりました。

前著「ここらで広告コピーの本当の話をします。」はいろんな方々に語り尽くされてきたコピーライティングやブランディングといったものを自分流の視点で定義し直すことで、業界内で大きなヒットとなりました。
今回はおそらくまだ誰も体系立てて語ったことのないデジタルクリエイティブのあり方について初めて語る試みです。
その理解の第一歩として、「Web動画」という成果の不確実なものを「WebCM」という確実性の高いものに進化させるためにはどうすればよいか、というところから説明を始めます。

おかげさまで、予約開始と同時にAmazonのマーケティング・セールスカテゴリーで第1位となっています。
「アドバタイムズ」でこの本に絡めたコラムも始めましたがそちらも大きな反響が寄せられているようです。
第1回「マス系とWeb系はさっさとベッド入りなさい。恥ずかしがってないで。」 https://www.advertimes.com/20170626/article253071/

もし手に取っていただければ(社内の回し読みでもいいです!)、そしてもしご感想などいただければ、望外の喜びです。

何卒よろしくお願いいたします。

2017年6月20日
by kossii
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宣伝会議からの告知(小霜の新著)について修正

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ご無沙汰しております。

ブログを書くのはちょっと久しぶりとなりますが、その理由は新著を執筆していたからです。
仕事の合間を縫うように書いていたもので、とてもブログまでは余裕がありませんでした。

その新著「急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。」ですが、いよいよ7月1日発売となります。
汐留や赤坂などの一部書店では前日から並んでいるかもしれないので、早く手に入れたい!というイラチな方はそちらを覗いてみてください。

さて、一昨日、宣伝会議からのメルマガでその新著の予約販売開始告知が配信されました。
ただその中の、本の解説については僕の確認を取らずに書かれたもので、本の主旨とズレています。
なので、ここで修正したいと思います。

まず、「デジタルでマスの代わりができる」といったタイトルになってましたが、確かに商品、ターゲットセグメントによってはWebはマスの代替となり得る、と本で書きました。
しかしそれは内容の一部であって全部ではありません。
もうマスなんて古い、これからはWebだけでOKさ、なんて主張と捉えた方も多かったのではないかと危惧しているわけです。
そんな手垢のついた、インチキ情報商材みたいなことを言うわけがありません。
書いた内容はそれと真逆です。

Webが逆立ちしてもできない、テレビCMじゃないとできないこともあるし、その逆もあります。
この本の主旨は、マスならではの特性、Webならではの特性をもう一度捉え直してそれらを統合することで成果につなげよう、ということで、それをクリエイティブの視点から書いたわけです。

マスとWeb統合の第一歩は、Web「動画」という不確実なものをWeb「CM」という確実性の高いものにしていくことと思っています。
事例なども多数引用しながらそこを解説しました。
それをやることによって、マスとWebは横つながりの、一続きのものになれるということです。

現状、アマゾンなどに書かれてある解説文などもちょっとおかしいので修正依頼をかけているところです。

ともあれ、Web動画というものについてどうしたらいいかと悩まれている方は多いでしょう。
その救いの一つになるのではと思っています。

2017年3月11日
by kossii
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肺気胸になりまして

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2月は、どうも、よくないことが起きるのです。
一昨年の2月も末になって右脚を骨折しました。
今年は無事に過ぎてくれよ…と念じていたら、やはりと言いますか、末になって肺気胸が見つかりまして。

なんだか咳がひどく、花粉症か何かだろうと思って抗アレルギーの薬をもらって飲んでも治らない。
おかしいなということでレントゲン撮ったら
「コレ肺気胸になってますよ」。

肺気胸というのは何らかの弾みで肺に僅かな穴が開き、そこから漏れた空気が肺と胸膜の間に溜まっている状態のこと。
それで本来の肺が縮んでしまうんです。
僕の場合は右肺が3分の2ぐらいになっていて、症状としては、
時々ひどく咳こむ
寝るとゼーゼー言う
100mぐらい歩くとちょっと息苦しくなる
カラオケがうまく歌えない
といったところです。
治療は難しいものではなく、胸膜にチューブを刺して溜まった空気を抜き、そのまま数日入院すれば穴が塞がると。

ところがその数日が取れないんですねえ。

打合せならまだリスケできても、3月は撮影日が8日あって編集日はもっとあって、それらがゴチャゴチャに入り組んじゃってる。
どーにもお手上げ。
撮影や編集を誰かに任せるか?
そういうわけにはいきません。
つか、某エージェンシーの人たちが22時に帰ってから僕だけスタジオに残ってのど飴なめながらコピー書いたりしてるんですよ!

肺気胸が見つかった次の日、
「取りあえず一回抜いてみよう」
ということで、空気抜いて、その日はそのまま編集室に直行しました。
残念ながら、数日でまた元の大きさに縮みました…(胸に開けた穴の痕、結構痛い)。

ただこのままいつまでも放っておくと、肺が縮んだまま元に戻りにくくなるそうです。
なのでこうすることになりました。
24日(金)にまたチューブ入れて空気抜きます。
土日だけ様子を見た後、チューブ挿しっぱなしで、機械をくっつけたまま帰宅。
その状態で一週間仕事します。
31日(金)に検査して、治っていることが確認できたら2泊ぐらいで退院。
もし治ってなかったら最長1週間入院。
てなスケジュールです。

関係各所の方々にあまり気遣いされるのもイヤなので黙ってたのですが、そろそろオープンにしないといろいろご迷惑かけるかなと。
呼吸困難で緊急搬送、といった可能性もゼロではないそうですし。
チューブをつけている間は風呂は禁止なので、その期間はたぶん臭い的にもご迷惑かもですがご寛恕ください。
4月頭の入院が終われば通常運転に戻ります。

よろしくお願いします。

2017年1月4日
by kossii
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謹賀新年 : 今年の小霜は

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A HAPPY NEW YEAR!

 

2017年が皆さまの羽ばたく年となりますよう!
(この絵はサビニャックが自身の年賀状用に描いたものだそうで、原画がうちの階段に飾られてます)

 

リンダ・グラットン「LIFE SHIFT 100年時代の人生戦略」には、これからは新しい3つのステージが人生に登場するだろうと書かれています。
いろんな他者の人生や多様性に触れながら自分のアイデンティティを探す「エクスプローラー」ステージ。
自由と柔軟性をもって小さな創造的ビジネスを起こす「インディペンデント・プロデューサー」ステージ。
人的ネットワークやスキルの蓄積を元に多種類の仕事を同時に行う「ポートフォリオ・ワーカー」ステージ。
なるほど。
人生100年となると、教育-仕事-老後という一直線のリニアな生き方ではなく、ノンリニアなマルチステージ時代になるのは間違いなさそうで、こういった新しいステージも100年の中のどこかで取り込んでいく必要が出て来るでしょうね。

しかしよく考えてみると、これらは「ステージ」なんだろうか…?
自分がいま進めている広告クリエイティブビジネスは、これらが同時に入り混じって成立しているような気がします。
うーむ、いつの間にか時代の先取りしてたのか…要は「その調子で行け」ってことか…とポジティブ解釈して、2017年も現在のやり方を一層押し進める方向で行こうかなと考えております。
具体的には、

・デジタルクリエイティブ
ここにさらに力を入れます。
現在、マスとデジタルを統合する役割としていろんなエージェンシーさんとアドバイザリー契約を結んでいます。
春にはこのテーマで新著を出す予定です。

・カルチャーメイキング
以前は広告によって商品が生活カルチャーを生み出すのだ、という意識がありました。
人々の生活習慣から新しくしてしまおうという熱量が。
今年はもう一度そういう失われつつあるスタンスを取り戻しながら案件を見ていこうと思います。

・ソーシャルソリューション
医療・健康、エネルギー、地方創生、etc.
いろんな社会課題系コミュニケーションのご依頼がありますが、今年は本腰を入れる年になりそうです。
そのための勉強もますます必要です。

・スターメイカー
自分が前に出るのではなく、若いCDを前に立てて自分はバックアップ役に回る。
50歳を過ぎた頃からそういうポジションで仕事したいと思ってたのですけど、いくつかカタチになってきました。
もっと増やしていきたいですね。

・フィクサー
僕の会社の標語として「ワンストップからノンストップへ」というものがあるのですけど、もはや総合系エージェンシーのトップでもコミュニケーションの全てを担い切れない状況です。
クライアントの課題を解決するために自分がハブとなって、いろんなエージェンシーや組織、スペシャルパーソンをチーム化するという役割も担うようになってきています。

こういったことで(こういったことじゃなくても)何かお役に立てるようであればぜひお声がけください。

そしてやはり大事にしたいことは、

・新しい人たちとの人脈拡大

コ・クリエーションの時代などとも言われますが、やはりこれからは多彩なスキルや考え方を持った人たちとどれだけ繋がっているかが重要と思っています。
なので僕はどんな方とも(「電話料金がおトクになりますよ」的な人は別として)時間を取って会うようにしています。
一見さんもWelcome!

今年もよろしくお願いいたします。

小霜拝

2016年12月30日
by kossii
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今年のシメ : 障害について思うこと

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今年のシメに、何か書こうかな。
振り返るといろいろ書きたいことあるなー、と多少逡巡しつつ、障害をテーマにいま感じてることを書くことにしました。
障害者の大量殺人など刮目すべき事件もあり、障害について世の中が考えさせられる年でもありましたしね。

僕は「視覚障害者のホントを見よう」など、障害者の社会復帰運動をサポートしています。
また社会課題解決型の仕事をいくつかやらせてもらってるんですが、そこに障害者の存在をどう考えるか、が関わってくることもあります。
それで社会活動家の方々からお話を聞くことあるんですけども、こういった主張をされることが多いです。
「障害者を特別扱いするな」。
障害者、健常者、と区別すること自体おかしいのだ、と。
その区別が差別の元になるし、障害者に自分を一段劣った存在だという思い込みを与えてしまうのだ、ということです。
同列の人間として扱うべき、なんなら障害者という呼称自体なくしてしまってもいい、ぐらいの。
僕も障害者の端くれ(?)ですが「自分を障害者だと思ってはいけない」と言われたこともあります。
オリンピックとパラリンピックをいっしょにすべきという意見はこの延長線上にある気がします。

考え方として、頷ける部分は大いにあります。
どんな人であっても人間として等しく価値を持つのだ、という理念は美しく、「障害は個性だ」という言い方もよく聞きますが、生物の生存に欠かせない多様性の現出なのだ、とまで思考を行き着かせることもできます。
ただ、こういった「障害者も健常者も区別するな」といった言葉は、健常者から聞きます。
障害者から聞いたことは、僕はまだありません。
その理由の一つはきっと、そこに現実的なジレンマがあることを知っているからでしょう。

僕は3年前に肉腫の大きな手術をして以降、左脚が多少不自由になり、下肢障害4級の障害者手帳をもらっています。
それと同時に警視庁に申請して、公道に駐車できる許可証ももらいました。
こいつが大活躍で・・・。
いろんな制約はあるし、僕もなるだけ交通の邪魔にならない場所を選んで停めるのですが、それでもかなり便利です。
目的地のすぐ近くに停められますから。
僕は打合せやらプレゼン、編集やらで、多い時は1日に4~5箇所ぐらい車で移動しますが、障害者になる前と比べて移動効率は格段に上がってます。
今年は19年前に独立してから最も売上げの高い年になりまして、それはもちろん皆さまのおかげなのですが、こいつのおかげもけっこうあるかな~と。
僕の会社には僕が働けなかった頃に生じた欠損金がかなりあったのですけど、それも消化してしまったので、この調子で行けば来年あたりはとんでもない税金を払うことになりそうです。
逆にもしこの許可証がなかったら?
仕事の効率は格段に落ちるでしょう。
駐車場から目的地まで歩くのが大変です。
駅やバス停まで歩くのも大変ですから、電車やバスを利用するのは現実的ではありません。
そして、稼ぎが落ちて、納める税金が下がる、あるいは働くのをやめちゃった時、僕は社会を支える側から支えられる側に回ることになります。
健常者、大損です。
それに僕は12月30日にこんなものを書いていて、てか、これは早くやっつけちゃって次の本の執筆に移らねばとジャストナウ焦っているぐらいの仕事人間なので、働かないで皆さんに養ってもらう状態は決して幸せなことではありません。
何が言いたいかというと、障害者と健常者を区別する制度は、一方的に健常者が障害者を養うためだけにあるのではなくて、障害者の方も社会に益する、そして自尊心を保つことができるという幸福な関係を成り立たせてもいるということです。

だから、人々の心性的に区別をなくそう、というのは非常に正しい。
社会システムとして区別しなければいけない、というのも非常に正しい。
でも「システムとしては障害者だけど意識としては障害者と感じるな」というのは、けっこう難しいことですよ。
そのジレンマをどうするのか、が課題であると思っているわけです。

それを解決するヒントがありました。
東大の中邑教授の講演で、目鱗が落ちた気がしました。
「近視の人が眼鏡をかけて普通に生活をしている。これを障害とは呼ばない。障害のある人が義足などのデバイスをつけて普通に生活できればそれはもう障害者ではない」。
なんとシンプルな回答!
今、テクノロジーが急激に発達していて、デバイスによって障害はある程度乗り越えられる。
それどころか、義足のアスリートは走り幅跳びで8m40cm飛ぶ。
より高く飛びたい、より速く走りたいアスリートは自らの足を切ろうと考えるかもしれない。
人を真っ裸な状態で見るのではなくて、デバイスで補助された状態で障害者と言えるかどうか判断すべき時代だろうと。
「眼鏡がないとPC画面がぼんやりします」といった理由で就職できない、なんて話はないわけですから。
デバイスの補助、もそうでしょうし、僕のように法制度による補助によって健常者以上のパフォーマンスを出す、ということもあります。
働いている僕の姿を見て、人として劣った存在だ、と思う人はいないでしょう。
いや、少しはいるかもしれんな・・・。
僕は「杖」「人工骨頭」というデバイスと「駐車許可証」という法制度によって健常者並みになっているのです。

法制度のことで言えば、101人以上の従業員を抱える企業は2%以上の障害者を雇用しないとペナルティが課せられます。
ただし、週20時間以上働かないとカウントにならないのです。
障害者の中には週19時間しか働けない、という人も実際にいるのですが、そういった人たちは働くチャンスに恵まれないことになります。
ソフトバンクなど自主的に20時間未満でも障害者雇用を始めた企業もありますが、たとえば数人で分業することで1カウントにするなど、法制度の見直しもまだ余地があるでしょう。
それで健常者のように働けたなら、不自由なく生活できたなら、その障害者は健常者と同じだよね、と思えばいいんじゃないでしょうか。
いわば、「見なし健常者」とでも言いましょうか。

そして、進化したデバイスによっても、法制度によっても健常者と同じようにはいかない、という人は社会が面倒を見てあげる。
ただそのような人たちを社会復帰させるためにテクノロジーを開発すると、そこからイノベーションが起きることがあると思います。
宇宙空間は極限空間で、いかに少ない物資で、いかにエネルギーロスなくやっていくかの技術を磨き続けているわけですが、そこからイノベーションが生まれた事例は多いのだと以前JAXAで聞きました。
それに似たようなことと捉えてもよいのでは。

「障害者」「健常者」を線引きすることでいろんな歪みが生まれている、というのはそうだと思います。
でも区別しない、というのは現実問題として、全員にとってのデメリットが多い。
ならば、「障害者」「健常者」に加え、「見なし健常者」の三者が世の中には存在するのだ、そして「障害者」をどんどん「見なし健常者」化していくのだ、そんな意識を皆で持てば、社会保障費問題も含めいろんな課題解決に向かっていけるのではなかろうか。
実を言えば、障害者の社会復帰運動にはいろんなクレームが寄せられますが、そのほとんどは障害者からのものなんです。
ひとことで言えば、
「そっとしといてくれ」。
その気持ちの奥底には、何を言われようとどうしようと、結局障害者は障害者じゃないか、という諦観に近いものがあるように感じます。
確かに、そっとしておいてあげるべき人もいらっしゃると思います。
でも、尻を叩くことで健常者以上になれる人もたくさんいらっしゃるはずだし、そういう人はもう障害者として見るべきではないよ、という認識を共有することが大事ではないかと。
そんなふうに考えたりします。

ともあれ、今年はお世話になりました。
来年が皆さまにとって良き年でありますように。

2016年11月28日
by kossii
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この業界の片隅に

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「この世界の片隅に」を観ました。
ショックを受けました。
観終わってから妻とランチしながら映画について少し話をしたのだけど、自分が受けた衝撃、自分の中に澱のように残っているもの、その時にはうまく言葉にできませんでした。
それで、原作のコミックを買うことにしました(紙はすでに廃版になっていたので仕方なく電子書籍を。双葉社には「このビジネスチャンスをどう考えとんの!」と問うてみたい)。

コミックを読み終えて、自分の中でやっとこさ整理がつきました。
この映画・コミックのテーマは、
「普通でいられることの貴さ」
なんですね。

映画もコミックも、僕が最も好きなのは冒頭のシーンです。
主人公がまだ子どもの頃、お使いを頼まれて海苔を届けに行く。
乗せてもらった川船の船頭に、兄の代わりに中島本町まで海苔を届けに行くのです、届けたらお土産を買うて帰るのです、と律儀に、照れながら嬉しそうに話す。
ここに主人公の魅力が全て詰まっていて、映画が始まって数分、タイトルが乗る前のこのシーンですでに僕はうるうる来ていました。

この映画ではとにかく主人公に魅せられてしまいます。
特殊な能力としては、絵を描くのがうまい、ぐらいで、普通に礼儀正しく、普通に律儀で、普通に働き者で、普通にドジで、普通に照れて、普通に笑います。
彼女の一家も、嫁ぎ先の一家も、普通です。
いつもゲラゲラと笑っています。
食糧難、物資難が厳しくなっていってもそれを知恵で乗り越えようとして、失敗しては笑います。

彼らの普通がとてもまぶしく見えるのは、彼らの住む異常な時代とのコントラストでしょう。
出征していた主人公の兄の遺骨箱に入っていたのは石ころが1コ。
それを脳味噌かと思ったと言って笑いますが、異常の中で普通であろうとすることが、主人公たちの戦いだったのかもしれません。
もしこれが70年代の話だったら。
ただ平凡で退屈なだけのストーリーになっていたろうと思います。

この映画について、冗長で退屈だ、と言う人もいます。
そう感じるのも逆説的に正しく、そこには理由があります。
原作のコミックは物語上の1ヶ月が1回、を基本として連載していたようです。
何年何月に呉でどういう事件が起きたかを調べ、それにからめてエピソードを創っているのです。
そうすることで、彼らと同じ時代を同じペースで生きる感覚を共有できるように、という狙いがあったんでしょう。
映画は原作にできる限り忠実に作られており、毎日を淡々と、なるべく過度な表現をしないで普通に描いていく、というペースもまた原作に忠実なのです。

この映画は反戦映画のカテゴリーには入らない、というか、入れにくいです。
憎しみの対象となる固有名詞が極力排除されているからです。
「鬼畜米英」どころか、「アメリカ」「イギリス」という単語すらほとんど出て来なかったのではないでしょうか(僕の記憶では)。
原作では教科書の落書きで東条英機をからかった替え歌の「トージョー」をわざわざ「センセー」に書き換えています。
つまり、戦争を起こしたのは誰だ?戦争が起きる原因は何だ?という、観客/読者の心の矛先がどこにも向かわないようにしているわけです。
悪いのは戦争だ、という短絡的な結論ではなく、異常な世界の一例として戦中があって、そこで生きる普通の人たちのまぶしさに観客/読者の意識を向かわせるという、前代未聞の工夫がなされているんです。

原作者のこうの史代は「夕凪の街 桜の国」でいろんな漫画賞を授賞しこれが代表作となりました。
原爆被災者の投下10年後を描いたもので、「このセカ」よりもシリアスで救いのない話ですが、それまでの彼女の作品はショートコメディばかりです。
気になってそれらもいくつか読んでみたのですけど、やはりテーマは一貫してるんですね。
「普通でいられることの貴さ」
です。
結婚した女性の元へ、彼女が昔好きだった男性から結婚報告のハガキが届く。
彼女の夫が帰宅すると妻の様子がいつもと違うので、何かいいことあった?と聞く。
ありました、と答える。
自分が大切にした人が幸せになることをそのまま幸せに感じてニヤニヤしてしまう、そんな人のそんな感情表現がとても巧みなのですが、まるでファンタジーのようです。
僕は、映画の冒頭のシーンでうるうる来てからなぜか最後まで泣くことはなかったのですけど、それから3日ぐらいこうの史代の他のコミックに触れて、何だか泣きたくなってきています。

かなり斜めな言い方になりますが、個人的にこの映画は、ヒットしない方が良かったんじゃないかとも感じます。
現代が異常になっていることの一つの証左のように思えるからです。
あなたが普通に幸福な世界の住人なら、この映画はただ戦時中の毎日を丁寧に描いただけの退屈なものと受け取るんじゃないでしょうか。
この映画の、登場人物の魅力にやられる人は、自分の世界が何らか異常と感じている人である気がします。
原作では、
「この世界のあちこちのわたしへ」
という1行から物語が始まります(これは原作者の思いを含む重要な1行で優れたコピーと思うのだけど、なぜか映画では広告も含め使われていない)。
僕の棲む広告業界はもう、かなり異常になって来ています。
コンサルとしてクライアント側の話を聞くと、エージェンシーへの不信が溢れかえります。
でもエージェンシーと仕事していると、クライアントにとんでもない目に遭わされている姿を目の当たりにします。
その溝を少しでも埋められないかと微力を尽くしますが、自分ごときの力ではどうにもなりません。
優秀で真面目な人が、また一人、また一人と神経をやられて休職していきます。
僕の業界と「この世界の片隅に」の世界はどこか地続きであるように感じます。
そして、自分もどんなことがあってもあのように笑えていられたらなあ、と今日も落ち込むのです。

2016年11月18日
by kossii
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「社訓」は更新するもの

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電通「鬼十則」が社員手帳から削除されるというニュースが業界内で話題となっています。
広告業界人の大方の意見は、
「それはおかしいだろ」
というもので(と言うよりそれ以外のものを目にしない)、競合エージェンシーの社員たちですら違和感を口に出しています。

思うに、あれは広告業の仕事哲学のようなものです。
仕事への向き合い方をどう考えるべきかが主に書かれているわけで、過労死の原因に直結しているかというと僕も疑問に感じます。
ただ、今の電通に必要な社訓として機能しているかというと、僕はそこにも若干の疑問を覚えるのです。

C.I.(コーポレートアイデンティティ)とは、新しい時代に向けて自分たちがどうあればよいか、どの方向に向けて走ればいいか常に点検しようというもので、どんな企業にも必要な考え方です。
そして、その上位理念を具現化するためにはそれに沿った人事評価の見直しがなければならず、そこには社員の行動規範を示す「社訓」の見直しも含まれなければいけません。

たとえば昨年、大手CM制作会社AOI Pro.の新しい企業スローガンを作らせていただきました。
「Creative Alliance」
というものですが、クリエイティブを中軸に置きながらも、様々な産業やベンチャーとつながっていくことで新しい事業創造のできるグループに脱皮していこうという企業姿勢を示しています。
実際、AOI Pro.はいろんな企業を統合したり、TYOとホールディングスを作るなど、総合クリエイティブグループとしての進化を加速させています。
そして、その新しい企業理念を現場の動きに落としこむために社訓を一つ増やしました。
「出会いに臆するな。」
というものです。
広告制作という枠に閉じこもらず、どんどん新しい出会いを見つけていこう、そして、そういう社員を会社は評価するぞ、とここで明言しているわけです。

また以前C.I.作業をやらせていただいたTECDIAという電子技術系企業の社訓も、今年作らせてもらいました。
社員の行動規範が非常に多岐に渡っている上に難解で、なかなか浸透しないという悩みをお持ちでした。
で僕は、「カツカレー」「自転車」「跳び箱」「孫の手」の4つの単語を会社の壁に貼っといてください、と提案しました(実際に今、会社の入り口に綺麗にデザインされて貼られています)。
それぞれに意味があります。
「カツとカレーという異文化が出会うことで人類は未体験にして究極の味、カツカレーを生み出した。異なる文化を持つ社員がぶつかり合うことでイノベーションを生むのだ」
とか。
「誰でも最初は補助輪を付けたり親に支えてもらって自転車に乗れるようになった。新人には会社が補助輪を付けて支えるが、いつかは自走しなければいけない」
とか。
僕が考えたのは、どの言葉にも気持ちよさが必要だろう、ということでした。
気持ちいい言葉は誰にも無理なく、自発的に覚えてもらえます。
会議でも「今のアイデアはまだカツが小さいな・・・」なんて使われるようになります。
そうすることで社内に浸透させていこうという作戦です。
そしてこれも、事業の内容が変化し、また従業員の構成も変化する中でのC.I.から落としてきたものです。

かく言う僕の会社にも社訓めいたものがあります。
「ワンストップからノンストップへ。」
というものなんですが、7年ほど前、no problemを設立した時点で目指していたのはクリエイティブの全てを一括で受注できる組織でした。
その頃はあらゆる仕事を自分の会社に落とそう、という意識でがんばってました。
しかし、それを真逆に切り替えたんです。
もうそういう、一つの組織で全てをこなせる時代じゃない、と感じるようになって来たからです。
今は何か新しい案件があれば、どの会社にそれを落とすかをまず考えます。
僕が中に入って総合系エージェンシーとデジタル専業系エージェンシーを取り持ったりすらします。
それが功を奏してか、独立して20年ほどになりますが、今年が最も利益の出た年になりました。

電通の「鬼十則」は中興の祖である吉田秀雄氏が書いたものとして、不可侵な存在になっているのでしょう。
だから、改訂する、手を付ける、ということもできず、バッサリ削除するしかないということになったのかなと想像します。
ならば電通を発展させた「ルーツの言葉」として置いておけばいいと思うのです。
社員手帳に載せるとしたら、この時代の社員の行動規範として機能する社訓を新たに作るのが合理的な考え方であるように感じます。
もしかするとそんなことを誰かに言われるまでもなく、とっくにそこまで考えて削除の決断をされたのかもしれませんが。